2・危ない橋ほど

 人というのは愚かなもので、危ない橋ほど渡りたがる。理性、良心、防衛本能、などと呼ばれるものが、チリチリと焦がされ肌がヒリつくような、危うい経験を好んでしたがる。

 そうして結果、無事であった時の大きな安堵を感じたいためか。地獄の釜の蓋を開け、中を覗いてみたところで堕ちはしないと高を括っているのか。それとも或いは、突き落とされるが本望なのか。


「おにーさん、おにーさん、寄ってってよ」

 軽妙な声に呼び止められた。ふと見れば、今しがた通り過ぎようとした道のはたに茣蓙が敷かれ、その上に物が広げられている。どうやら即席の出店でみせのようだ。

 置かれているのはいずれも人形で、であれば人形売りの屋台であろう。或いは人形を使った芸でも披露するつもりなのかもしれないが、それにしてはいささか茣蓙の上が散らかり過ぎている。言い方を変えるなら、実に豊富な種類の人形が取り揃えられていた。

 藤を担いだ日本人形。おちょぼ口が愛らしく、丸みを帯びた頬にはあどけなさが残されながらも、流し目が艶やかだ。その隣には節句人形。勇ましい武者の鎧が鈍色に輝き、腰に差した刀は業物に違いないと思わす凛とした佇まい。さらに横には木目込み人形。本物の錦の布を使っているのだろう、ゆったりと曲線に袖を広げた十二単が美しい。やわらかな衣擦れの音が耳をくすぐりそうだ。その手前には突如として趣の違った人形……と言うよりはぬいぐるみだろうか。人の形をしてはいるが、どうやら全体が毛糸で編まれたものらしい。ボタンの目玉に刺繍の睫毛、笑った口元に愛嬌が滲む少女がころんと寝転んでいる。

 その他、白いカツラを被った中世の貴婦人を象った豪奢な人形やらセルロイド製と思しき愛玩人形など、種々様々な人形が所狭しと並んでいた。いずれも一点ものかそれに類する品であろう。職人芸の光る上等のものばかりと察せられる。

 中でも殊更に目を惹くのは、二体の少年人形である。等身大であった。

「これはまた……」

 見事な出来である。素晴らしいと言うより物凄い。まったく、生きた人間のような肌の質。日に灼けているというよりもそういう血筋であろう褐色の肌は、なんとも滑らかでありながら作り物っぽくなく、健やかな張りと瑞々しさを感じさせる。俊敏そうなすらりとした四肢を今はくったりと投げ出して、二体は華奢な肩を互いにもたせ合って座っていた。

 恐らく球体の関節を持つのだろう、実に自然な姿勢で、仲の良い少年らが居眠りしているように見える。閉じた瞼の縁には白い睫毛が生えていた。銀ぎつねの毛皮だろうか。或いは絹の銀糸であるやもしれない。睫毛と同じ白い髪が、一方は緩やかなうねりを見せて肩口まで伸ばされ、一方はつるりと収まりのよい短髪に整えられていた。どちらも端整な面立ちをしており、褐色の肌にほんのり赤みを帯びた唇がふくよかだ。僅かに開いたその奥から、微かな寝息や小さな舌が動くのが感じられそうにすら思えた。

 無国籍な色彩と相まって、どことなく妖しげで危ういエキゾチックな魅力がある。知らず、ついと手が伸びるのを、店主の声が引き留めた。

「残念、それは売り物じゃないんだなあ」

 含み笑いをするような、いやらしい感じのする声だ。

「ああ、いや、申し訳ない。買う金は持っていないんだ。贈る相手も居るではないし」

 我に返って手を引きつつ、言い訳めいたことを口にする。声のした方へと顔を向けた途端に息を呑んだ。

 白い。

 茣蓙を挟んですぐそこに、白い男が座っていた。

 とにもかくにも真っ白だ。白い着物に白い帯、死に装束にも似た着衣に白い髪を長く垂らし、白い肌に血の気はなく、唇までも白一色。ただ瞳だけが黒々と、洞穴のようで人間味がない。ニタリと嗤った大きな口が、人喰い鬼か化け狐、よくてもイタチといった性質たちの悪いものを連想させた。

 関わり合いになるべきでない。一瞬で、そう人に判断させる風体である。

「ともかく、そういう訳なのでこれで」

 言って、早々に立ち去ることにした。

 店主らしき男はどう見てもまともな種類の人ではない。よしんば身体的特徴は本人の意図するところでないにせよ、その容姿で白帷子のごとき衣装を好んで着込み、人を食った笑みを浮かべているなど、真っ当な考えの持ち主のすることではない。危険人物だ。どうして早く気づかなかったのか。

 そう思う胸のうちが、ざわざわとするのを感じていた。ともかく、一刻も早く立ち去らねば。

 しかし。

「待ちなよ、おにーさん。見せ物料の払いがまだだ」

「な……っ」

 およそまともな相手ではあるまいと、自身の抱いた危惧を裏付けるように、男は軽妙な口ぶりで言った。驚きの余り、咄嗟に振り向く。

 いや、違う。振り向く必要などなかった。男の言葉は言いがかりだ。人形遣い宜しく芸の披露目があったでなし、茣蓙に並んだ品物をただ眺めただけで見せ物料をとる出店など聞いたことがない。耳を貸さずに去ればよいのだ。よもや後を追ってはこないだろう。それではもはや追い剥ぎである。

 これは至極真っ当な考え方だ。筋が通っている。にも、かかわらず。

「……金は……先にも言った通り、持ってません」

 足を止め、体の向きを変えすらして、男に向かって応えていた。

 人とは愚かな生き物だ。危ない橋は渡りたい。妖しい者には魅せられたい。少しくらいの危険なら冒したところでどうともないと、自ら歩んだ道ならばいつでも引き返せるものと、そう高を括って好奇心に突き動かされる。取り返しのつかぬ過ちなど此の世にないとでも思っているのか。それとも或いは……、

 否。そうではない。人間一般に置き換えて誤魔化そうとしているだけで、結局のところ、自身がただ、そういう性質たちの人間なのだ。ヒリヒリと危うい感触に惹きつけられる。

「金なんて要らないよぉ」

 ぱっくりと左右に割れたような大きな口から語尾上がりの馬鹿にしくさった声を発し、男は黒々とした目を三日月の形にした。

「体で払ってくれればいい」

 瞬間、ぞくと背筋を何かが走った。

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