第11話

 強い匂いが鼻をついた。


 タバコだ。


 久しぶりにかいだ気がする。


 私自身はタバコの匂いが嫌いではないが、チカは好きではない。

 消してもらわなくては、とぼんやり思う。

 

しかし、今自分はどこにいるのだろう。職場だろうか。外? ここ数年で、喫煙できるスペースはほとんどなくなったけれど。


 氷の音がすぐ近くで聞こえて、私は目を開けた。


 自宅のリビングだった。

 私は眠っていたのだろうか?

 私は椅子に座っている。向かいにあるソファには、見知らぬ人物が座っていた。


「やっとこちらを見てくれましたね」

 

 見た瞬間に女性だと思ったが、声は男性のものだった。

 色が白く線が細い。真っ直ぐな黒髪を肩口て切りそろえている。

 夏だというのに袖の長い黒のシャツを着ているが、汗をかいているようには見えなかった。


 そうか、今は夏か。

 天井の隅を見ればエアコンが動いている。窓から見える空も、夏のもののように思えた。


「あの、うちは禁煙なんです。すみませんが、タバコを消してもらえませんか」


 私がそういうと、彼は「失礼」と一言いい、特にためらいもなく、懐から出した携帯灰皿にタバコを落とした。


 テーブルにはアイスティーの入ったグラスが三つおいてある。グラスの周りには水滴がついていて、時折、氷が動いて涼やかな音がした。

 アイスティーを出したのは誰だろうか。

 覚えていないが自分かもしれない。それに、彼を招き入れたのも。

 途端に不安になった。


「お母様は買い物に出られてますよ」


 そんな私の様子を知ってか知らずか、彼はそういった。

 何ということもない一言だったが、私の不安は霧散していった。

 彼を部屋に入れたのも、飲み物を用意したのも母なのだろう。そう結論づけた。


「あの、あなたは」


 私がおずおずとそう尋ねると、彼は荘島しょうじま朱希嗣あきつぐと名乗り、名刺を渡してくれた。名前だけが印字されていて、会社名などは記されていない。

 私は名刺を持っていなかったので、名乗るだけにした。


 沈黙がしばらく続いた。

 母の客かもしれないから、母の帰宅を待とうと思った。

 もし彼が私の客だったとしたら、なんらかの話が始まるはずだが、それもない。


 初対面の相手と、無言で顔を付き合わせるというのは、どことなく気まずい。

 ちらちらと時計を見ながら黙って座っていると、視線の端で扉が開いた。


 わたしとチカの寝室から女性が一人出てきた。

 あまりにも静かだったので気がつかなかったが、テーブルにグラスは三つあるのだから、客がもう一人いるのは予想できたはずだ。


 女性は私の顔を見ると会釈をしてから、こちらきた。

 男女は小声で何かやりとりをしているが、はっきりとは聞き取れなかった。

 なぜ女性は寝室から出てきたのだろう。

 そもそも、なぜ二人はここにいるのだろう。


 二人は本当に母の客なのだろうか。


 それらの疑問を尋ねようと、タイミングを見計らっていたが、二人は会話を終えると、神妙な顔つきで居住まいを正した。


 そして私にこう問うてきた。


 チカに会いたくはないか、と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る