第10話 女

「なあ、こんな手紙が職場に来たんだけど、これは何?どういうこと?」


 夫、智樹の帰宅後、「ただいま」の言葉より先に出たその声音で、自分に対して『よくないこと』が起きたことを瞬時に察した由紀子は、あれかそれかこれかと頭を巡らせつつ、その手紙を開いた。



 『あなたの奥さん、不倫していますよ』



「なにこれ?どういうこと?不倫なんて、失礼しちゃうんだけど。智樹、まさかこんな誰が書いたかどうかわからないようなもの、信じるわけじゃないでしょう?」


「そうだよな……差出人も書いてないし、なんだろう?なんかの嫌がらせかな?」


「そうなんじゃない?っていうか、こんなふうに会社に送られてくるって、智樹の会社の人だったりして?っていうか!誰か智樹を狙ってたんじゃない?結婚しちゃって、悔しいとか……そういうことなんじゃない?こんな手紙を送ってきて、ケンカすればいいやとか、そんなこと思ってるのかも。だいたいさ、今時手紙なんて、足がつかないようにしているみたいで、いかにもな感じじゃない?まさか変な女に手を出してたんじゃないでしょうね?」


「はあ?変な女に手を出すなんて、そんなことあるわけないだろ!ふざけんなよ!なんだこれ、どういうことだ、なんかムカつくなぁ!」


「ほら、こういうのが目的なのかもしれないよ。こうして私たちが揉めればいいとか、そんなこと考えて嫌がらせされてるのかも」


 イラついた智樹は、その勢いのまま手紙を破り捨てた。


「もうやめよ。今日はね、智樹の好きなチキンを焼いたんだよ。香草焼きだよ。手を洗って着替えてきて」


 上着を受け取った由紀子は、寝室に向かいクローゼットから出してあったスエットを持ち洗面所に向かった。


 手と顔を洗い、少し表情が和らいだ智樹を見て、その顔に微笑みを向けながら、甘えるように抱き着くと、こんな手紙を送りつけてくるのは、あいつか?それとも、こいつか?と、頭を巡らせていた。


 翌日、智樹が出社すると、すぐにパソコンをつけると、隠してあるファイルにアクセスして、スマホから消した連絡先を3つスマホに登録した。


 『こんにちは。お久しぶりです。元気にしていますか?少し話をしたいのですが、今、いいですか?』


 由紀子は結婚前に付き合っていた、鈴木貴之、井村和也 佐々山貢それぞれにラインを送った。あとくされなく別れられたと思っていたのに、いったい誰がこんなもの送りつけてきたのだろう。


 由紀子は、智樹と付き合いながらも、割り切った付き合いだったはずの3人を思い浮かべ、何か失敗をしなかったかとそれぞそれぞれと関係があった時のことを思い浮かべた。


 佐々山貢。貢は職場のひと回り以上年上の既婚者で、由紀子に恋人がいたことも知っており、立て続けにできた3人の子どもの世話で忙しい妻との間に肉体の繋がりを持つ時間が減り、貢にとってはその隙間を埋めるだけというだけで、由紀子にとっては、美味しいもの食べさせてくれて欲しいものを手に入れることが出来る、言ってみればもう一つの財布くらいのギブアンドテイクな関係とお互い割り切っていたはずだ。


「結婚が決まったから、そろそろ会うのも控えようと思うんだけど」


 ベットの中のそんな由紀子の言葉に、「そうか、よかったな。じゃあ他の相手でも探すかな」そう言って笑っていた貢とは、これこそあとくされのない別れ方だというような別れができたはずだ。


「貢じゃないだろうな。愛妻家の貢にとっては、逆に騒ぎが起きたら困るはずだ」


 その考えに間違いはないだろう。その証拠に、すぐに返事が返ってきた。


 『久しぶりだな。なんだ?オレが恋しくなったか?(笑)』


 『真面目な話なんですけど、密告のような手紙が夫の職場に届いたんです。まさかと思ったけど、一応、貢さんじゃない確認をしたかったんです』


 『おいおい、勘弁してくれよ。妻にはバレてないんだし、揉め事はごめんだぞ。オレとのことは絶対に他言しないでくれよ』


 『わかってます。私だってバレたら困るんだし、貢さんじゃない確認が取れたら、それでよかったんです。貢さんも他言しないでくださいね。じゃあ、お元気で』


 やはり貢ではないだろう。貢は家庭を大切にしていた。ことある毎にそれを口にしていたし、由紀子との関係も、欲のはけ口だと言葉にしていたくらいだったのだ。こういう男なら大丈夫だろうと付き合ったのだから。


