2-9「“メグ”」
「おはよ」
「あ、真凛……八方さん、おはよう」
一週間ぶりに登校した教室は自分で思っていた以上に、何も変わっていなかった。勿論、担任やクラスメイトには心配されたがそれはあくまでもインフルエンザと偽っていた俺を想ってのこと。
まさかズル休みしてたなんて、誰も疑うこともなく変わらぬ笑顔を向けてくれていた。
「あれ、別に言い直さなくてもいいのに」
「いや、一応教室だし。誰かに聞かれたりしたら面倒だからさ」
「えー、なにそれ?ウチと一緒のとこ見られたりしたら、面倒なの?」
少しムッとした表情になる真凛。昨日の今日で、正直まだ実感なんてない。まさかAWOで相棒だったメグがクラス一の陽キャ集団にいる真凛だったなんて。
「そうじゃなくてさ。八方さんは人気者だから、俺と一緒で変な噂なんて流されたら大変だろ?」
「変な噂って……案外自意識過剰なんだね、エイは。別にこうやって話すことなんて、クラスメイトだったら当たり前のことだと思うけど」
「いやいや、八方さんの場合は読モもやってるからまた話が変わってくる……っていうか変える気ないな、そのエイって呼び名」
「勿論。だからエイも諦めて、ウチのことはちゃんと名前で呼ぶこと。じゃないと、それこそ“誤解”されちゃうようなことしちゃうぞ?」
悪戯な笑みを浮かべながら、真凛はすすっと俺の近くへと寄ってくる。
まさか本気ではないとは思うが、これ以上厄介ごとを増やされても今の俺には対処出来ない。ここは大人しく彼女に従った方が得策だろう。
「分かった、俺の負けだ。悪かったよ、真凛」
「うんうん、それでよろしい。でさーー」
「おはようー、真凛!あ、早乙女くんもおはよー。元気だったー?」
「おはよ、恵理子」
恵理子と呼ばれた女子が話し掛けた瞬間、真凛は俺が以前から知っているクールな八方真凛に戻った。何という早業なのか、その豹変ぶりに思わず言葉も出ない。
「早乙女くん?」
「……あ、悪い。おはよう。心配してくれてありがとう、体調ならもう元通りだからさ」
「そうなんだ、良かったー。もしかして、また真凛に見惚れてたの?」
「い、いやいや違うから。何でそうなる!?」
「あはは、やっぱり早乙女くんって可愛いかも。本当に女の子みたいで!真凛もそう思うよね?」
「っ……」
“女の子”という言葉を聞いた俺の心臓は、煩いくらいに跳ね上がる。思わず頭がクラクラしそうなのを必死に抑える。
そうだ、結局こうして学校には来たものの根本は全く解決してないわけで。
このまま百合先輩と会ったとして、俺はちゃんと自分を貫くことが出来るのだろうか。また先輩の人形にーー
「――ウチは全然可愛いとは思わないけど。早乙女は、ちゃんと男だと思うよ」
「……え?」
「いやいや、それは分かってるんだって!」
「そう?恵理子、ちゃんと言わないと分からないかなって」
「えー?相変わらず辛口だなー、真凛は」
真凛と、その澄んだ碧眼と目が合う。言葉は交わしていないはずなのに、不思議と勇気が出るような気がした。しっかりしろ、そう励まされているような気が。
「あ、そうだ早乙女くん。早乙女くんにお客さんだよ、廊下で待ってるから早く言ってあげてねー」
「ああ、ありがとう」
急かされるようにして、俺はそのまま廊下へと向かう。
実際には昨日初めて会ったばかりのはずなのに、俺は真凛との深い絆を感じていた。それはAWOでの数年のおかげなのだろうか。それとも俺たちの波長が合っていたからなのだろうか。
どちらにせよ、俺のことを理解してくれる相棒がいることは本当に心強かった。
なぜならーー
「…………あ」
「ひ、久しぶりだね……英太」
目の前には百合先輩がいた。
それは当然のはずで、ここは学校なのだから会おうと思えばいつだってこうして向こうから接触できるのだ。だからこそ俺はこの一週間引きこもっていたわけで。
