3・雨ざらし

 雨の日に、散歩などするものではありません。

 しみじみとそう思います。


 しとどに降る雨が梢を叩いて、むやみに広い公園は人気ひとけもないのに騒がしく、こんな日に出歩くなどと我ながら物好きだと感じつつ、暇に任せて時折傘などくるくるさせて歩いておりましたら、遊歩道を外れた芝の上、名前もよく知らない在り来たりな広葉樹の根元に、幹のそれとは違った茶色いものを見つけてしまいました。

 ”拾って下さい”

 そう書かれた四角な形はボール紙でできた箱でした。ミカン箱ほどの大きさです。

 どうしてこういう時、人は箱の大きさをミカン箱で例えるのでしょうか。ミカン箱など貰った覚えもないのですが、概ね全員共通の大きさの想像が働くようで、不思議なものです。柿箱だとかキャベツ箱だとかは聞いたことがありません。

 それは兎も角、ミカン箱に掛かれた文字。これはもう、明らかに捨て犬か捨て猫のためのものでしょう。

 際限もない雨音ばかりが鳴り続く閑散とした公園で、薄暗いような木の根に置き去られて濡れそぼったボール紙の頼りないこと。いかにも哀れを誘います。ああ、要らぬものを見てしまったなあ。そう思うのも当然で。構わず通り過ぎたいと願う想いと裏腹に、つい足はそちらへ向かって進みました。

 捨て犬なのか、捨て猫なのか、どのくらいの大きさのものが入っているのか、一目確かめようとの好奇心が働いた――というわけでは、ありません。何しろ、中身は一目瞭然だったのです。

 人でした。

 由もなく足音を忍ばせて、骨の一箇所が折れたような古びた蝙蝠こうもり傘の陰からそっと窺い見もって近づけば、それが男の人であることが知れました。何を思うかその人は、手足を小さく折り畳んでミカン箱に収まっているのです。無論、納まりきるものではありませんから、要は箱の内側で三角座りをしているわけです。剥き出しの膝小僧に、素直そうな黒い髪に包まれた丸い頭が乗せられて、白い項が覗いていました。梢が雨垂れを遮るものか、いくらも濡れてはいないようでしたが、それでも寒々しさは否定できず、何より窮屈に違いありません。ですがその人はそんな姿勢で、どうやら眠っているようです。何を考えていることやら。

 よもや捨て犬ならぬ捨て人ということもないでしょうから、自ら収まったに違いありません。なんとまあ物好きな。雨の日に散歩に出る自分なんかより、よっぽど物好きと言えるでしょう。よしんば住む家のない浮浪者であるにしても、もう少しまともなボール紙の使い方がありそうなものです。

 その人は肩にくたびれたケットを掛けていました。恐らくミカン箱の中に元々敷かれていたものでしょう。猫やら犬やらを捨てた人が、無責任な憐れみで敷いてやったものに違いありません。箱に入った男の人は、それを勝手に貰い受けて使ったようです。

 他に生き物の気配はないものか、気になってしばし眺め下ろしておりました。捨て犬であったなら、とうに拾われたか逃げるかしているようです。男の人の収まったミカン箱はもういっぱいで、とても子犬といえども一緒に座っていられる隙間はなさそうでしたから、居ないと見ていいでしょう。まさかこの人が追い出したりしたのでしょうか。そうまでして確保したい場所とも思えませんが。

 ちょっと疑いの眼差しを向けてから、立ち去ることに致しました。近づいたとて、声をかける勇気なんぞありません。そもそも近づいたのも気の迷いとしか思えません。好奇心は虎をも殺すと申します。馬鹿げた道草はこのくらいにして、散歩に戻ろうと思いかけた丁度その折、男の人の折り曲げた脚の間から、もぞもぞと這い出すものを見つけました。

