レストラン
マチネが死んだ夜、私は洋食を食べていた。
「それにしたって、不思議だよ。なんであんなところでサン=サーンスが出てきたんだろうね」
ステンレスのフォークで、茹でたブロッコリーを突き刺して、久留田さんはぼんやりとつぶやくように言った。川沿いのビストロは、手軽とはいかないものの、少し踏ん張れば手の届くような価格帯なりに厳かな雰囲気が流れていた。会話を邪魔しない程度のクラシックと、ウェイターの鈍い足音、時折食器の当たる音がするぐらいで、ともかく賑やかではなかった。効き過ぎた暖房のせいか、あるいは緊張のせいか、妙に喉が渇いた。
「その節は本当に、ごめんなさい。まさかCDがすり替えられていたとは」
「まったくだよ。誰がやったんだか。管理が甘いんじゃないの?」
「本当にすみません。夜は劇場も客席も、どこもかしこも施錠するので平気だと思いまして」
「冗談だよ。CDなんかより高い装置も劇場に置きっぱなしにしてるんだから、そんなところまで気が回る奴なんかいないさ。不運だったってことにしとこうぜ」
事件のあらましはこうである。
劇団 膝下蜃気楼(以下、ひざしき)は団員十数名の中堅演劇グループである。第七回公演『四宮地下街摩天楼』は昼と夜の一日二公演で金土日と行われていた。最終日は撤収のため、ひざしきでは通例昼、即ちマチネ公演を千秋楽としていた。
『四宮地下街摩天楼』は、駅地下街のカレー屋の店主、馬原雀が紆余曲折を経て駅ビル最上階のホテル付きの料理人になるサクセスストーリーのようなそうでもないようなコメディである。サブストーリーとして流れる、カレー屋のバイト、金舎と馬原の娘、紫波のロマンスのラスト、彼らが結ばれるシーンで流れるはずだったCDが、どういう訳か死者の踊りにすり替えられていたのである。
ハッピーでキャッチーでそこそこロマンチックな、例えるなら12月にショッピングモールで流れるクリスマス音楽のようなのを流すつもりが、スイッチを押した途端、悲鳴のようなバイオリンが劇場に鳴り響いたものだから、私はどうしようもなく驚いてしまった。
慌てて音楽を止めたものの、崩れてしまった空気は戻らない。そのあとの展開は惨憺たるものであった。苦しいアドリブを積み重ねた結果、どうにも話にオチがつかなくなって、飛行機であれば不時着どころではなく墜落モノ、千秋楽は最悪の幕引きとなったのだった。
「本当は、それでも誰かが責任を取らなきゃいけないんだがね。こうして食事に付き合ってくれたんだし、辛気臭いのはおしまいだ。ほかの団員にはこっぴどく叱られたと伝えなさい。さ、食べようぜ。ここのビーフシチュー、美味しいんだよ」
久留田さんが言うのに示し合わせたように、機関車よろしく湯気をたなびかせ、ゆっくりと、皿が目の前に運ばれてきた。綺麗な円形に並ぶよう、絞り出されたマッシュポテトは、よほど丁寧に調理されているのか、照明がつやつやと弾けるほどにきめが細かい。濃茶のソースの真ん中に、牛肉が厳かに鎮座している様子は、見る者の唾液腺を刺激するためだけに存在するかのようだ。
「食べないのかい?」
私はそれでハッとして、自分がフォークに手を付けるのも忘れて、料理に見入ってしまっていたことに気づいた。久留田さんに急かすつもりがないのを私は知っている。だのに慌ててフォークとナイフを掴んだ。
「いただきます」
口に含んだ牛肉の繊維は、一本一本ひとりでに解けた。濃厚な味が舌下から脳天まで貫くようにして思考を支配する。思ったとおり、唾液がじゃぶじゃぶと出て、私はすぐに先の失敗の反省などどうでも良くなってしまった。
「これも飲みなさい。これがまた格別でね」と、久留田さんはいつ注文したのか、赤ワインを粗雑な手付きでじゃぶじゃぶと注いで、私に寄越した。促されるままに渇いた喉を潤すと、鼻からワインの香りが抜けていった。
一口、もう一口と口に運ぶうち、腹の底がアルコールと料理で温まって、やおら良い気持ちになってきた。それはどうも久留田さんも同じらしく、赤べこも驚くような真っ赤な顔をして、楽しげに笑っている。
「ひっく、なぁ、きみ。今日の舞台の機材は、みんな車に積んだままかね」
「えぇえぇ、そうですよ。あした事務所にはこんで、おろさなきゃいけません」
「それじゃあ今から引っ張り出しても、戻しておけば問題ないわけだな。決まりだ」
「なにがです」
「なぁ、紫波。きみはどぉして、どぉしてそう素直になってくれないんだ」
「久留田さん、ワイン、こぼれてますよ」
「芝居を聞かないか。なぁ、紫波。きみはどぉして」
「久留田さん、それグラスじゃないです。あの、あれあれあれ」
「どぉしてそう素直になってくれないんだ」
「領収書立てとくやつです。名前わかんないな」
「僕は馬原さんに感謝してる。だからこそこの店は潰した方がいいと思うんだ」
「久留田さん、ワイン離してください」
「やぁ、僕ブルゴーニュ産まれの赤ワイン。陽だまりの中で育ったのに、こんな寒いとこやんなっちゃう」
「お客様、」
「すまない、イタリア産だった?」
「ペルーです。お客様、ほかのお客様のご迷惑になりますので……」
「離してって言ったんです。あぁ、すみません、お会計を」
「ペルーか。それならラマが必要だな。きみ、ラマ役をたのめるかね?」
「お会計五六三〇円です」
「えっ、えぇ……ぼ、僕は荷物を運ぶラマ~……?」
「大きいのしかないや、一万円で」
「あ、僕細かいのあります」
「いいんだ、ここは私が奢るラマ」
「一万円お預かりしまして、大きい方から先に」
「「一、二、三、四」」
「千円と、三七〇円のおつりです」
「はい、どうも。あ、レシートください」
「久留田さん百円落としました?」
「うんにゃ、違うラマ」
「それじゃレジのやつですかね」
「領収書でもよろしいですか?」
「あ、はい。大丈夫です」
「あの、お兄さんこれ落ちてたんですけど」
「あ~~~、レ、レジのですかねぇ……とりあえず預かります」
「あ、すみません」
「こちらま領収書です」
「どうも、ご馳走様でした」
「ご馳走様です」
暗転。
「……こちらまって言ってたな」
ドアベルのSEが一足遅れて響いた。
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