1-8「早乙女英太は、そして目覚める・1」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ここ、どこだ……」
まだぼーっとする頭で、周囲を見渡す。
辺りは真っ黒で、目の前には素朴な姿見鏡がある。
目から離せないその鏡にゆっくり近づくと、ぼんやりと俺の姿がそこに映った。
「これって……」
そこには長い茶髪に、可愛らしいオーバーオールのスカートを着た女の子……いや、女装した俺が映し出されていた。
「……そうだ俺、家の前で倒れたんだっけ」
一体俺はどうなってしまったのだろう。
確かすぐ側で慈美の声が聞こえたような気がした。
もし本当に慈美が近くにいてくれたなら、何とかしてくれたのかもしれない。
それを確かめるためにも、この空間から一刻も早く出る必要がありそうだった。
「くそっ……多分、夢だよなここ」
『――正解、そうだよ英太』
「うわっ!?」
真後ろから聞こえてくる声に振り向くと、そこには鏡に映っている俺がいた。
でも俺は笑っていないはずなのに、鏡の中の俺は笑みを浮かべている。
『おはよう、英太。やっと目覚めてくれたんだね?』
「えっと……君は俺、なのか」
『ふふっ……そうだよ?あたしは、貴方。そして、貴方はあたし』
悪戯な笑みを浮かべて、鏡の中の喋っていた。姿は俺そのものなのだが、声だけは違う。
その甘ったるい誘惑するような声は、初めてのはずなのにどこかで聞き覚えがあるような気がした。
「君は……俺?言ってることがよく分からないよ。確かに俺たちはそっくりだけど、声は全然違う。本当に君は誰なんだ……?」
『……まだ、早かったかな。そうだね、うん。あたしのことは“英子(えいこ)”。そう呼んでくれればいいよ?』
「英子って……」
『そう、英太が想いを寄せている百合先輩が付けてくれた……もう一人の貴方の名前だよ』
「もう一人の……俺?」
英子と名乗った鏡の中の俺は、嬉しそうに笑っている。
吸い寄せられそうなその瞳から、目が離せない。
『ねえ、英太。貴方が片思いしてるあの先輩と、両想いになれる方法があるとしたら……英太はどうする?』
「そ、そんな方法あるはずないだろ。だって俺はフラれてるんだ……俺のことを知ってるなら、君だってそれくらい分かるだろ」
『確かにあの時はフラれたけど、今はどうかな?あたし“たち”なら、案外上手くいくと思うんだけど』
「どういうことだよ?あたし“たち”……?」
『ねえ、英太。誰だって、本当の自分を隠して生きていると、あたしは思うの。だけどね、心から欲している物は……どれだけ取り繕っても誤魔化せない。あたしと貴方がそうだったようにね?』
「何を言ってるんだ、君は……」
『ふふっ、いずれ分かるよ。この姿、悪くないでしょ?だから大丈夫。きっと百合先輩はもうーー』
「え?」
鏡の中の俺……英子の声が小さくなっていく。
何かを言っているようだったが、もうその声は聞こえなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「…………ん」
「あ、おはよう英太」
「…………め、ぐみ」
「そうだよ。ほら、少しは身体動かせる?」
目が覚めると、そこは見慣れた俺の部屋だった。
目の前には慈美がいて、俺が起き上がるのを手伝ってくれる。
さっき見ていたのはやはり夢だったようで、あの真っ黒な空間も姿鏡も……そして“英子”と名乗った女の子もいなかった。
「慈美、なんでここに……?」
「なんでって……英太と別れた後、やっぱり心配になったからもう帰ってるかなと思って部屋の前まで行ったら、英太が倒れてたから運んだだけですけど」
「でも鍵は……あ」
「予備鍵、私に渡してたでしょ?自分じゃ無くすからって。忘れてたの?」
慈美が取り出した鍵を見て、やっと思い出した。
まだこの家に越してきたばかりの頃に、そういえば慈美に鍵を預けたんだっけ。
