1-5「小山内慈美は知っている・2」
「慈美!」
「…………」
俺の呼びかけに応えることなく、慈美は黙って歩く。
きつく握ったその手は、一切力を緩めることなく痛いほどに俺の腕を掴んでいた。
「おい、慈美!」
「…………」
「慈美っ!!」
「…………何?」
何度か呼び掛けて、やっと慈美は反応してくれた。
でも彼女の纏う雰囲気が、俺の知っている幼馴染と違い過ぎて戸惑ってしまう。
確かに慈美は自分の意見を曲げずに、思ったことを遠慮なくズバズバと言うような性格だ。
そしてそんな歯に衣着せぬところも、慈美らしいところだとは思う。
けれど今の慈美はそれとは違う、得体の知れない何かで動いているように思えてならなかった。
「何じゃねえよ!急に現れたと思ったらこんなことして、お前何考えてるんだよ……!」
「だって約束したでしょ?今日は英太のために晩御飯作るって。英太も、良いって言ってくれたよね」
「はぁ!?一体何をーー」
「言ってくれたよね?」
今までに感じたことのない圧だった。本当に今目の前にいるのは、俺の幼馴染なのだろうか。
思わずそんな馬鹿げた考えが浮かぶくらいに、慈美の様子は普通ではなかった。
「……た、確かに言ったけどさ」
「うん、良かった。ちゃんと私との約束、覚えてくれてて。今日はね、英太の好きなすき焼きにしようと思うんだ」
何がそんなに楽しいのか、慈美はまるで子供のように楽しそうな声で軽快に歩いていく。
勿論、俺の腕をきつく握ったまま。
昨日から、慈美の様子がおかしいとは思っていた。
でも昨日の時点では俺の話を聞いてくれたし、俺自身もかなり疲れていた。
だからただの思い違いだとばかり思っていた。
しかし今の慈美はやっぱりおかしい。
情緒不安定というか……とにかくこんな彼女を、俺は見たことがなかった。
「……どうしたんだよ、慈美」
「あ、もしかしてすき焼き嫌だった?寒いから丁度良いかなって思ったんだけど」
「慈美」
「うーん、それなら簡単に牛丼とかにしようか?材料は余るから、また明日考えればいいし」
「慈美!」
「……どうしたの、そんな大きい声出して。近所迷惑だから止めなよ」
少し不満そうな顔をして、慈美は俺に抗議する。
その顔は、態度は俺の知っている慈美そのものだった。
だからこそ、俺は余計に不安を覚える。
もっと取り乱していてくれれば、それこそ理解のしようもある。
でも今の慈美はいつもの、俺の知っている幼馴染の小山内慈美と変わらない。
「慈美が俺の話を聞こうとしないからだろ……!」
「……英太の、話?」
「そうだよ!大体、何であんなところにいたんだよ!急に俺たちの前に現れて……」
「急にって……私はただ駅前で今日の買い物をしてただけだよ。帰りにあの噴水広場を通ったら、偶然英太を見つけただけ。何でそんなに怒ってるの?」
当然のように話す、慈美の話は確かに一見して筋は通っていた。
俺だってただ慈美が通り掛かっただけで、こんなにムキになっているわけじゃない。
俺が言いたいことくらい、長い付き合いの慈美なら分かっているはずだ。
なのに慈美は少し困ったような表情をしていた。
はっきり言わなければ分からないと言うなら、言うしかない。
「じゃあ……なんで先輩から俺を引き離したんだ!しかもあんな突然、先輩だって困ってただろ!?」
「先輩って、あの唯野百合のこと?」
「他に誰がいるっていうんだよ!……なあ、慈美どうしちゃったんだよ。急にこんなことして……お前、おかしいぞ」
「……おかしいのは、英太の方だよ」
聞こえてきたのはさっきも聞いた、あの氷のように冷たい声だった。
ついさっきまで目の前にいた幼馴染は、また俺の知っている彼女ではなくなっていて。
その急激な変化に、思わず言葉を詰まらせてしまう。
「私、言ったよね。唯野先輩は止めた方が良いって。なんでそれが分からないの?」
「な、なんでって……」
確かに慈美は事あるごとに、百合先輩は止めた方がいいと俺に忠告していた。
でもそれはあくまでも幼馴染として、俺がフラれて傷付くのを心配してくれているからだと思っていた。
「あの人は、駄目だって。なのに……どうして分かってくれないの?」
でも慈美の言い方はまるで、俺ではなく百合先輩に問題があるような言い方だ。
慈美がなぜここまでしつこく、百合先輩を否定するのか俺にはさっぱり分からない。
