1-7「唯野百合は欲している・5」
熱いシャワーを頭から浴びながら、俺は今置かれている自分の状況を必死に整理していた。
結局百合先輩の半ば強引とも取れる厚意で、俺はこうしてシャワーを使わせてもらっている。
つまりは今全裸なわけだ。好きな人の家に突然お邪魔したと思ったら、シャワー浴びてました……なんて一体どんなレベルの低い妄想だろう。
「……いてぇ」
自分の頬をつねってみるが、やはりこれは夢ではないようだった。
正直、先輩に掛けられたミルクティーの汚れはそんな大したものではなかった。
だからあのまま帰ろうと思えば帰れたはずだ。
それでも百合先輩は自分がやったという負い目があるのだろう、俺の言葉を聞き入れてくれることはなかった。
先輩にとってはそのまま帰すことなんて出来ないと思ったのだろうが、俺にとっては本当に予想外の出来事だ。
先輩も少しは躊躇したりしないのかとも思ったが、性格的にほっとけないのだろう。
それにーー
「俺ってやっぱり“男”として見られてないって、ことだよな……」
いきなり自分の家に男を招くなんて、少しでも気のある相手には出来ないことじゃないだろうか。
だとしたら俺は絶対に先輩から男として見てもらっていない、ということになる。
「こんなに緊張してるのも、俺だけってことか……」
少しずつ自分が冷静になるのを感じる。
百合先輩にとって俺は、所詮話しやすい後輩でしかないわけで。
本来ならばそれでも十分ありがたいことに違いない。
けれど、俺はやっぱり先輩が好きなんだ。
だから先輩の厚意がかえって辛く感じてしまう。
先輩に悪気がないことは俺にだって分かる。だからこそ、余計にこうやって悶々としてしまうのだ。
「……あー、くそ」
先輩の家の風呂場はその外見に劣らず、俺が今まで見た中で一番広かった。
手に取ったシャンプーからは俺の知らない甘い香りがする。
先輩は一番奥のピンクのボトルなら使っていいと言っていた。
ということはおそらく、これは百合先輩がいつも使っているシャンプーに違いないわけで。
「何舞い上がってるんだよ、俺……」
こんな些細なことでいちいち舞い上がってしまう自分自身が、情けなかった。
心を無にして、とにかく頭を洗い続ける。
この女々しい考えも、泡と一緒に落ちてしまえばいいのにと思った。
「――ご、ごめんね。今大丈夫かな?」
「え、百合先輩!?」
急に扉越しに聞こえてきた百合先輩の声に、思わず変な声を上げてしまう。
でも仕方ないじゃないか。
扉一枚越しに自分の好きな人が現れたら、誰だってそうなるだろう。
先輩はすまなさそうに、でも少し焦った感じの様子だった。
何かあったのだろうか。
「急に驚かせてごめんね!あ、あの……」
「だ、大丈夫です。続けてください!」
「あ、ありがとう。……着替えのことなんだけど」
「ああ、すいません。本当に気を遣わなくていいんでーー」
ミルクティーが掛かった部分もそこまで目立ちはしない。
だからすぐに帰れば問題ないだろう。
そう思った俺の考えはーー
「ごめん。親がね、今帰って来るの」
「…………へ?」
――先輩の一言でいとも簡単に打ち崩されるのだった。
百合先輩の話をまとめるとこうだった。
一つ、先輩のご両親……特にお父さんは娘である先輩のことを溺愛しているらしく、今まで友達であろうとも異性が家に入るのを許したことはないそうだ。
誤解を生むような言い方だが、もし先輩が男を連れ込んでいるのがバレれば先輩は勿論、その相手……つまり今回のことは俺のことだが。
その相手はただでは済まないらしい。
オーバーオールとスカートが一体になったような服を、急いで着ながらとりあえず“準備”を進める。
「これ、着方はこれで合ってるんだよな……」
一つ、そのご両親は家の目の前まで帰ってきているそうだ。
確かによく考えればこの家に入ったときに誰にも会うことはなかった。
さっきは緊張しすぎてよく考えていなかったけれど、この家には俺と先輩以外は誰もいなかったということになる。
洗面台にある鏡で、改めて自分の格好が変じゃないか確認する。
いや、正確に言えば今の格好は十分変だ。
まさか二日連続でこんなことをするとは、思いもしなかった。
「よし、これで服は大丈夫だよな……」
そして最後に一つ、このまま“俺”と先輩のお父さんが鉢合わせれば取り返しのつかないことになるらしい。
すごく申し訳なさそうに説明する先輩は、でもどこか余裕がなさそうだった。
どうやら予定よりもかなり早くご両親が帰って来たらしく、先輩にとっても予想外だったようだ。
