第2話 新しい家族
有橋高校は、名前そのまま有橋駅の近くにある高校で、美以子の住まいは駅とは真逆の方向にある。とは言っても、駅からさほど離れているわけではなく、高校も駅も自転車で通える範囲の場所だ。
「ただいま。」
今日は思わぬ人物の登場に動揺し、あまり学校で眠れなかった美以子は、少し朦朧としながら玄関を開けた。
「みーちゃん、お帰りなさい!!」
居間から、
「ただいま、恵茉ちゃん。さっき帰ってきたの?学童のみんなが歩いてるのを見たから。」
「そうなの、さっきだよ。学童は好きだけど、帰りのグループは嫌い。昇平がからんでくるから、うざいんだよ。」
恵茉はふてくされた表情をして溜め息をつくと、居間に戻りゲームを再開した。小学校3年生にしては、ませている少女である。
「あ、みーちゃん、今日ねママもパパも残業だから、ご飯は冷蔵庫にスパゲッティが用意してあるって。出来立てじゃないと、麺がふやけてるから嫌なんだよね。まあ、ママのミートソースは好きだけど。」
「そっか理香子さん、作ってくれたんだ。ご飯の時間は6時半くらいにしようか。一緒にスープも出すからね。」
「みーちゃん、ありがとう!やった!」
恵茉はゲームをしたまま、喜びの声を上げた。
美以子は自分の部屋に行くと、ベッドの上に体を放り投げた。鉛のように重く感じるのは、体なのか心なのかわからない。白い天井は、見上げているとぼやけてしまった。理由の無い涙のせいである。体を横にし、美以子は枕を抱きしめた。
ふいに、裏庭で出会った明るい瞳の彼の顔が浮かんだ。なぜ、泣いているのと彼は問いかけた。
(何も知らないくせに。)
美以子の胸が、チクンと痛んだ。
(あの人は誰だろう。同じ学年なのかな。見たことがないし・・・。また明日、裏庭で会ったらどうしよう。唯一、私の一人になれる場所なのにな。あ、八千代に聞いてみようかな。でも誰かわかったところでどうするんだろ。)
進まない考えに嫌気がさし、携帯のアラームを18時にセットすると、美以子はおそらく今日の最後の一眠りに入った。
(眠り姫。あの絵本は読んだことがないな。あの人、私をからかいに来ただけなのかな・・・。)
「パパ、ママお帰りー!」
恵茉はご飯を食べ終え、パジャマ姿で両親を出迎えた。
「ただいま、恵茉。遅くなってごめんね。ご飯食べれた?」
「うん、みーちゃんがスープも作ってくれたよ!」
「さすがみーちゃんね!ママがみーちゃんくらいの頃は、そんなことできなかったわ。」
恵茉の母親、理香子はパンプスを脱ぎながら、夫の
「みーちゃんは義兄さんの娘だから、器用なんだよ。義兄さんも料理なんてササッとこなしてたからなぁ。真似できないよ。」
「確かに、みーちゃんは兄さん似だわ。恵茉、みーちゃんは2階?」
「うん、疲れたから先に休むって言ってたよ。」
理香子は腕時計を見た。現在、21時である。理香子は市内の小学校で教師をしており、多忙を極めている。明るい性格で、小柄な体からは想像できないほどのパワフルさがあり、40歳になっても子どもたちと全力で鬼ごっこをするような、人気者の先生である。夫の郁人は特別支援学校で同じく教師を勤めている。理香子と郁人は、仕事で遅くなる日は理香子の学校まで郁人が車で迎えに行き、一緒に帰ってきているのだ。
理香子は恵茉を寝かしつけると、眠そうな顔をしながら、リビングで郁人と夜ご飯にありついた。
「みーちゃん、大丈夫かな。」
「ん?」
「朝ね、顔色が悪いのは気づいてたの。でも最近、夜にリビングでみーちゃんがお茶飲んでるのを見たのよ。もしかしたら、眠れてないのかなって。」
「本人に聞いたの?」
おっとりした口調で郁人が返すと、理香子は溜め息をついた。
「聞けないわよ。健気に朝には、元気にしてさ、私たちに心配かけないようにしてるのがわかるもの。せめて・・・お友達に一人でも、話せる人がいれば良いのだけど。」
郁人もうつむきがちに呟いた。
「でもこのままじゃ、みーちゃんの体が心配だ。いつかは、きちんと話をしなくちゃいけないよ。」
理香子は再び溜め息をつくと、リビングに置いてある懐かしい写真立てを覗いた。そこには、理香子たち家族と、理香子の兄である瑛太家族の笑顔が写っていた。
「美以子、今日はまた一段と顔色悪いんじゃないの?」
八千代が心配そうに顔を覗きこむと、美以子は弱々しく愛想笑いをした。
「裏庭のあいつのせいでしょ。二組の
美以子は首を振ると、溜め息をついた。
「いや、それはないでしょ。美人な八千代にならわかるけど。あーあ、裏庭は私の大切な場所だったのになぁ。でもこの前、私の態度も悪かったし、さすがに今日はいないと思うんだ。」
「じゃあ、今日もお昼は裏庭行くの?」
「うん、行ってみるよ。多西くんがいたら、すぐ逃げる。」
「ラインくれたら、電話するよ。そうしたら自然に逃げられるでしょ」