「……久しぶりって、まだ一週間くらいしか経ってないですよ」
「え、そうだっけ?あ、あはは……すごく長く感じたからかな、おかしいよね」
「別に可笑しくはないと思いますけど」
「こんなんだから、メッセも電話も無視されるんだもんね。こないだだって……分かってる、全部私が悪かったの。うん、分かってるんだ……えへへ」
「……百合、先輩?」
一週間以上ぶりに見た百合先輩は、悪い意味で別人のようだった。
目の下には大きな隈が出来ており目も虚ろだった。いつもは流れるように奇麗な茶髪も、ところどころ跳ねている。
何より顔色がすこぶる悪く、今にも倒れてしまいそうなほどだった。
「大丈夫、もう大丈夫なんだよ?うん、私ね。少しは反省したの。今まではね、英太に私の気持ちを押し付け過ぎたって。だからねこれからは二人でちゃんと話し合ってね」
「百合先輩、大丈夫ですか?」
「大丈夫って、何が?」
そう言った彼女の瞳からは、光が消えていた。
俺が憧れていた、皆の憧れでもあった百合先輩。キラキラと輝いていて、一番尊敬すべき先輩。
そんな百合先輩とは真逆の、直視することすら出来ないほど今の彼女はボロボロだった。
これが、全部俺のせい?俺がこないだ逃げ出したから。彼女からの連絡を無視したから。たったそれだけのことで…………百合先輩は壊れてしまった?
「あの」
「大丈夫、大丈夫なんだよ?えへへ、もう大丈夫なんだ。私、我慢するから。ね?だからもう大丈夫なの。全然平気なんだよ。だから安心して、ね?」
「お、落ち着いてください先輩!」
「英太も心配だったでしょ?だって言ってくれたもんね、私のことが好きだって。“本当の自分”を初めて見てくれた人だって。私もそう、そうなんだよ?“本当の私”を見てくれるのは英太だけ。英太だけなんだよ?」
それは会話なんかじゃなかった。一方的に自分の、溢れ出した想いを吐き出していた。
まるで俺の声なんて聞こえなくなってしまったかのように、百合先輩は焦点の定まらぬ目で必死に何かを喋り続ける。
ここまで聞いて、ようやく俺は気付いてしまった。百合先輩は、やっぱり壊れてしまったのだ。しかもそれは紛れもなく、俺のせいで。
だから本来は俺が百合先輩をどうにかしなければならないのだ。彼女をこんな風に追い詰めてしまったのは、他でもない俺なのだから。
でも俺には分からない、一週間以上も彼女から逃げ続けていた俺にはーー
「せ、先輩――」
「あの、邪魔なんですけど」
「…………貴女、誰?」
そんな窮地に、真凛は表情一つ変えず飛び込んでくる。まるで俺の危機を察してくれたかのように、俺と百合先輩の間に割って入って来た。
「すいません、唯野先輩。私たち、この後移動教室なんです。もう準備しないと遅刻しちゃうんで」
「……そう」
「はい、だから入り口付近にいられると邪魔なんです。あ、早乙女くん」
「は、はい?」
「ぼーっとしてないで。貴方も遅刻しちゃうよ?とっとと準備すれば。それじゃあ、失礼しますね唯野先輩」
ぐいっと俺を教室に引き込んで、真凛はそのまま扉を閉めてしまった。振り返れば、皆が一様に教科書を持って移動の準備をしている。どうらや真凛の言っていたことは本当だったようだ。
「……大丈夫?」
「あ、ああ……ありがとな」
「まあいつまでもこうやって、逃げてるわけには行かないとは思うけど。少しくらいは考える時間は必要でしょ」
「……助かったよ、相棒」
「本当に、世話が焼けるなぁ」
真凛はそう呟いてさっさと自分の席に戻っていった。
正直、百合先輩には悪いことをしていると思う。けれど、真凛の言う通りもう少しだけ時間が欲しい。これから俺たちがどうするべきなのか、それを考える時間を。
