第3章 気が付いたら“彼女”に、人格を奪われていたんだが

3-1「唯野百合は理解されない・1」


 一体いつからだったのだろう。

 私が“それ”をはっきりと認識したのは、小学生高学年のことだったと思う。当時の私はまだ小さかったけれど、それでも自分が周りとは違う事には気が付いた。


『飯田くん、カッコいいよねー!』

『えー、あんなのただ足が速いだけじゃん。それよりウチのクラスなら断然香川くんだって!』


 毎日のように男子の話で盛り上がるクラスメイトたち。そして当然のように私はその輪の中にいて、いつものようにただ話を聞いている。


『そうかなぁ……。ね、百合ちゃんはどっちがカッコいいと思う!?』

『え、えっと……』

『絶対に香川くんだって!ね、唯野さん!』


 興味津々な友達の眼差しに、本当のことなんて言えるはずもなくて。私は困ったように笑いながら、当たり障りのない答えを口にする。決して思ってなんかいない、真っ赤な嘘を。


『……私は、二人ともカッコいいと思うけどな』

『ええー!?』

『でもでも分かるかも!だって二人とも結構人気あるらしいしっ!』

『おーい、お前らそろそろ席着けー!』


 担任の一言で蜘蛛の子を散らすように皆は自分の席に戻っていった。この頃の私にとって、こんな風に過ごす休み時間は本当に苦痛でしかなかった。

 だって言える筈がない、両親にだって打ち明けられない、私の秘密。クラスメイトと離れたことで全身の緊張が一気に解けていく。


『はぁ……』


 一体いつまでこんな嘘を吐き続けなければならないのだろうか。本当の気持ちを誰にも打ち明けられないまま、いつまでも周りの顔色を伺いながら生きていくのだろうか。

 しかしそんな私の不安は、不幸にもすぐに的中することになる。週明けの月曜日、いつも通り登校して来た私を待っていたのは――


『百合ちゃん、ちょっといい?』

『え?』

『いいから来なさいよ!』


 冷たいクラスメイトたちの視線と態度だった。あっという間に取り込まれて、訳が分からない私をクラスメイトたちが鋭い目で睨み付ける。


『唯野さん、香川くんとどんな関係なの?』

『か、香川くん?』

『しらばっくれないでよ!美咲ちゃんが香川くんに告白したら振られたんだから!“唯野さんのことが好きだから”って!』

『美咲ちゃん、本当に可哀想……。あんなに香川くんのこと好きだったのに』

『アンタが香川くんに変なこと言ったんじゃないの!?』

『ち、違うよ……!』


 こないだまでは仲良く恋話をしていた友達……だった人たち。それがこんな風に最も容易く崩れ去ってしまうなんて思ってもいなかった。

 目の前で起こる光景を前に、ただ私は戸惑うことしか出来ないでいた。


『違うなら言ってきなさいよ、香川くんに!』

『えっ……!』

『そうだよ、美咲ちゃんに悪いと思わないの!?ね、美咲ちゃん!』


 周りの喧騒に“美咲ちゃん”は何も答えず、ただ泣いていた。

 彼女が本当は何を考えていたのか、今となってはもう分からない。けれど泣いている彼女と私を責め立てるクラスメイトたちを見て、もう私に出来ることなんてひとつしかなかった。


『……わかり、ました』


 今にも消え入りそうなか細い声だった。すぐにでも逃げ出したくなる気持ちを抑えて、ゆっくりと前に進む。私がここでクラスメイトたちの言う通りにしなければ、きっと虐められ続ける。

 それは幼い私でもすぐに分かることだった。小学校という狭い世界で、皆と仲良くするには我慢するしかないのだから。


『大丈夫……』


 微かな記憶を頼りに“香川くん”の元へと近付いて行く。彼は確かいつも筆箱にお気に入りの野球チームのキーホルダーを付けていたはず。

 全てがぼやけて見えるこの世界で、唯一の頼りに縋って声を掛ける。どうか当たっていますように、と願いを込めて。


『……か、香川くん。あのね――』

『は?俺、飯田だけど……』

『あ……あ、あのっ!』

『アンタいい加減にしなさいよっ!!』


 ……そこから先は、あまりよく覚えていない。

 クラスメイトの誰かに掴み掛かられて、教室中が大騒ぎになったと思う。

 彼女らからしたら、私がわざとやって馬鹿にしたように見えたに違いない。勿論本当はそんなわけがない。

 でも本当のことを話したとして、一体誰が信じてくれるのだと言うのだろう。理由を話せない私は気が付けば、クラス中から避けられるようになってそのまま卒業まで虐められることになった。


