植物園
私が植物園を訪れたのは、仲村という画家先生に雑誌の表紙絵を依頼するためであった。
仲村先生は一昨年無くなった先代編集長と長年ご厚誼にしておられて、彼らは二回りも年が離れていたけれど、良き友人であったそうである。友可愛けりゃそいつの会社も愛いようで、縁者がこの世を去った後にも折々に季節のご挨拶を送ってくださる。そのため昨年入社したばかりの私にとっては大変筆まめでいらっしゃることしか印象にないのだけれど、編集部の中では随分と煙たがられているようであった。
先輩が言うには、先生は大変な空想家でいらっしゃって、そのためかいつも話が逸れてしまって、いつまでも交わらないとのことである。こちらが会話の舵を右に切ると、先生は同じだけ右に切るのだけど、初めからずれているのを全く同じ分だけ両者右に切っては永遠に平行線を描くわけで、そのため話しているうちに煙に巻かれた心地になるらしい。
他の先輩の評価も軒並み同じようなものであった。
「すみません、今日、仲村先生いらしてますか」
「えぇ、今日もお越しになりましたよ」
「どちらにいらっしゃるかわかりますか」
「さぁ、昨日はバラ園にいらっしゃったそうですが。わかりませんね」
「そうですか。まぁ、大人一枚、温室にも入れるのを」
「520円です。領収書は」
「丁度で。ください」
仲村先生の得意は花の絵で、社にあった過去の画集を見ると、多種多様の植物が鮮烈な色彩で並んでいた。花の絵が有名であるから、よく自宅近くの植物園に通っておられて、否、半ば植物園に住むような形で製作を行っているらしい。閉園後の植物園に職員を除いては入れるのは、大胆不敵なノラ猫と先生だけであった。しかし、以前は精力的に個展や展覧会への出品を行っていらしたようだが、ここ二年ははたと途絶えてしまって、あまり噂を聞かない。植物園にいらっしゃるということは、描いてはいるが出さないということなのだろうか。
県立植物園は一つの本館と、それから通じる三つの分館による屋内展示に加えて、小学校の校庭が二つも三つも入りそうな広大な屋外展示があり、したがって警備員は自転車で巡回する。温室、バラ園、藤棚、竹林、水生植物の宝庫たる湖など、展示のバリエーションを上げ始めたら枚挙にいとまがない。
入園口から本館まではかなり距離があり、その間には長い長い並木道が続いている。同種の木を何本か植えた向こうに、また何本か別種の木が植えられており、そのまた向こうには別種の木が、と大体五本ごとに並木の表情は変わる。寒風に吹かれて丸裸の落葉樹を観た先に、濃緑の常緑樹があり、やや新芽の色づいたのがあり、道を歩いて居るだけで四季が何度も廻ってているかのような錯覚に陥った。
やっとのことで本館にたどり着き、受付にて先生の居所を訪ねると、朝ここで入場券を切ってそれきり__展示の導線は一方通行になっていて、出入り口は同じドアであった__だそうだから、屋内にいらっしゃるのは確かなようだった。
受付に礼を言って、入場券に切込みを入れてもらう。配所の展示室は熱帯植物を取り扱っているとのことだ。生物が生まれたのは、深海の暖かい所だというから、植物の展示も暖かい所から、という理屈なのだろうか。
特にそういうわけでは、と受付が言った。
❖
「先生、仲村先生……いらっしゃらないのか」
熱帯園に立ち入ると、肥料の少し酸っぱい匂いと湿気まみれの空気を吸ってしまって無闇にクシャミが出た。土臭い深緑が視界のほとんどを塗りつぶしてめまいがしそうだ。返事は聞こえないが、順路に沿って探していけば、建物の中にいる限りは見つけられるだろう。
アトリウムの天井は高く、展示は立体構造を取っていて、ねじれた上り坂が各所にあった。古い正方形のタイルがお行儀よく並ぶ舗装路には、時折管理者が残していった水たまりがあり、不意に踏ん付けた音が長々と反響した。
柳暗花明の中からがさりと聞こえて、振り返ってみるが、人違いだ。アトリウムのガラス窓を開けるための弁が壁からせり出しているのだが、どうやらそれの錆を落としているようだった。半分錆の落ちて覗いた地肌は、植物の中で悪目立ちしないよう、薄緑色で拵えられている。錆まみれで工夫が台無しになったから落としているのか、単にさび付いて回らなくなったから落としているのかはわからない。
