第6話 美以子の記憶

理香子は食卓に上がっている、ふわふわな表面に少し焼き色のついた卵焼きを、美味しそうに頬張った。

「あー!みーちゃんの卵焼きは、本当に美味しいわ!私が作るのと何で違うのかしら?」

「ママ、料理好きじゃないでしょ。」

「そうね、ママは食べる専門だから仕方ないよね。」

恵茉は理香子の発言に、可愛らしい声を出して笑っている。

「あの、理香子さん」

「んー?」

「これから卵、少し多めに使っていいですか?」

「もちろんよ、うちにあるのは何でも使っていいのよ。足りなければ買ってきてもいいから。」

「ありがとうございます。」

美以子はお弁当を詰めながら、少し頬を赤くして下を向いた。理香子は美以子が何かをお願いしてくるのは初めてだったので、嬉しくなり、恵茉の頭を撫でた。恵茉は頭を触るなと、無言で手で払っている。

「今日は日曜日だけど、お弁当作るのね。お友達と出掛けるの?」

「ママ、今はね、インスタでピクニックの写真上げるのが流行ってるの。みーちゃんのお弁当は可愛いから、映え狙いでしょ!」

自信満々に答える恵茉の様子に、美以子は笑いながら答えた。

「来月、文化祭があるんです。日曜日も準備しないと間に合わないなら、今日はみんなで集まることになって。お昼までなんですけど、ご飯は学校で食べる約束で。」

「いいわねー、青春だわ。みーちゃんの学校の文化祭に行きたいね。近所の人も楽しみにしてるものね。」

「恵茉も行くよ!みーちゃんのクラス、たこ焼きやるんだって。絶対に食べたいよ!」

「たこ焼き、いいねー。」

のそのそと郁人が二階から降りてきた。寝起きで髪はボサボサだ。郁人は理香子の向かいに座ると、美以子が作ってくれた卵焼きに手を伸ばした。

美以子は準備を終えると手早く片付けをし、学校に行く支度を始めた。今日は看板に色を塗ったり出店の飾りを作るので、青いジャージで登校する。お弁当には小さなタッパーをつけて、そこにはプラスされた卵焼きを入れている。理香子はどこか明るい美以子の様子に密かに喜びを感じていた。

(卵焼き、誰かにあげるのね。美以子ちゃん、いいお友達ができたのかな。彼氏かもしれないね。いいじゃない、いいじゃない。学校生活を楽しんでくれたら、私も嬉しいわ。)

「行ってきます!」

美以子はドアを明け、眩しい朝日に目を細めた。今日は多西も学校に来る。一緒にお昼ご飯を食べる約束だ。昨夜、連絡を取り合い、決めた時から美以子の心は躍っていた。



学校に着くと、八千代と井田が教室で衣装の準備をしていた。クラスには二組の生徒も混じっていて、20名程が登校している。井田の話では、部活で今は来れていないが、あとで合流する生徒もいるそうだ。井田は慣れない裁縫に四苦八苦しながら、八千代に教わって何とか仕上げようとしていた。

「井田は今日、法被襟を縫い付けられたら上出来だ。」

八千代は不器用な井田に呆れつつ、彼が諦めないように明確な目標を与えた。

「八千代、けっこう上手なんだな。」

隣で器用に縫う八千代を見て、井田はどこか得意気な表情をしている。

美以子は二人のやり取りを微笑ましく見ながら、看板の作業に向かう準備をした。

「あ、多西じゃん!」

クラスの女子が、入ってきた多西に声をかけた。学校の時間以外参加しない多西が、珍しく今日は来たので、教室の女子たちは少しテンションが上がったようだ。

「珍しくない?!多西、今日はバイト無いの?」

「うん、今日は休んだ。文化祭の手伝いもあまりできてないし。いま、どこまで進んでる?俺は何をしようか。」

美以子はここぞとばかりに、教室の端から多西をまじまじと見つめた。明るい茶色の髪が、今日は起きたまま来たのか、郁人と同じように寝癖がついている。グレーのパーカーに学校の青いジャージを履いていて、いつもの制服とは違っているせいか、何だかとても素敵に見える。

