0-6「女装したら人生変わったんだが」


 夕焼けに染まった中庭で、百合先輩はゆっくりと俺に近付いてくる。

 どうして彼女がここにいるのか。未だに理解できない俺を見て先輩は優しく微笑んだ。

 でもその笑顔が今の俺には正直辛い。

 フラれた直後にその本人にあって、辛くない人なんてこの世にいないだろう。


「探したよ、早乙女くん」

「探した?俺を、ですか」


 更に先輩は俺を探しているなんて言い出した。ますます意味が分からない。

 さっきの保健室での会話で、俺たちが話すべきことは全て話し終えたはずだ。

 相変わらず優しい笑みを浮かべたまま、百合先輩はさっきまで俺が座っていたベンチを指差した。


「少し話そ?早乙女くんも走ってばかりで疲れたでしょ」

「い、いや俺は別に……」

「ね?」

「……分かりました」


 先輩の“ね?”に普段は感じない、威圧のようなものを感じて俺は思わず頷いてしまった。

 もしかして俺は何か、先輩を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。

 そういえば保健室から逃げるように出たときに、先輩は何か言っていた気がする。

 重要な何かを、俺は聞き逃してしまったのだろうか。


「お腹の傷は、もう大丈夫?」

「あ、ああ。大丈夫です。まだ少し痛みますけど、その内治りますから……」

「そう。……ねえ、覚えてる?最初に早乙女くんが女テニに連れてこられた時も、ここで話したよね」

「……覚えてますよ、勿論」


 先輩は懐かしそうに話す。忘れるもんか。

 あの時もこんな風に夕焼けで、俺は百合先輩と初めて話したんだ。

 そうやって何度も話していく内に、気が付いたら俺はこの人のことが好きになっていたんだ。

 俺をちゃんと一人の人間として見てくれる先輩を、いつの間にか俺は好きになっていた。


「私ね、実は嬉しかったんだ」

「嬉しかった?」

「うん。皆、私のことを頼りがいのある完璧人間だって思ってる。親だってそう。両親の、周りの期待応えるためにいつも本当の自分を隠して……」

「そう、だったんですか……」


 夕日を眺める先輩の表情は、よく見えなかった。

 でも悲しそうなその声を聞いて、俺は先輩がどれだけのプレッシャーを抱えていたのか。

 その重さがほんの少しだけ分かった気がした。


「だからね、こうやって早乙女くんと話す時だけが、唯一着飾らなくていい……本当の自分でいられる時間だった」

「……俺、知りませんでした。先輩がそんな風に思ってたなんて」

「ちょっと重かった、よね」

「そんなこと、ないです。俺も同じでした。俺も誰からも認められなくて、俺自身を見てくれなくて……でも先輩と話している時だけ、俺の心は救われていたんです」

「早乙女くん……」


 それは、俺の本心だった。

 本当はこんなふざけた格好で言うべきじゃないってことくらい、分かっている。

 でも百合先輩が話したことが、あまりにも俺が思っていたことと同じすぎてつい我慢できなかった。

 百合先輩はゆっくりと俺に振り向く。

 隣に座っているからか、いつもより俺たちの距離はずっと近かった。


「あ、すいませんーー」

 

 思わず距離を取ろうとした俺の手を、百合先輩の手が掴む。


「――行かないで」

「えっと……あ、あはは。こんな時に冗談なんて、悪趣味ですよ先輩」


 突然のことに混乱する俺の手を、それでも百合先輩は掴んだまま離してはくれない。

 むしろ少しずつきつくなっているような気さえした。


「……冗談なんかじゃ、ないから」

「えっと、え……?」


 百合先輩は真剣な眼差しで俺をじっと見つめる。その深い瞳に吸い込まれそうになる。

 俺たちの距離はほぼゼロで、今にも肩同士が当たってしまいそうなほどだった。

 沈んでいく夕焼けが、俺たちの影だけを中庭に映している。

 心臓がうるさいくらいに飛び跳ねて、口から出そうだった。


「さっきの告白の返事…………なしにして、ほしいの」

「なし、ですか……?」

「うん、なし。駄目、かな?」


 先輩の言っていることがすぐには飲み込めない。

 なしってどういうことだ。

 さっき先輩はこの場所が、俺との会話が大切だと言っていた。

 つまり今日の告白をなしにして、今まで通りの関係に戻りたいって……そういうことなのか。

 それはフラれた俺自身も、いつかそうなれば良いと思っていた願望だ。

 恋人にはなれない。でも先輩との関係を失うくらいなら、なかったことにして今まで通りの俺たちに戻る。

 先輩が、それを望んでいるのなら俺はーー


「……分かりました」


 俺は先輩の提案を受け入れることにした。

 告白がなかったことになるのは、正直複雑ではある。

 でもそれ以上に、俺は先輩との絆を優先したい。

 未練たらたらな“漢”らしくない決断だった。


「こんなワガママ、言ってゴメンね」

「い、いや……俺もその、そう出来たらなって」


 百合先輩は本当に嬉しそうに微笑んでくれた。

 確かに俺の選択は漢らしくないのかもしれない。でも良いじゃないか、これで。

 だって俺の好きな人は、この関係を望んでいるのだから。


「それでね、あの……こんなこと、急に言うなんて変だなって、自分でも思うんだけど……」

「どうしたんですか?言ってください、ここでは遠慮とかはなし……ですよ」


 後で考えれば俺は、この時根本的な勘違いをしていた。

 俺と先輩の考えは似ているようで実は全く違っていたことを、俺は理解していなかったんだ。


「――明日、どこか出かけない?そ、その……出来れば、二人きりで」

「………………え?」


 まさか告白してフラれた相手に、今度はデートに誘われるなんて誰が想像できるだろうか。

 

 










 ――今思えばこの女装がなければ、俺が“彼女”に会うこともきっとなかっただろう。

 そしてこの日、俺が女装をした日から俺の人生は大きく変わり始めるのだった。





















 プロローグ ーやけくそで女装したら、人生変わったんだが・完―


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