植物本位の空間を歩いているから、徐々に汗ばんできて上着を脱ぐ。湿気が身体にまとわりついて、シャツの襟が首に張り付く感覚が不愉快だった。先生を見つけてから正せばいいだろう、ネクタイを緩めて、少しだらしない格好のまま人口熱帯を進んだ。
熱帯園も終わりに近づいたころ、坂の上の方にイーゼルを見つけた。きっと先生に違いない。あっちの上の方はどう行けばよいのだろう、一方通行ならば歩いていればたどり着くはずだ。
「……おかしい」
イーゼルの見えたところにたどり着く前に熱帯園の出口に来てしまった。一方通行であるのだから既に通り過ぎたわけはない。ひょっとして、一度熱帯園を出て、再び熱帯園に変える導線になっているのだろうか。
非常灯ともる鴨居をくぐると、有用植物なるプレートが目に入った。植物名のプレートを見てみると、芋やネギ、アスパラガスと馴染みのあるものばかりだ。カカオの黄色い実が高い位置にぶら下がっている。
熱帯園の規模に比べて、有用植物ゾーンはとても短かった。
砂漠園、サバンナ園、高山植物園、冷房室、暗室、水生植物ゾーン。順路案内に従うままに進んで、結局受付まで戻ってしまった。
「すみません、もう一周しても構いませんか?」
「えぇ、勿論」
「……あれ?」
熱帯園に再び入ろうと足を踏み出した途端、何かを踏んだ。緩い曲面が蹴られて転がって、追ってみると、小学校で使うような見覚えのあるクレヨンである。油のにじんだ巻紙にはきいろと書かれているが、何度も何度も重ね塗りに使ったせいで、様々な色が混じっている。
仲村先生は油彩画家だと聞いているから、これは誰か、社会科見学にやってきた小学生や幼稚園児が落としていったものだろうか。ひょいと摘み取って、巻紙についてしまった靴墨を指の腹で拭った。
「あの、これ、落し物です」
受付に差し出す時、アクリル板で隔てられた向こうのカウンターにクレヨンの箱が見えた。随分年期が入っているようで、箱の隅が色褪せている。
「あぁ、見つけてくださったんですか」
「もしかして、そのクレヨンって」
「そう、この辺りでひっくり返してしまって、何本かまだ見つかってないんですよ。でも、職員さんや他のお客さんがちょくちょく見つけてくださるので……ほら、暖色はそろってるんですよ」
「ふむ……あとは?」
「あとは緑と紫ですね。植物園だから、緑は見つかりにくいのかもしれません」
「なるほど。もう一周するので、ついでに探してみますよ」
「本当ですか? ありがたいなぁ」
きいろのクレヨンを受付に預け、再び熱帯園の入り口を跨ぐ。それとなく足元に注意を向けながら、先程イーゼルを見かけた場所を目指し、土臭い空気を肺に出し入れしながら、歩いて歩いて歩いた。
イーゼルは無くなっていた。もう片付けて、先生は撤収してしまわれたのだろうか、そうなら受付の老人も教えてくれたらよかったのに。それとも撤収したのではなくて、場所を動いたのだろうか。
一度入場してしまったのだからしょうがない。進んだ先で先生に会えればいいのだが、先生とクレヨンと、どっちが先に見つかると思う? と、一人賭け事にいそしみながら、熱帯園、有用植物ゾーン、砂漠園、サバンナ園、高山植物園、冷房室、暗室、水生植物ゾーン。
「あっ」
水生植物ゾーンを抜けて、受付に入った途端、円柱を踏んで転びそうになる。どうやらクレヨンの方が先だった。
「見つかりましたか?」
「……えぇ、むらさき」
「みどりはどうです?」
「見つかりませんでした。ついでに先生も」
「そうですか、それは残念」
「イーゼルも見失ってしまいましたし、ひょっとしてお帰りになったんでしょうか」
「イーゼル? そんなの持ってきてないですよ」
「でも確かに見たんです、イーゼル」
「……あぁ、イーゼルを持った人、そういえば見ましたよ。職員さんでしたね」
「そうなんですか? にしてもなんででしょう」
「植物の説明書きを、ほら、額装して飾るつもりか、飾っていたかどちらかでしょう」
「なら、私がイーゼルを追いかけたのはまるで見当違いだったんですね……。あの、お聞きしたいんですが」
「何です?」