 井村和也。和也は初恋の相手だった。中学生の頃に出会った和也は、どんなに好みの女性になろうと頑張っても、由紀子の想いを受け止めてはくれなかった。今考えても、子供の、愛とも言えないほどの、そんな幼さの残る感情だった。


 和也と成人式で再会したとき、和也は荒れていた。受験に失敗し、一浪して入った滑り止めの大学生活でも、思うような学生生活が送れずにいて、馴染の中学時代の同級生とつるんでばかりいた。


 再会した時の由紀子は、その頃の通じない想いがまだ胸の中にくすぶり続けており、その気持ちに気付いた和也は、遊び相手に由紀子を誘うようになっていった。


 そこに由紀子への愛という名の想いは感じられず、「ああ、遊ばれてるのかな」そう思いながらも、昔の感情のくすぶりを振り切るために、和也の相手をしたし、そこに恋人という言葉の関係を見出すこともできなかった。都合のいい女になっているとわかってはいたが、それでも、自分を今必要としている初恋の相手を振り切ることが由紀子にはできなかったのだ。


 そんな和也も就職をし、そこで出会った人に恋をしたことも隠さず話してくれ、「じゃあ今夜で会うのは最後ね」そう言う由紀子を、「最後だから」と、今まで以上に、これでもかというほどに燃え上がった和也は、「由紀子のおかげでちゃんとした自分に戻れた。ありがとう」という言葉と共に、去っていった。つくづくバカだなと思いはしたが、ちゃんと自分の気持ちとも別れることが出来たと思って、安堵していたことも確かだ。


 和也ではない。和也は、中学生のころから知っている。そして由紀子に感謝して去ったのだから、こんな脅しのような手紙など送ろうはずがない。


 『どうかしましたか?お互い、もう連絡しないはずでしたが……』


 同僚の鈴木貴之からだった。そうだ、貴之ともお互い2度と連絡しないと約束して別れたのだが、実はこの貴之との交際では、智樹の存在も知っていた貴之にとっても、互いに遊びのはずだった。が、貴之が本気になりかけ、厄介だなと思い貴之の心の隙を狙い、由紀子は友人の綾子に頼み込んで、好意のある振りをしてもらい、貴之が綾子を誘うように持って行き、貴之の方から由紀子を振る形に持って行けた。


 貴之は、この時の由紀子の友人、綾子とも当然、別れることになった。そもそも綾子は由紀子に頼まれただけで、綾子にも本命の彼氏がいたのだ。その後、どういう流れか聞いてはいないが、貴之は綾子の友達とくっついたはずだ。由紀子を振った形になっている貴之が、こんなことをするだろうか?


 だが、事の経緯をどこかで耳にしたとしたら……感情を弄ばれたと貴之が思ったとしたら……


 どう返事を書こうか思いあぐねていると、再び貴之からだ。


 『あの、どういう話でしょうか?実は、自分も結婚が決まっているので、もうお遊びはしませんので、そういうことならお断りさせてもらいたいのですが』


「はっ?なにそれ。まるで私が誘ってるみたいな言い方、失礼しちゃうわ。誰があんたなんかと……そもそもあんたが私に本気になってたんでしょうが!」


 『いいえ、そういう誘いではありません。ごめんなさい。正直に書きますけど、嫌がらせみたいなことをされてて、一応、親しくしていた何人かに連絡を取っているんです。貴之さん、ご結婚されるんですね。おめでとうございます。本当に失礼なラインを送ってごめんなさいね。もう連絡はしませんので、安心してください』


 貴之でもないとしたら、いったい誰がこんな嫌がらせみたいなこと……



「……ただいま」


 あきらかに仏頂面だとわかる顔をして帰宅した智樹がカバンから取り出したのは、また智樹宛ての一通の手紙だった。


「なんなんだこれは!!ふざけやがって!」


「なによ?どうしたのよ?そんなに怒って……」


 智樹から胸に押し当てられたその手紙を開けてみると、そこには『あなたの奥さん、不倫していますよ』の文字のあとに『奥さんの右乳首の横にある黒子、可愛いですよね。そこ、奥さんの性感帯ですもんね』という一文があった。


 由紀子は、頭にカーっと血が上るのを感じ「なに……こ……」最後の言葉が出るより先に智樹の手の平を頬に感じた。


 誰よ……これ、いったい誰なのよ……


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