1-6「唯野百合は欲している・4」


「はぁはぁ……!」


 急いで噴水広場に戻って来た時には、もう辺りは暗くなり始めていた。

 駅前ということもあり、丁度帰宅ラッシュにぶつかってしまったようだ。

 広場はたくさんの人で賑わっている。


「せ、先輩は……!」


 さっきまで二人で座っていたベンチまで戻ったが、やはりそこに百合先輩の姿はもうなかった。

 周りをぐるっと見回したが、先輩らしき人影は見つからない。


「そりゃ、そうだよな……」


 先輩からしたら、遊んでいたところに急に知らない奴が割り込んできて。

 しかも相手の俺までそのまま連れていかれてしまったのだから、ここに残っている理由なんてあるはずもない。

 スマホで先輩に連絡しようとも思ったが、繋がったところで一体何を話せばいいのだろう。

 慈美の行動の真意は、正直俺自身もまだよく分かっていない。

 そんな状態で先輩に電話したところで、余計に不愉快な思いをさせるだけに違いなかった。


「また、やっちまった……」


 折角先輩が、落ち込んでいる俺のために時間を使ってくれたのに。

 俺はまた、先輩の厚意を踏みにじってしまった。

 今回ばかりは嫌われたに違いない。そのままベンチに座り込み、天を見上げる。

 星一つ見えない真っ暗な夜空は、今にでも吸い込まれてしまいそうだった。

 いっそのことこのまま吸い込まれてしまった方がーー


「……早乙女くん?」

「…………え」


 だから名前を呼ばれたときは、心臓が飛び出るかと思った。

 急いで視界を戻すと、そこには確かに百合先輩が立っていた。

 思わず幻覚かと思い、目を凝らすがやはり先輩本人に間違いない。


「せ、先輩……なんで……?」

「もしかしたら、待ってたら戻ってきてくれるかもって……あはは、良かった。私の勘もまだまだ捨てたもんじゃないね?」


 ほっとした様子で、先輩は自然と俺の隣に座った。

 手にはホットのミルクティーを持っている。

 もしかして、俺が来るまでここで待つつもりだったんじゃ……一瞬そう思ったが、そんな都合の良い妄想はすぐに消し飛ばした。

 先輩は優しい人だから、俺のことを心配してくれただけだ。

 きっともう少し遅ければ、間に合わなかっただろう。


「本当に、すいませんでした……!急にいなくなって……」

「ううん、全然気にしてないから大丈夫だよ。むしろ早乙女くんの方は大丈夫だったの?」

「俺、ですか?」

「一緒に帰った子、ええと……あの幼馴染の子は?」


 心配そうな先輩にどう答えるべきか、俺には正解が分からなかった。

 慈美は言っていた。百合先輩と仲良くなれば、きっと不幸になると。

 でも先輩を目の前にしても、俺にはそんな予感すら感じられない。

 だから俺は慈美の忠告を心の隅に追いやることにした。


「……すいません、ちょっと喧嘩してて。でも大丈夫です。今さっき仲直りしてきたんで。心配かけちゃって本当にすいません」

「……そう、なんだ」


 苦しい言い訳だとは思ったが、他に何も思いつかなかった。

 百合先輩の顔を見たら、ウソがばれてしまいそうだったので俯きながら話すしかない。

 先輩がどんな表情をしているのか、気になったが今の俺にはどうすることも出来なかった。


「……うん、仲直り出来たなら良かった。もしかして私が原因で、仲が悪くなったりしてないかなって心配してたのーー」

「そんなこと!……そ、そんなことありません。先輩は、関係ないですから」


 思わず声を張り上げてしまったのは、失敗だったかもしれない。

 でもこれ以上先輩を悲しませたくなくて、つい反応してしまった。


「関係ない、か……」

「あの、先輩?」

「ううん、なんでもない!さ、もう暗くなってきたし帰ろっか?」

「あ、はい……」


 本当は晩御飯でもと思ったが、今はそんな雰囲気でもなかった。

 今日はもう、これ以上一緒にいない方が賢明なのかもしれない。


「……もし良かったら、ウチまで送ってくれると嬉しいな?最近、変な人が多いって聞くし……もし、出来たらだけど」

「は、はい!勿論送ります!」

「あはは、ありがとう」


 あからさまに肩を落とした俺に、気を遣ってくれたのだろう。

