第9話 捨てた名前
美以子たちのたこ焼き屋は、大盛況に終わり、14時には売り切れてしまった。売上も予想以上で、合同チームの出店は大成功だった。文化祭は16時で終わるため、掃除の時間まで各自で文化祭を楽しむこととなった。
いつもと全く違う、賑やかな裏庭のベンチで、美以子は一休みしていた。八千代がクレープを賈ってきてくれるので、静かに待っていたのだった。
「今日は大変だったね。駆り出しちゃってごめんね。」
隣に多西が座った。彼は持っていたオレンジジュースを美以子に渡した。
「ありがとう。びっくりした。多西君て仕事できる人なんだね。手際が良すぎて。一人でお店やを回してる感じだったよ。」
「いや、正直これは予想してなかった。やる気も無かったしさ、適当にこなして早く帰ろうと思ってたんだよ。でもまぁ....楽しかったけどね。吉池さんも、信じられないスピードでたこ焼き焼いてたね。横を見てびっくりした。」
二人は顔を見合わせて笑った。少し高揚しているのか、笑いがなかなか止まらない。
「おーい、買ってきたよ。やっぱり多西もいたんだね。多西のぶんも買ってきたよ。」
「八千代、井田君、ありがとう。並んでた?クレープ人気だったよね。」
「かなりね。でも客が減ったのか、午前中よりは混んでないみたいよ。あ、井田、まだ食べちゃだめ。ねぇせっかくだから、4人で写真撮ろうよ。」
八千代はベンチの多西と美以子を退けると、スマホを置いてタイマーをセットした。誰も反対する暇もないまま、4人で近づきポーズを撮る。美以子は少し苦笑いになりそうなので、思いきって笑顔にしてみた。今の楽しい気持ちを残せるように、楽しかったと、自分が振り替えれるように。井田と八千代がくっつき、必然的に隣にいる多西の肩が、美以子の腕に少し触れた。それだけで、体が熱くなるのがわかる。嫌じゃない、このまま側にいたい....せめて今の一瞬だけでも。
「あれ、間野じゃね?」
美以子はその声を聞いて、体が動かなくなった。
時は止まり、これが夢で今の声は聞こえなかったと思いたい。
私の名前。捨てた名前。
「やっぱり、間野じゃん!引っ越したのは知ってたけど、横浜に来てたんだ。俺、わかる?坂井だけど。坂井公介!隣のクラスだったよね。」
その声の主は、明るく楽し気に美以子に近づいてくる。坂井公介は、美以子の中学の同級生である。美以子の中学は厚木市内に在り、卒業と同時に横浜に引っ越したのだ。だが、父親の他界もあり、三年生の途中からすでに理香子のもとに身を寄せていた。同級生たちにはさよならも、理由も話さず、突然の引っ越しだった。坂井はそんな同級生の中でも、美以子と関わりのある人間ではなかった。話したこともほとんどない。あくまでただの同級生だ。もし彼が、美以子の少しでも近くにいた人であったなら。恐らくこんなにも明るく声をかけてくることは無かっただろう。また、坂井でなければ、同級生だったとしても、ほとんど話したことのない美以子を気にしなかっただろう。彼は生来の人好きで、かつ目立つことが好きな人物であった。また、思慮に欠ける言動を意識せずにとってしまう軽薄さを持っていた。
「まじ、中3で急に学校来ないからさ、みんな心配してたよ。あれだよね、危なかったんだよね、オヤジに拉致られたとかなんか聞いたし。」
「.......」
美以子の顔がみるみる青ざめていく。力が抜け、目の前が暗くなり、坂井の言葉に返答することもできない。
(気持ち悪い.....)
美以子は胸が急に苦しくなるのがわかった。押し付けるような痛みだ。
多西たちは、ずかずかと美以子に近づく坂井という男に、彼女が反応しないことに気づいた。間野とは美以子のことだろうか?拉致とはなんのことなのか。
「拉致って何、事件?」
近くに居た女子たちがヒソヒソ声で話している。聞き耳を立てていたのだ。井田や多西と写真を撮る彼女たちを羨ましく見ていたら、思わぬ言葉を聞き、話しを漏らすまいと輪の中に入ろうとしている。
「無事で良かったってみんなで安心したんだよ。間野さ、また地元に遊びに来いよ。みんなも喜ぶよ。連絡先を交換しようぜ。」
坂井は美以子の様子も構わず、携帯を出した。側には連れだろうか、同じくらいの歳の男子が5人程立ちすくんでいる。口元はニヤついており、坂井が美以子に話している意図を理解しているようだ。
美以子は坂井に返事ができなかった。立ちすくみ、話すこともできず、下を向いている。
「あのさ、辞めてくれる?」
助け船を出したのは八千代だった。
「彼氏の前で、連絡先は教えないっしょ。美以子、具合が悪いみたいだから、あっち行くから。」
八千代は多西のパーカーを引っ張り、美以子に手を出すなとアピールした。
「まじか、間野に彼氏ができたんだ。えー、地元の男子はショック受けるよ。言っとこー。じゃあね。」
坂井は呆気なく、友達を連れて行ってしまった。連絡先を聞けなかったことがばつが悪かったのか、何でもないという表情で足早に去っていった。
八千代は多西と井田にクレープを渡すと、顎で去るように伝え、美以子の背中を支えた。
「八千代、ごめんね。ちょっと気分悪い。」
「保健室に行こう。私、一緒に行くから。」
虚ろな表情の美以子を見て、八千代は坂井に殺意を覚えた。詳しい事情は知らない、美以子から昔のことは聞いたこともない。眠り姫の彼女には何かきっと、抱えてるものがあるのだ。そんな予感を持ちながら、いつか話してくれたらとぼんやり思っていた。それをあんなに軽く、簡単に口に出すとは!
(あんなに考えなしに話せるもんなの?頭おかしいでしょ、自分が目立ちたいだけのバカじゃん。最悪だ。美以子がせっかく、元気になってきてたのに。)
八千代の目に涙が浮かんだ。美以子はそんな八千代に気づく余裕もなく、保健室に着くと倒れるようにベッドに横になり、深い眠りに入った。
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