幼馴染の慈美なら安心だからという理由で、渡していたのをすっかり忘れていた。
「ここまで運ぶの、大変だったんだから。少しは感謝してほしいくらいだけど?」
「あ、ありがとう慈美。慈美が居なかったら俺、あんな格好で……あれ?」
「ああ、英太が着ていた服なら全部洗濯してる。返すとき、面倒でしょ?」
当然のようにそう答える慈美の目は、全く笑っていなかった。
きっと慈美はその服が誰の物か、おおよその検討がついているに違いない。
女装した格好で倒れていたんだ、勘づかれても不思議ではなかった。
「……それ、百合先輩のなんだ。洗ってくれて、ありがとな」
「やっぱりそうなんだ。じゃあこのウイッグも、唯野百合の物なんだね」
「ああ、そうだ」
「ねえ、英太。もう分かったでしょ?」
「分かったって、何がだよ」
「唯野百合が見ているのは、英太じゃない。女装させるなんて、絶対におかしいよ。ここまでされてるのに、まだ気が付かないの?」
「これには事情があったんだ。先輩だってわざと俺に女装させようとか……そういうのじゃなかったんだよ」
「事情って……どうせそんなの口実に過ぎないよ。元から英太を女装させようとしてたに違いないんだから」
慈美は異常なまでに、百合先輩に嫌悪感を抱いているようだった。
でも俺には慈美の言っていることが、全く理解できない。
だってそうだろう。百合先輩がわざと俺を女装させることに、果たして何のメリットがあるというのだろうか。
わざわざ好き好んでそんなことをする理由が、先輩にあるとは思えない。
「おいおい、いくらなんでもそれは考え過ぎだろ?大体、俺に女装させて百合先輩に何の得があるんだよ」
「それはっ……!それ、は…………分からない、けど」
「だろ?慈美が心配してくれる気持ちは嬉しいけどさ、考え過ぎだって。でも助けてくれて本当にありがとうな。おかげで体調もすっかり良くなったし、慈美のおかげだよ」
「…………うん、それなら良かった」
「あ、そういえば今って……」
「英太は一日くらい寝てたんだよ。今は次の日の昼過ぎ」
慈美の言う通り、壁に掛けられた時計の針は“12”を指していた。
そして外から漏れる日の光からして、今は夜ではない。
ということはやはり俺は一日近く寝ていたことになる。
「マジか。あ、学校はーー」
「それは大丈夫。私から連絡しておいたから。体調不良ってことで、今日は休みますって」
「あ、ありがとな。つーか慈美は学校行かなくて、大丈夫なのかよ」
「学校なんて行ってる場合じゃないでしょ?幼馴染が倒れてるんだから」
「でもなぁ」
「私のことをとやかく言う前に、まず自分の体調をしっかり管理してほしいんだけど?」
「……す、すいません」
慈美の正論に、ぐうの音も出なかった。
慈美は軽く溜息をついた後に、優しく俺の手を握る。
彼女の温かい体温が、じわっと俺に伝わってきた。
「……英太は、私が守るから。今までだって、これからだって」
「慈美……?」
「だからお願い。無理だけはしないでね」
慈美は本当に心配そうに、俺を見つめていた。
いつもはクールで刺々しい幼馴染の、見たこともない表情。
そこで俺はやっと自分がどれだけ慈美に心配を掛けたか自覚するのだった。
「……悪かったな、慈美。本当にありがとう」
「ううん、もう良いから。私、お昼作って来るね?流石にお腹減ったでしょ」
「ああ、ありがとな」
少し気まずそうにしながら部屋を出ていく慈美。その姿を見ながら、俺はもう一度慈美に謝る。
――ごめんな、慈美。それでも、やっぱり俺は百合先輩を諦めきれない。
一度好きになってしまったら、そんなに簡単に諦められるような性格じゃないんだよ、俺は。
結局、その日は学校に行かず家で慈美と過ごした。
百合先輩のことも気にはなったが、それは明日学校に行ってから考えることにした。
ちなみに慈美が作ってくれたすき焼きは、やっぱり絶品だった。
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