 先輩の誘いを断るはずもなく、そのまま二人で先輩の家まで行くことにした。

 今日一日、本当に最初から最後まで先輩に気を遣わせてばかりだった。

 やはり今の俺ではまだまだ先輩の隣を歩くに相応しくない。


「それでこないだなんだけどねーー」

「あ、俺も知ってます」


 世間話をしながら、二人で夜道を歩く。

 いつか本当の意味で先輩の隣を歩けるように、今は漢を磨かなければならない。

 それを痛感した一日だった。

















「ここがウチだよ。意外と駅から近いでしょ?」

「…………」


 駅から歩いて10分もしない内に、先輩の家に着いた。

 そして目の前に広がる豪邸に、俺は思わず言葉をなくしていた。

 確かに先輩の雰囲気からはどことなく、お嬢様のオーラを感じていたがまさか本当だったとは。


「早乙女くん、どうかした?」

「い、いや!すいません……ウチと違い過ぎたんでつい……」

「あはは、私はもう見慣れちゃったけど、始めてウチに来る人は皆驚くからね」

「そ、そうですよね……」


 おそらく1ブロック丸々が先輩の家に違いない。それほど大きな家だった。

 恋に身分は関係ないとか、身分が違う方がかえって燃える恋もあるとか昔の人は言ったらしい。

 でも実際にこうやってその差をまじまじと見せつけられると、否が応でも怯んでしまう。

 色んな意味で、百合先輩は高嶺の花であることを改めて痛感するのだった。


「……今日は、本当にありがとう。すごく楽しかったよ」

「俺の方こそ、先輩の秘密の場所、教えてくれて嬉しかったです」

「ふふ、あの場所は二人だけの秘密、だからね?特にあのカフェは、私のお気に入りなんだから」


 ウインクをしながら、百合先輩は笑顔でそう言った。

 本当に嬉しかった。俺なんかが、先輩と秘密を共有できることが。

 何より“二人だけの秘密”という言葉が、俺にとっては甘美な響きに聞こえた。


「……はい。絶対に誰にも言いません。だから、その……また、一緒に行きませんか。今度は、俺のオススメも紹介します。もしかしたら、もう先輩は知ってるかもしれないですけど……。だから……」


 きっと本来は、もっとスマートな誘い方なんて幾らでもあるだろう。

 でも今の俺にはこれが精一杯だった。とにかく今日だけで、この関係を終わらせたくなかった。

 ただそれだけだった。


「……早乙女くん。私――」

「あーー」


 それは一瞬の出来事だった。

 先輩が持っていたミルクティーが、ふとした拍子に俺にかかってしまった。

 幸いもうすっかり冷めたミルクティーは、火傷の心配はない。

 着ている服が濡れる程度だった。


「あ、ごめんね滑っちゃって……!だ、大丈夫!?」

「全然大丈夫ですよ。冷めてたんで特に問題ないですし」

「でも服が……ゴメンね、結構かかっちゃったみたい……!」


 確かに先輩の言う通り、残りのミルクティーほぼ全てを俺の服が吸収してしまったようだ。

 まあ色はそこまで変わっていないので、問題はないだろう。

 慌てて謝る先輩を見て、むしろ申し訳ない気持ちになる。

 別にそこまで謝るようなことじゃない。


「あー、先輩。本当に大丈夫ですから。そんなに謝らないでくださいよ」

「ううん、本当にごめんなさい!結構寒いし、そのままじゃ風邪引いちゃうよね……」

「いや、だから本当に大したことーー」

「そうだ!ウチに寄っていって!シャワーもあるし、着替えもあると思うから!」

「…………はい?」


 予想もしなかった百合先輩の提案に、俺は固まってしまう。

 そして先輩はいつの間にかどんどん話を進めてしまうのだった。


「それじゃあ行こう!早くしないと風邪引いちゃうから!」

「え、いや、え?」


 先輩に手を引っ張られて、抵抗する間もなく俺は先輩の家にお邪魔することになった。








 ――この時俺は目の前の百合先輩のことで、頭が一杯だった。

 だから慈美の忠告なんて、完全に忘れてしまっていたんだ。

 もしここで無理矢理にでも先輩の申し出を断ることが出来たのなら、俺たちの関係はあんな風にはならなかったのかもしれない。

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