扉越しに狼狽える先輩を、勿論俺は責めることなんて出来なかった。
最後に先輩が用意してくれたウイッグを、昨日してもらった要領で着ける。
昨日は銀色だったが、今日は明るい茶色のそれを丁寧に着けていく。
普通はウイッグなんて用意していないと思うが、やはりお金持ちは違うということだろうか。
「最後にこれを被って……よしっ」
鏡に映った“俺”は化粧もしていないのに、昨日と同じようにどこからどう見ても女の子にしか見えなかった。
「美少女完成だ……」
先輩のために俺はもう一度だけ、女装をする。
先輩を助けるためならば、この程度のことは痛くも痒くもない。
むしろ結果的には家に上がった俺のせいなわけだ。
だから俺に出来ることならば、どんなことでもやってやる心持だった。
「ど、どうかな?準備できた?」
「あ、はい。もう大丈夫ですよ、開けても」
「う、うん……それじゃあこっちに来てもらってもいいかな」
先輩の声は、少し震えていた。先輩にとってお父さんはそこまで怖い存在なのだろうか。
先輩の緊張が伝わってきて、俺も変な汗をかきそうになる。
大丈夫、鏡を見た限りではちゃんと女に見えているはず。
昨日の文化祭までとはいかないまでも、男だとバレることはないはずだ。
一度深呼吸をしてから、ゆっくりとカーテンを開き脱衣所を出る。
リビングでは百合先輩が不安そうにこちらの様子を伺っているようだった。
早く先輩を安心させなければ。
「あー、お待たせしました……」
「早乙女くん、どう……か……な」
俺を見た先輩は、そのまま固まってしまった。
そのリアクションに、一気に不安が襲い掛かってくる。やっぱり無理があったのだろうか。
「あ、あの先輩……俺――」
「――可愛い……」
「…………え?」
しかしそんな俺の耳に入って来たのは、予想外の言葉だった。
百合先輩はぼーっと俺を見ながらゆっくりと近付いてくる。
よく見れば無表情というよりか、目は潤んでいてなんというかその……妖艶な雰囲気を醸し出していた。
「可愛い……!早乙女くん、可愛すぎるよ……!」
「え、ああ……えっと、ありがとうございます……?」
「うん、私の思った通り……その服もウイッグも、良く似合ってる。昨日の格好よりも、ずっと可愛い……」
「あ、あはは……そんな誉めないでくださいよ。なんか、照れますし……」
百合先輩は恍惚な表情のまま、俺の肩にそっと手を置く。
「えっと、百合先輩……?」
「早乙女くん、私……私、もうーー」
先輩は何かを、大事な何かを言おうとしている。直感的にそれが分かった。
俺たちのこの関係を壊してしまうような、大切な何かをーー
「おーい!帰ったぞー、百合―!!」
「ただいまー!百合待ったかしらー?……あらー?」
「……おかえりなさい、お父さんお母さん!」
「…………あ」
――そしてそれは、リビングに入って来た先輩の両親によって遮られた。
二人がリビングに入って来た瞬間、先輩はまるで直前までのことがなかったのように明るく振る舞う。
それは学校や部活の時にいつも見ている、皆の憧れの百合先輩そのものだった。
俺がつい先ほどまで見ていた、恍惚な表情を浮かべていた彼女とは似ても似つかない……俺がよく知っている先輩だった。
「その子はお友達ー?あら、可愛い子ねー!どなたなのかしらー?」
「あーー」
「この子は私の後輩の早乙女……えと、早乙女英子(えいこ)さん。私が服を汚しちゃったから、ウチに寄ってもらって着替えてもらってたの」
先輩はにこやかな笑顔を崩さないまま、俺の代わりに答えてくれた。
姿は完璧に女になれたとしても、流石に声は厳しい。そんな俺をフォローするためだった。
咄嗟に偽名まで考えてくれたのはいいが……英子っていくら何でもそれは安直ではないだろうか、百合先輩。
でもそれだけ百合先輩も焦っているということに違いなかった。
「おお、百合の友達か!いつも娘がお世話になってます!百合が友達連れてくるなんて、本当に久しぶりじゃないか?なあ、母さん!」
「ほんとねー!小さい頃以来じゃないかしらー?ねえ、百合は学校では上手くやってます?この子、全然自分のこと話してくれなくてーー」
「お父さん、お母さん!……早乙女さんはすごく人見知りだから、そういうのは止めて?私たち、上にいるから。ちょっと話したいこともあるから、入ってこないでよね。さ、いこ……早乙女さん」
「あ、ちょっと百合―!もうー!」
口早にその場を乱暴にまとめて、先輩は俺の手を掴んでそのままリビングを出る。
掴まれたその手は、緊張のせいか手汗で濡れていた。
