1-9「唯野百合は欲している・6」
翌日の朝。
俺は自分の教室の前で、扉と睨めっこをしていた。
理由は簡単で、教室に入りづらいからだった。
この二日、正確には一昨日百合先輩と出掛けたことで忘れていたが、俺は今日文化祭ぶりに学校へ登校している。
つまりあの女装コンテスト以来、クラスの誰とも顔を合わせていないのだ。
すっかり頭から抜けていたが、あの体育館の盛況ぶりだ。
おそらくクラスのほぼ全員が、俺の女装姿を見ていたのではないだろうか。
「はぁ……」
正直、今日も学校を休みたい気持ちもあった。
実際、慈美も「わざわざ無理していく必要ないのに」なんて気を遣ってくれたりしていた。
けれど休めば休むほど、もっと学校に行きたくなくなるに違いない。
それにここで逃げていては漢が廃るってものだ。
そして何より、百合先輩にこれ以上心配を掛けたくなかった。
貴重品を含めて、俺は全ての所持品を先輩の家に忘れてきてしまった。
だから早く先輩に会って、それらを返してもらわないといけない。
そしてちゃんと、急に帰ってしまってすいません、と謝らなければならない。
「……よしっ」
一度だけ小さく深呼吸をして、俺は教室の扉を開け放った。
いつも通り、もうクラスメイトの大半は登校していて、思い思いの時間を過ごしている。
その中の何人かは入って来た俺と目が合って、そしてそのままこっちを凝視していた。
「あ……」
「ん、どうした……あ、早乙女」
そしてその輪は波のように広がって、クラス中の視線を浴びる。
その目は今朝、慈美と登校中にちらちらと感じた視線とおそらく同じものに違いなかった。
「…………っ」
今までで一番の気まずさを感じながら、そそくさと自分の席に向かう。
「早乙女くん、おはよう」
「あ、えっと……お、おはよう」
しかしそんな俺の目論見は、直前に立ち塞がった女子たちによって簡単に阻止されてしまう。
よく見れば彼女らは女装コンテストの時に、俺にメイクをしてくれた人たちだ。
折角メイクをしてもらったのに、コンテストを途中で投げ出してしまった俺のことを恨んでいるのかもしれない。
とりあえずクラスメイトとして、謝っておくのが筋だろう。
「あ、あのさ……こないだは、そのーー」
「――凄かったね、早乙女くんっ!」
「……え?」
「本当、別人かと思ったよー!ほらこれ、こないだの優勝賞品!!」
「えっと……あ、ありがとう……」
しかし怒られると思った俺の考えとは真逆に、陽キャグループの女子たちは一斉に盛り上がり始める。
渡された封筒には“豪華温泉旅行……風、温泉の素”と書いてあり、どうやらこれが今回の女装コンテストの優勝賞品のようだった。
というか優勝賞品ということは、俺はーー
「いやぁ、凄かったな早乙女―!途中で退場したのに、投票でぶっちぎりの優勝だったしさー!」
「本当さ、早乙女の女装見たときは俺もびっくりしたわー!なんならお前らより可愛いんじゃね?」
「はぁ!?……でも実際凄い可愛かったよ、早乙女くん!」
「あ、ありがとう……」
――どこからともなくクラスの陽キャたちが集まり始め、軽い騒ぎになっていた。
彼らの話をまとめると、俺は途中で逃げ出したにも関わらずあの女装コンテストで優勝してしまったようだ。
そしてその噂が今や学校中に広がり、昨日も“早乙女英太”を見に多くの生徒が休み時間などに俺を探しに来ていたらしい。
俺が休んでいた間に、事は想像以上に大事になっているようだった。
「今度さ、皆でどこか遊びに行かない?早乙女くんの祝勝会ってことでさー!」
「お、良いねー!」
「ね、真凛(まりん)もそう思うでしょ?」
「んー、そうだねー。早乙女くん、可愛いし……ウチ的には全然ありかなぁ」
真凛と呼ばれた金髪ギャルは、気怠そうに生返事をする。
彼女のことは流石の俺でも知っている。八方真凛(やつかたまりん)、高校一年生。
染めた長い金髪に真っ白な肌、そして青いカラコンが特徴的なギャル。
そして今若者に話題の雑誌、“キュートティーン”の現役女子高生モデル。
同じクラスの女子たちが、この数か月ずっと話題にしていため俺でも暗記してしまったほどだ。
そういうのに一切興味がなさそうな慈美でさえ、八方さんのことは知っているくらいだから相当な有名人だった。