八千代はそう言うと、美以子にイチゴ味のブリックパックをプレゼントした。美以子がまた裏庭に行くと聞き、八千代は嬉しかった。一人眠り続け、八千代にさえ美以子は眠る理由を話さない。他の人を避けているように見えた彼女が、また裏庭に行くという。
(美以子からラインが来ても、電話は少し時間を空けてからしよう。)
美以子と離れてから、八千代はニヤリと笑っていた。
美以子が裏庭に着くと、そこは変わらず誰もいない静かな世界だった。美以子はいつものベンチに座り、木々の合間から見える青空を見上げた。
(いつもと同じだ。大丈夫。誰も来ないよ。)
まるで裏庭に話しかけるような自分の心の声に可笑しいなと思いながら、美以子は持参した弁当箱を開いた。
「わ、旨そうな弁当だ!いいなぁ。」
突然、後ろから男子の声がした。懸念していた、多西新太だった。美以子は振り向くこともできず、固まっていた。逃げ出したいがタイミングが悪すぎる。
(お弁当開いた瞬間じゃない。ここで逃げたら逆に気になるでしょ。いや別に嫌われていいけど、面倒なことになるのは嫌だし。)
振り向かないまま、美以子は密かに携帯に手を伸ばした。もう少ししたら八千代に連絡する、その作戦の準備段階に入ったのだ。
「吉池さんのお母さんが作ったの!?卵焼きとか、美味しそう。俺は毎日、購買のパンよ。ジャガマルってわかる?じゃがいも丸ごと入ってるパン。これ。」
多西は美以子の隣にさっと座ると、掌サイズの丸いパンを見せた。
「最高に美味しいんだよ。一度、家に持って帰ってさ、レンチンしたのよ。そうしたら、もうたまらなく旨い!学校にもレンジがあれば、俺、幸せなんだけどなぁ。」
(何の話?)
美以子は怪訝な顔をしないように、口元に
「すごく苦笑いしてない?吉池さん、顔に出てるよ!」
多西は声をあげて笑いだした。
「だって、ジャガマル知らないし、あと多西くんのことも知らないから!」
「名前は知ってくれてたんだ。井田から聞いた?」
「あ・・・」
「吉池さんは有名だからね。有橋高校の眠り姫。男子はみんな話してるよ。吉池さん、可愛いからファンもいるんだ、知ってた?」
多西は爽やかな笑顔を美以子に向けて、ジャガマルを頬張った。
「し、知らないし、そんなアダ名で呼ばれるのは好きじゃない。」
美以子は、卵焼きを頬張った。早く八千代に連絡するために弁当を食べきることに決めたのだ。
「うん、アダ名はよくないな。ごめんね。嫌な気分にさせたかな?」
多西は美以子が思ってもみない反応をした。それも真剣な表情だ。
「別に、自分のいないところで言われるのが嫌なだけだから。謝らなくていいよ。多西くんが悪いわけじゃないし。私も寝過ぎなのはわかってるから。」
「ねえ、卵焼きはお母さんが作ったの?」
薄茶色の瞳が、美以子の顔に少し近づいた。多西は幼い顔立ちで、先ほど美以子に可愛いと言ったが、その言葉は多西の方が当てはまっていると美以子は思った。
「私だよ。」
思わず、美以子は答えた。
「え、吉池さんが作ったの?すごい!」
「別にすごくない。お母さんは小学生の時に死んだから、料理するのが当たり前だっただけ。」
一瞬、裏庭が更なる静寂に包まれた。美以子はどこか気まずさを感じ、うかつに言ってしまったことを後悔した。嘘をつく必要もないし、これ以上聞かれても困るから話すのだが、聞いた人はいつも黙ってしまうのだ。
「同じだ。」
「え?」
「俺は、
「どうして?」
「蒸発なのかな。
美以子は、死んだのとは同じではないと思ったが、だからといって悲しみが違うようには思えなかった。
「そうなんだ。家族、大変なんだね。」
「吉池さんもだろ?俺の周りの友だちは、親が揃ってたり、離婚しても会えてる奴が多いから、あんまり言えないけどね。」
「それは・・・わかる気がする。」
「吉池さん、時々俺もここに来ていい?」
美以子は、自分が携帯を離していることに気づいた。
「うん、いいよ。この裏庭は誰の場所でもないし。」
「良かったー!吉池さんに嫌な気持ちさせちゃったかなって、昨日の夜は眠れなくてさ。あー、安心した!」
多西は立ち上がると、美以子にパンを手渡した。
「今日、会えたらジャガマルあげるって決めてたんだ。」
「教室に戻るの?まだ」
まだ昼休みはあるのに、と美以子は言いかけて口をつぐんだ。
「お弁当食べたら、少し眠りなよ。吉池さん、昨日も思ったけど顔色が良くない。また明日、ここで会おうね。」
多西は美以子の頭を撫でると、校舎に戻っていった。
(あ、ジャガマルのお礼言ってない。)
美以子は多西の背中を見送りながら、撫でられた頭に触れた。いつもの薄暗い裏庭に、珍しく強い日差しが射し込んでいた。
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