命は等価でないことの証明

木山糸見

コトリ先生

「次の命題は真か偽か。『全ての命は等価である』」

 コトリ先生は煙草の煙を細く吐きながら暗闇を見つめた。

 俺は無言で自分の煙草に火を点ける。研究に煮詰まった深夜。データをいくら見つめても捏ね繰りまわしても頭を掻きむしっても、一向に道筋が見えない。深夜3時とは研究者にとってそんな時間帯だ。

「夕夜、答えろ」

 低くぶっきらぼうな口調は、この人の常態だ。むしろ研究室の助手が同じ喫煙スペースにいる事に気づいた分、その思考はいつもよりぶっ飛んでいないようだ。

「全ての命が等価であると仮定して、その価値はいくらでしょうか」

 長い黒髪に小さく反射する自分の煙草の火を見つめながら、仕方がなく口を開く。

「いくら? それは貨幣換算でか?」

「お金でも、物でも。地球何個分でも何でも構いません」

 コトリ先生は口をすぼめた。思考を巡らせるときの癖だ。その小さな頭の中で何が起こっているのか、一瞬の後には遥か先まで思考が到達している。ロジックを驚異的な速度で組み立てているのか、右脳的直観でゴールに至るのか。傍からは想像もつかない。

「ふっ」

 小さな口元から息を漏らし、ニヒルに笑う。もうこちらの言いたいことを理解したらしい。その上で議論を重ねるつもりなのだろう、アーモンドのような明るい茶色をした瞳を細めている。

「命の価値は無限だよ。金に換えることなどできん」

「では、命の価値は無限です。なら」

 俺は短くなった煙草を灰皿で消し、次の一本に火を点ける。長く吸い込み、宙に向けて息を吐いた。

「一人の命も、二人の命も、その価値は変わらない」

「無限は何倍しても無限、か」

「はい。ヒルベルトの無限ホテルのパラドックスですね」

  客室が無限にあるホテル。無限の客室を持つホテルが満室のとき、新たに一人の客が泊めてほしいと来た。オーナーは館内に放送する――『お客様、一つ隣の部屋へ移ってください』。現実であればクレームものだが、そこは思考実験。客たちは大人しく隣の部屋に移動していく。無限の客室にいる無限の客だが、客室は無限ゆえかららず∞+1ができる。すべての客が移り、新たな客は宿を得た。

「無限のホテルに新たに無限の客が来ました」

「『お客様、お部屋番号を2倍した部屋にお移りください』。よくもそんな人使いの荒いホテルが満室になるもんだ」

「確かに」

 無限ゆえに、2倍した数字も必ず存在する。元居た客たちは移り、新たに無限の客を迎え入れる。無限に人を吸い込むブラックホールのようなホテルだった。

「一人分の命の価値が無限なら、二人分の命の価値も無限。どちらも等価です」

「論理的帰結だな。つまり、人を何人殺そうと問題ない。自分の命と無限の人の命は、同じ価値だからな」

「ええ。どうですか?」

「ま、それで納得する人間はサイコパスだろうな」

「なら、命の価値は有限ですか? おいくらでしょう?」

「それこそ各方面からクレームが来そうだ」

 コトリ先生は喉の奥で笑うと、だぼだぼの白衣のポケットに両手を突っ込んだ。顔をしかめる。

「どうぞ」

「おう」

 煙草を差し出す。貰い煙草を加え、こちらに顔を突き出してくる。そんなサービスをする謂れはないが、しぶしぶライターを擦った。火打石の心地よい音とともに、ともすれば女子大生と間違えられかねない童顔が闇に浮かび上がる。コトリ先生は猫のように目を細めた。

「命の価値は無限でも有限でもない。となると、仮定が間違っている」

「ええ。すべての命は等価ではない。そういうことです」

 一見無慈悲な結論に、先生は鼻を鳴らした。

 命は等価ではない。それは当たり前だ。世界最高の頭脳と凡夫である己が同じ価値など、思い上がりも甚だしい。

「その結論に至るには、前提としている事があるな。一つ、価値換算を加算無限に限定している。二つ」

 殊更長く吸い込み、長い紫煙を夜空に流した。ゆっくりと拡散し溶けていく白を遠い目で追い、無言になる。

「なんですか?」

「自分で考えろ。私はお前を」

「はい?」

 ごにょごにょと口を濁すと、白衣を翻して去っていった。やれやれ、天才はいつも意味不明だ。

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命は等価でないことの証明 木山糸見 @kymaitm

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