先輩もこの場にいることに相当のプレッシャーを感じているようだ。
だから俺も下手に抵抗せず、そのまま二階へと駆け上がる。
そしてそのまま先輩の部屋へと何とか逃げることが出来た。
「…………な、なんとかなったかな」
「す、すいません助かりました……」
鍵をかけた途端に緊張の糸が途切れたのか、先輩はその場に座り込んでしまった。
俺もやっと落ち着けると思ったが、周りを見回してそれは間違いであることにすぐ気が付いた。
「百合先輩の……部屋……」
本当に意図せずにだけれど、先輩の部屋にいる。その事実が否が応でも俺の心を高鳴らせた。
たった一日で好きな人の部屋にまで来るなんて、予想できるはずもない。
勿論、先輩にそんな感情がないことは百も承知だ。
けれどこの状況で緊張しない奴はいないだろう。
「…………巻き込んじゃってごめんね、早乙女くん」
「いや、俺の方こそ余計なトラブル起こしてしまったみたいで……本当にすいません」
「早乙女くんが謝る必要なんてないよ。だって私が招いたことなんだから……」
百合先輩はへたり込んだまま、背中越しに言った。
その背中がいつもよりも少し寂しそうで、俺は何とか先輩を励まそうと明るく振る舞うことにする。
何より悲しそうにする先輩を、これ以上見たくなかった。
「……でも、先輩のアドリブ力には驚きました。俺、流石に声まではどうしようもなかったんで本当に助かりましたよ」
「そ、そう?それなら良かったけど……」
「でもまさか咄嗟に俺の偽名まで考えてくれるなんて、ビックリしましたよ?」
「あ、あれは咄嗟だったから……!し、仕方ないでしょ……他に思いつかなかったんだし……」
「あはは……!でも、まさか“英子”なんて安直な名前――」
百合先輩と、目が合った気がした。
その瞬間、強烈な眩暈が俺を襲った。
視界がぼやけて、振り返った先輩の表情がよく分からない。
俺も緊張の糸が切れたからだろうか、なんだかクラクラする。
「だ、だからあれは本当に咄嗟だったの!もう、あんまり虐めないでよ……」
「あ、あはは……す、すいません……」
「……でも、本当に誤魔化せるなんて思わなかったな。早乙女くん、本当によく似合ってるよ、それ」
「そ、そうですか、ね……」
幸い何とか立ててはいるが、このまま長居してはまずい。
よく考えれば今日は色々なことがありすぎた。
今まで他人と積極的に関わろうとしなかったから、きっと俺自身がキャパオーバーになってしまったのだろう。
「それでね、あの……さっきの話なんだけど……わ、私……私ねーー」
「――すいません、今日は帰ります。この服、洗って返しますから。本当に、すいません……!」
「……え?あ、早乙女くん!?」
先輩は何か言いたそうだった。
もしかしたら、ご両親が入ってくる直前に何か言いかけていたことだったのかもしれない。
でも俺はもう限界だった。これ以上、ここにいればもっと先輩に迷惑をかけてしまいそうで。
だから最後の力を振り絞って、俺は先輩の言葉を待たずそのまま部屋を出る。
一気に階段を駆け下りて、そのまま外に飛び出した。
「ま、待って!私ーー」
「はぁはぁ………!」
先輩の声が後ろから聞こえたけれど、振り返る余裕はもうなかった。
視界はどんどん歪んでいって、もうぐちゃぐちゃだった。
強烈な頭の痛みに、どうにかなりそうになる。
一体どうしてしまったというのだろう。
「はぁはぁ……!!」
ただ家を目指してがむしゃらに走り続ける。
きっと先輩は怒っているに違いない。でももしあそこで倒れてでもしたら、それこそ先輩に迷惑を掛けることになっただろう。
おまけに俺が男だということがバレてしまったかもしれない。だからこれで良かったはずだ。
たとえ先輩を怒らせることになったとしても、だ。
「はぁはぁ……ぐっ!!」
しばらく走り続けて、やっと家まで辿り着く。
そしてそこで俺はようやく荷物を先輩の家に置いてきてしまったことを、思い出した。
つまり家の鍵も持っていないということだ。
「くそ………あーー」
痛みに耐えられなくなって、部屋の前で倒れこんでしまう。
我ながらどうしようもない凡ミスだった。
しかもこんな格好で倒れたら、絶対にヤバいことになる。
それは分かっているのに、身体は言うことを聞いてくれなかった。
「――何、その恰好?」
「………め、ぐみ?」
「だから言ったのに……!英太の、馬鹿……」
聞きなじみのある幼馴染の声を聞いた瞬間、俺は意識を手放してしまったーー
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