「貴方はずっと受付にいらしたんですか?」
「えぇ、少なくともあなたが温室に来てから、それ以前からですが、今日はずっと受付に」
「それでは私が入った後に、先生を見かけませんでしたか? 画材を持っていらっしゃるはずなので、きっとすぐにわかると思うのですが」
「さぁ、案外わからないものですよ」
もはや落胆するほかない。今日一日は何処をどう回っても永遠に先生を見つけることができないという気さえしてきた。案外、明日出直したら簡単にお会いできるかもしれない。
「そうですか……すみません、ありがとうございました。あの、明日も来ますので、もし画家の仲村先生がいらしたら、くのろく文芸社の者が来たと伝えていただけますか」
受付に名刺を渡すと、老人はそれを掲げて光に透かしたり、くるくるとひっくり返したり、まるで真偽を見極めるようにひと時の間眺める。つやつやと光沢加工に光を反射させて、老人は顔を上げる。丸い目をしている。
「君、くのろくの子だったの」
「はい、ご存じなんですね」
「うわ~、ごめんね、そうならそうと。意地悪しちゃったみたいで悪いね」
「はい?」
「先生って僕のこと」
老人は樫の枝のような人差し指を己の顎にくっつけて、そのまま深深とお辞儀をした。
「初めまして、画家の仲村です」
「あっ、初めまして、くのろく文芸社の佐々木と申します」
「で、どうしたの?」
「えっと、その、すみません、少々整理してもよろしいでしょうか」
「いいよ」
「……ありがとうございます。えぇと、今日は先生にお願いがありまして」
「もういいの? 整理」
「はい。その、弊社の月刊くのろくが来々月で百号になるんです。其の表紙絵をぜひとも先生にお願いしたく……」
「あぁ、そうかそうか。この度はおめでとうございます」
ぺこりぺこりと互いに腰を折って、植物園の受付で話し込むのは何処か滑稽である。
「竹中君が無くなってからもう二年になるからねぇ。最近は編集部の方にもお邪魔してないし、みんな元気にしてるかい?」
竹中というのは一昨年無くなった先代編集長の名である。私は彼が無くなってから入社したため、どうにも聞き馴染みのない名前だ。私にとってなじみのある編集長は当時副編であった芦田という男であり、当然竹中故編集長は写真の中の人物だ。何でも異例の若さで編集長に抜擢出世し、また四十代異例の若さで亡くなったそうだ。仲村先生は子として六十二になられるらしい。竹中故編集長と仲村先生は二回りも離れているが、大変懇ろにしておられたそうだ。
「えぇ、私は昨年入社したばかりの新参者ですから、あまり以前と比較はできませんが,百号目ですから、編集室は活気づいているように思います」
「それは素敵ですねぇ……。何の絵にしましょうかね」
「あの、手元のスケッチブックは……?」
「あぁ、これね、クレヨン画」
「先生のクレヨンだったんですか」
「画材を持ってるからと言ったって、案外わからないもんでしょ?」
「えぇ、本当に。油彩の方と聞いていたので。そもそも、受付にいらっしゃるとは」
「僕も植物園に通い過ぎてね、職員さんとは仲良しなのさ」
「だからお仕事なさってるんですか」
「油が混じってるクレヨンもあるよ。僕から頼んだんだ。一度受付ブースに入ってみたくてね。平日だからお客さんもあんまり多くないし、安中さん、館長さんがOKっていうもんだから」
「はぁ、なるほど」
「今のでよくわかったね」
「本当はあまりわかっていません」
「素直だね。冒険にロマンは?」
「私は好きですが」
「僕は受付カウンターに入るお手軽冒険にもロマンを感じるんだよ」
「はぁ、なるほど」
「お、わかったかい?」
「少しは。何となくですが」
「はは、別にいいよ。でもきみは今日、できたんじゃない? お手軽冒険」
「あぁ、そういうことなら。できました。もうへとへと」
へとへとと音に出した途端、急に足が重くなったように思われる。広い温室を、休みなく二周もしたので、足が棒のようだ。
へとへと、へとへとね。と、何度も口で言って、仲村先生はけろりと笑っておられた。
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