(多西くんって、かっこいいんだ。)

美以子は今更ながら、多西が他の女子に密かに人気があることに気がついた。さっきまで気だるそうに作業をしていた女子たちが、明らかに元気になっている。

(井田くんこそ、背が高くてイケメンって感じだけど、八千代がいるからかな。みんな、多西くんと話したいみたい。)

裁縫を教えるために、多西の周りに自然と輪ができて賑やかになっている。美以子は少し寂しい気持ちもしながら、教室を出ようとした。多西の横を通ろうとした時、彼と目があった。

多西は声をかけず、少し表情を緩ませて美以子を見つめた。彼は美以子に教室では話しかけないのだ。美以子が恥ずかしがること、他の人を避けていることをわかっているので、表情だけで挨拶をしてくれる。

(笑顔くらいできたらいいのに、なんか苦笑いになっちゃった。)

頬を赤くしながら、美以子は作業室へと向かった。お昼まではまだ少し時間がある。作業を頑張って、早く裏庭に行こう。美以子はそう心で呟きなから、ふと、こんなにも楽しみな時間が自分にもできたことに驚いた。呪われたお姫様は夢に出てこない。美以子自身も、何かが少しづつ変わってきている、そんな予感がした。


美以子が母親を亡くしたのは小学三年生の時だった。癌だった。詳しくは知らないが、発見された時はすでに重かったようだ。美以子は母親が大好きだった。細身で可憐な人で、明るい笑顔でいつも抱き締めてくれた。美以子が覚えている限り、母親に怒られた記憶はない。一人っ子の自分をとても大切にしてくれた。しかし、強く残っているのは、病気が、わかってからだろうか。部屋の隅で静かに肩を落とした姿だった。声をかけるにも、幼いながらもできないことを感じていた。うつ伏している母親の背中から、泣いていることがわかったからだ。母親のためならば何でもしたいと美以子は思った。しかし、あまりにも早かった。母は美以子が何かをできる前に遠くへ旅立ってしまったのだ。母親の最期を覚えている。いくつもの管に繋がれ、息を大きく吸っていた。痛がるような様子は無かったが、目を開けることはなかった。

美以子は初めて人の死を知った。母の息が止まり動かなくなり、顔が白くなった。初めて見た死はとても静かで死には思えなかった。

だからだろうか。今もまだ母親の死に実感がない。美以子はそんな思いを抱えながら、父親と2人での生活をスタートしたのだった。父親は美以子を何より大切にした。仕事も可能な限り早く切り上げ、親族の手伝いももらわずに一人で育て上げようと必死に毎日を送っていた。体の大きな、熊のような見た目の父親だった。でも笑うと優しくて、いつも「みーちゃん、大好きだよ」と美以子に語りかけてくれた。母親の命日には墓参りをし、帰り道に美以子の好物である寿司を食べるのが二人の約束だった。母親がいなくて寂しかったが、父親の愛を疑うことはなかった。けれど・・・・。美以子は15歳にして大切な両親を完全に失ったのだ。父親は車同士の衝突事故に逢い帰らぬ人となった。


その後、天涯孤独となった彼女を父親の妹である理香子が引き取った。金銭的には父親がしっかりと美以子のために残したものがあるため問題ない。一番の心配は、美以子の心理面である。

(私に何ができるだろうか)

美以子を引き取るときに、理香子は深く苦悩した。これから大人になるという時に、あまりに早く悲しみを背負った彼女に、自分はかける言葉も浮かばない。

(せめて、明るくいよう。変わらずに、今までの私たちでいることだ。みーちゃんがいつか自分自身と向き合うときに、帰る場所があるように。)

理香子は大好きな兄と義姉にそう誓いを立てると、横浜に住んでいた美以子を養女として引き取ったのだった。




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