 猫でした。恐らく、このミカン箱の正統な持ち主でしょう。よたよたとまだ頼りなげな仕草をした小さな子猫が、男の人の体の下から顔を覗かせたのでした。

 黒猫です。少なくとも、その時は黒猫に見えました。キラリと光る一対のガラス玉を飾った黒い毛玉のようにも見えました。それがこちらを見上げて「みぁ~」と鳴いたのです。小指の爪の先ほどのごく小さな逆三角の鼻をひくつかせて、ろくろく牙も生えていないこれまた小さな口を開いて、一声、ねだるように鳴いたのです。

 つい手を伸ばしてしまいました。古びた蝙蝠傘を肩で支え、男の人には触れないよう慎重に箱の内側へ手を差し入れて、黒い綿毛を拾い上げました。

 猫なぞ別に好きではないのです。捨て犬だの捨て猫だのを拾う性分にもありません。そんな際限のないことに親切をまき散らすほど人間が出来てはいないのです。たまたまの行きがかりか気紛れか、その程度のことでした。

 いざ拾い上げてみると、子猫は黒猫ではなく灰色でした。降りやむ目処も立てずに雨垂れを落とし続けるこの日の空を覆う雨雲によく似た、斑な灰色の毛皮でした。言うまでもなく、縁起のいい白足袋でもありません。少し落胆致しました。白足袋の期待は元よりしていませんでしたが、灰色猫とは業腹な。ついと手を出したのも、黒猫に見えたせいだったはずなのです。

 しかしまあ、拾ってみればその小さな体の温かいこと。まだ産毛らしい被毛のやわらかいこと。意図せず背を撫でてしまわずにはおれません。すると子猫はゴロゴロと喉を鳴らして、幼いなりに愛想するではありませんか。これには参ってしまいました。

 優しい性根を持ち合わせた覚えはありませんが、たまにはそういうことがあってもいいのでしょう。終生面倒をみるかは兎も角も、一宿一飯にありつかせてやるくらいはできなくもありません。ひとまず連れ帰ることにして、抱いた子猫をあやしながら蝙蝠傘を持ち直し、芝生の上から遊歩道へと元来た道を戻るため、すっかり濡れた靴を気にしながら踵を返して歩き出しました。――その時です。

「ぼくは拾って貰えませんか」

 背中側から声がしました。

 大きな声ではありません。むしろか細く、弱々しい声音でした。今にも降りしきる雨音にかき消されそうな小声です。それでいて、よく澄んで通る声でした。若さのもたらすものでしょうか。実際、声の持ち主はまだ少年の面影を残した若い男の人でした。と言うのも、この目で確かめたからです。

 振り向いた先に、ミカン箱に座った男の人が、膝に埋めていた顔を上げてこちらを見ている姿がありました。まだ数歩と離れていない距離です。整った目鼻立ちをしているのがよくわかりました。膚色が白く、殆ど日に当たったことがないように透き通っていて、薄暗い雨模様の空気に仄かに発光しているかのようです。見上げてくる目は黒々として潤みを湛え、真っ直ぐに視線を注いできます。それでいて、縋り付くような必死さはなく、かといって自棄くさった粗さもなく、ただ真っ直ぐで熱心さのような人の温みを感じさせました。けれども形相はけして懸命ではありません。笑みもせず、かといって憂えているふうでもない、なんとはなしに侘しいような、繊細な表情でした。

「ぼくも、拾っては呉ませんか」

 もう一度、その人は言いました。先ほどとは、少し言葉が違っていました。まったく同じであったなら、断っていたかもしれません。きっとそうしたことでしょう。普通、捨て猫は拾っても、浮浪者は拾いません。よしんば最近になって家をなくしたばかりの流離さすらい人であったとしても、拾うことはありません。よほど親切な人ならば困窮しているらしい人に一食奢ってやったり一晩屋根を貸すことはあるかもしれませんが、それと「拾う」とでは意味が違っているでしょう。いずれにせよ、自身はそうもご親切な性分ではないのです。「あなたのことは拾いません」そう言葉にするまでもなく、無言で断ったことでしょう。

 ですが、

「まあ……、ついでのことでよければ」

 彼の言い回しのせいでしょう、なんというわけでもなく、そう返事しておりました。斯くして、雨ざらしの公園で、わたしは一匹の捨て猫と一人の若い男の人とを拾うことになったのです。

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