このクラスの陽キャ集団も、彼女を中心に行動しているといっても過言ではない。
まあそりゃあ、同じクラスに雑誌モデルが居ればそうなるよな。
「えっと、早乙女くん?だっけー?ちょっと顔見せてよ」
「えーー」
ずいっと距離を詰める八方さんに、思わずどきりとしてしまう。
甘ったるい香水の匂いが、鼻をくすぐった。
数秒の間じっと俺を見つめた後、八方さんは軽く溜息をつく。
「……違うかー」
「えっと……」
「ううん、こっちの話。桃の言った通り、可愛いし良いんじゃない?ウチも行けたら行くよ、その祝勝会」
「え、マジ!?真凛来るなら絶対開くわー!」
「八方さん行くなら俺も行く!」
がやがやと盛り上がる取り巻きを気にすることなく、八方さんは元の席へと戻っていく。
あの一瞬見せた表情の変化はなんだったのだろう。
そんなことを考えるのも束の間、教室の扉が勢いよく開けられる。
何事かと、皆と同じようにそちらに視線を向けるとーー
「……ゆ、百合先輩?」
「さ、早乙女くん……!良かった、今日は来てたんだ……!」
そこには百合先輩の姿があった。
息を切らしながら、百合先輩は周りも気にせず真っすぐにこちらに向かってくる。
「あ、あれって三年の?」
「唯野先輩だ!俺、本物初めて見た……!」
周囲のざわめきが大きくなる中、百合先輩は俺の目の前まで来た。
周りが遠慮してくれたのか、俺と先輩の間にはいつの間にか誰もいない。
「あ、あの百合先輩……こないだの、ことなんですけど」
「いつもの場所、いこ?」
俺の返事を聞かずに、百合先輩は俺の腕を掴む。
そしてそのまま強引に俺を教室から連れ出した。
「え、あの二人どういう関係!?」
「早乙女くんって何者なの!?」
突然の出来事に悲鳴とも歓声とも取れる声を出すクラスメイトたちを気にも留めず、先輩はどんどん歩いていく。
「せ、先輩!もうすぐホームルーム始まっちゃいますよ!」
「大丈夫だからっ!」
何が大丈夫なのか、さっぱり分からない俺の腕をきつく掴んだまま先輩は中庭までノンストップで歩き続けた。
そしてそのまま、俺たちがいつも座っていたベンチに座る。
俺も半ば強引に隣に座らされた。
「せ、先輩……急にどうしたんですか」
「だ、だって……早くしないと誰かに取られちゃうって、そう思ったんだもん」
息を整えながら、百合先輩はよく分からないことを言った。
それも顔を真っ赤にしながら。
「何言ってるんですか、先輩。とりあえず落ち着いてーー」
「――本当はこんな風に言いたくなかったの。でも、今朝のクラスでの様子を見て、やっぱり一刻も早くしないと駄目だって……そう思ったの」
「ゆ、百合先輩……?」
隣にいる百合先輩は、悩みながらも言葉を途切れさせることはなかった。
いつの間にか俺の手を握っていて、その体温が俺にも伝わってくる。
手のひらは手汗で濡れていて、百合先輩がかなり緊張していることが分かった。
「私が最初に見つけたんだもん。絶対に後悔なんてしたくない。後で後悔するくらいなら、今の私の気持ちをぶつけたいの……もうこんな出会い、きっとないと思うから……!」
「先輩、だから落ち着いてーー」
「――好き」
「…………………………え」
その言葉は、本当に突然だった。
突然で、でも今までのどんな言葉よりもはっきりと聞こえた。
百合先輩は俺の目をじっと見て、そして手を握っている。
俺たちの距離は肩がぶつかってしまうほどに、近かった。
「早乙女くん、貴方が好き。今更こんなこと言うなんて軽蔑されるって思うけど……やっぱり好きなの」
「好きって……え、は?」
百合先輩の言葉が、上手く呑み込めない。
俺は、今あの百合先輩に告白されている。
俺が入学当初からずっと片思いしていた、憧れの先輩にだ。
でも俺はたった三日前にこの人に告白して……フラれているんじゃなかったっけ。
あまりの唐突な出来事に、思考回路が追い付かない。
そんな俺を置いてけぼりにして、先輩はとどめの一言を言い放つ。
絶対に勘違いしようのない、決定的な台詞を。
「私と……私と付き合って、くれないかな」
ーー静まり返った中庭に、先輩の澄んだ声がやけにはっきりと響いた。
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