「英太、あの人はね……英太が女装コンテストに出てるのを、見てたんだよ?」
「そ、それがどうしたっていうんだよ……」
「…………分からないなら、もう良いよ。でもね、きっと英太は後悔するよ。このまま唯野先輩と関係を進めたって、待っているのは不幸しかない」
慈美は静かに、でもはっきりと俺の目を見てそう言い切った。
一体慈美が何を言いたいのか、俺にはさっぱり分からない。
ただはっきり分かることは、慈美は俺と百合先輩が仲良くなるのが嫌なのだろうということだ。
「……そんなの、やってみないと分からないだろ」
「分かるから言ってるんだけど……でもね、英太がそう言うなら私は止めないよ」
「え?」
「頑張ればいい。それで頑張ったその先、絶望したときに私のことを思い出してくれたら、それでいいよ。私はいつだって英太の側にいるから」
「……俺と先輩が仲良くなるの、嫌なんじゃないのかよ」
「嫌だよ?でも、英太の意志が固いなら……私にはどうすることも出来ないから」
あっさりとした態度で、そのまま慈美は歩き出してしまう。
さっきの別人のような雰囲気はなくなって、クールな幼馴染の背中がどんどん遠ざかっていく。
「お、おいっ慈美!?」
「選んでよ、英太。このまま私と帰ってすき焼きを食べるのか。それとも唯野先輩のところに戻るのか」
「な、なに言ってーー」
「選んで?」
混乱する俺とは対照的に、慈美は落ち着いた様子で俺を見つめていた。
一体彼女が何をしたいのか、俺にはさっぱり分からない。
正直言って、慈美は友達が少ない。
だからてっきり先輩に俺が取られるんじゃないかと、慈美が嫉妬しているのではないかと思っていた。
幼馴染ならではの、可愛らしい嫉妬だと。
でも慈美は、俺に選べという。
そして忠告した上で、俺の好きにしていいと……そう言っている。
そんな慈美の行動に、俺の頭は余計混乱する。
俺は百合先輩のことが、まだ諦められない。だからこそ今からでも戻るべきに決まっているのだが、慈美の忠告が頭から離れない。
百合先輩とこのまま仲良くなったら、俺は不幸になる……?
そんなわけないはずなのに、慈美の目を見るとそうと言い切れない。
妙な説得力が彼女の言葉にはある。
まるで何かを確信しているような慈美。
一体どうすればいいのか、俺には分からなくなっていた。
「……英太、選んでよ」
「俺は……俺、はーー」
早くしないと百合先輩も帰ってしまうかもしれない。いや、既に帰ってしまっている可能性も高い。
時間はもう残されていなかった。
ほんの数秒考えた後、俺はーー
「……残念、失敗しちゃった」
もう暗くなった帰り道を、私は一人買い物袋をぶら下げて帰る。
渾身の説得も、今の英太には届かなかったようだ。
それだけ、英太の中であの唯野百合とかいう女の存在が大きいということ。
「……まあ、今はまだ良いけど」
こうなってしまうことは、大体分かっていた。
だから今の私に出来ることは、英太のこれからを見守ってあげるだけ。
彼に“もしものこと”が起きないように、側で注意していることだけだ。
「あの女には、英太のことは理解できないよ」
もう見えなくなった彼の背中に、小さく呟く。
本当の英太を知っているのは、私だけ。幼馴染の私だけなのだ。
そして英太を“苦しみ”から遠ざけてあげることが出来るのも……“知っている”私にしか出来ないのだから。
「……女装なんて、するからこんなことになるんだよ」
体育館で見た英太の姿は、あまりにも印象的過ぎた。
そしてその英太を見たときの唯野百合の表情を、私は見逃さなかった。
彼女では、駄目だ。彼女では英太を理解できない。
だってーー
『ーーねえ、何で邪魔するの……慈美』
「……っ!」
英太の女装姿を思い出すだけで、激しい眩暈に襲われる。
真っ赤に燃える炎が、脳裏に蘇る。あの時の熱さが、まだ忘れられない。
しばらくその場でじっとしていると、やっと呼吸が整ってきた。
やはり英太に女装なんて、させるんじゃなかった。
昨日だって私はあれ程止めたのに。
無理矢理にでも止めさせるべきだったんだ。
このままじゃ、もしかしたら取り返しのつかないことになるかもしれない。
「英太、お願い……気付いてよ」
私の小さな呟きは、誰にも聞かれることもなく真っ黒な夜空へと消えていった。
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