『……もう、やめよう』


 期待するから裏切られる。近づこうとするから遠ざかる。元々私に、誰かと仲良くなることなんて出来るはずなかったんだ。












 それから私は人と距離を取るようになった。だって仕方ないじゃない。本当のことを言ったって、誰も信じてくれるわけない。

 ……私の世界では、男性の顔は全てぼやけて見える。まるで霧がかかったかのように、個人を認識することが出来ない。

 物心ついた時にはもう、それが私にとっての当たり前だった。

 私にとっては父親も、全く知らない赤の他人も、クラスメイトも誰一人として個人として判別することが出来ないのだ。

 でもそれを言ったとして、だからどうしたと言うのだろう。どうせ私は誰にも理解されないし、して欲しくもない。ずっとこうやって周りを遠ざけて生きていくしかない。

 

 ――そう思っていた。少なくとも“彼”に出逢うまでは。


















 高校生になっても、私の症状が芳しくなることはなかった。

 むしろ“それ”は酷くなる一方で、何とか声や仕草で人を判別しているに過ぎなかった。


『あ、いた……!』


 でも自分から出た声は呆れるくらい明るいもので、思わず驚いてしまう。

 だって彼だけは違うのだ。

 私は、彼だけは男性なのに認識できる。ただの人間なんかじゃなくて彼をひとりの人として、“早乙女英太”として。


『あー、もうおしまいだよ……』

『何がおしまいなのかな?』

『う、うわっ!?ゆ、百合先輩!?』


 慌てて振り向いた早乙女くんは、バツが悪そうな表情をしていた。

 ――今日も大丈夫、私は彼を認識出来ている。

 そのことが本当に嬉しくて、私の心臓は自然と高鳴っていく。


『ふふっ、やっぱりここにいたね早乙女くん?』

『す、すいません百合先輩……』

『サボりは良くないなぁ、サボりは』


 今までずっと他人と距離を取って生きて来たのに、こうやって自ら話し掛けるなんて私らしくない。

 それは分かっているはずなのに、早乙女くんと会うのを止められない。彼と会うのが楽しみで、堪らない。


『あ、あの俺……』

『まあ早乙女くんを探すって言う口実で、私もサボれたわけだから……ここは言い合いっこなしかな、あはは』

『百合先輩……』


 彼と出会ってから約半年、私の人生は大きく変わった。

 彼と初めて会った時の衝撃は今でも忘れられない。女の子と間違われて連れて来られた早乙女くんを見て、一気に世界が色付いたように思えた。

 早乙女くんはどういうわけか私を慕ってくれている。今ではこうして部活前に二人で話すのが日課になっていた。

 ……今の私にとってかけがえの無い、何事にも変え難い時間。


『さ、皆が心配してるし、そろそろ行こうかー』

『はい、迷惑かけてすいませんでした』

『うーん……。そこは謝るんじゃなくて、お礼じゃないかな?』

『……はい、探しに来てくれてありがとうございました。百合先輩』

『ふふっ、よく出来ました!そして、どういたしまして』


 でも……いや、だからこそ…………怖い。

 彼の気持ちが伝わってくるから。

 私を慕ってくれる……いや、それ以上の感情が早乙女くんの表情から読み取れてしまうから。

 彼を“異性”とはっきり認識した時、果たして私の目には彼はちゃんと映るのだろうか。彼の表情は今のようにしっかりと私の世界を彩ってくれるのだろうか。

 早乙女くんとの時間が増えれば増えるほど、私の恐怖もどんどん増していくように思えた。

 




 ――そして僅かその数日後、予感は現実になる。

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