数分後、教室を出たときにはもう百合先輩はいなかった。納得してくれたのか、それとも諦めただけなのか。その時の俺にはよく分からなかった。
――今思えば、もっと考えるべきだったのかもしれない。既に狂った歯車は、回り始めてしまっていたのだから。
放課後、結局あれから百合先輩と会うことはなかった。休み時間や昼休みなども警戒はしていたのだが、彼女が来ることは遂になかった。
「んー、やっぱり学校はかったるいなぁ」
「お、キャラ戻ったな」
「まあね。昨日も話したけど、あんまり喋り過ぎるとぼろが出るからさ。普段は家の中でしか素の自分を出せないんだけど、エイがいるから今日はもう出しちゃってます」
「つーかさ」
「ん?」
「なんで着いてきてんの、真凛」
昨日駅まで送ったから分かっているが、どう考えても真凛の帰り道と俺のそれは真逆だった。それでもなぜか真凛はこうして俺の横で一緒に歩いている。
「えー、だって心配じゃん。もしかしたら帰り道で待ち伏せしてるかもしれないよ、唯野先輩」
「それは……怖いこと言うなよな」
「でも可能性としては、なくないでしょ?」
「まあ、確かに」
ない、と言い切れない自分がふがいなかった。でも今朝俺が見た百合先輩は、やはりどこかが決定的におかしかった。あんな百合先輩を、俺は見たことがない。
それだけに何をしてくるか、全く予測不可能だった。数か月も、決して短くない時間を共にしていたはずなのに、俺は今も先輩のことがよく分からない。
それが本当に情けなくて……悔しかった。
「……まあさ、そんなに思い詰めることないんじゃない?男女の色恋沙汰なんて、考えたって無駄なものの方が多いんだから」
「……それは、経験談?」
「いーや、まとめサイトに書いてあった」
「おいおい、ネットが情報元かよ」
「あはは、だってウチはAWO一筋だからねぇ」
「本当にブレないのな、真凛は」
「あったり前でしょ?こちとらAWOに人生捧げるって決めてんだから」
そうやって笑い飛ばす真凛は、夕日のせいだろうか。いつもより一層輝いて見えた。
俺もいつかこんな笑顔を彼女に……百合先輩にしてほしいと思っていた。いや、今だってその気持ちは変わらない。
けれど今の俺にはーー
「――英太」
「……慈美」
俺のマンションのエントランスには、慈美がいた。
珍しく真っ黒な黒髪をサイドに分けて、大きな目が見えている。慈美の髪がこうなってるのは、こいつが運動するときくらいだったはず。
「久しぶりだな、慈美」
「久しぶり……っていうか返信くらい、して。しばらく既読も付かなくて、心配した。インターホン鳴らしても全然反応ないし」
「悪かったな、心配かけた。で、今日俺が学校来てるのを知って走ってきたわけか」
「本当は朝、英太のクラスに行くつもりだった。けど……」
慈美はちらっと、真凛の方を見た。
どうやら今朝の百合先輩とのやり取りを、慈美も目撃していたらしい。それで気を遣って放課後まで、学校から離れるまで待ってくれていたということか。
わが幼馴染ながら、本当に気を遣うやつだな。
「本当に、心配かけたな。ありがとな、慈美」
「ん。それで、隣にいるのはーー」
「…………“メグ”?」
誰?という慈美の言葉は、真凛の声に遮られた。
「え?」
「ああ、メグだ!や、やっと会えた!!ウ、ウチ八方真凛って言ってその……ああ、どうしよう!?」
「お、落ち着け真凛!一体どうしたってーー」
「無理に決まってるでしょ!?“メグ”だよ!昨日話したでしょ!ウチの憧れのカリスマ読モのメグ!!」
「…………は?」
マンションのエントランスホールに響き渡った真凛の声は、しばらくの間俺の脳内で反響し続けるのだった。
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