月はずっと綺麗だったよ。

優衣羽

月はずっと綺麗だったよ。


 I Love Youの訳し方をどうするべきか。そんなもの「月が綺麗ですね。」と訳してしまいなさい。夏目漱石の逸話が好きだった。彼が教鞭を奮っていた時代、英語の授業で口にしたとされる言葉だ。真実かどうかは分からない。けれど、「月が綺麗ですね。」という言葉は現代まで生き続けている。


 密かな告白の言葉として。


 さて、彼の逸話から生まれたこの言葉は時間が経つにつれ、多くの返答を生んだ。「死んでもいいわ」なんて正にその典型例だ。月が綺麗だと言われて、死んでもいいだなんて重たい返事だが、好きですと言われて嬉しさをそれ以外の言葉で表現出来なかったと考えれば、気持ちは分からなくもない。



 ずっと、好きと言えない人がいる。


 高校二年生の冬、星を見に行きたいと言ったのはどっちだったかと言われれば難しいけれど、約束は間違いなく疎遠になりつつあった私たちを結び付けた。真っ白なマフラーに顔を埋める。横を見れば君の耳が外気に触れ赤くなっているのに気付いた。風が吹く度制服のスカートに冷たい空気が入り込んできて思わず肩を震わせた。


 世間は私たちの事を幼馴染と口にする。たまたま家が近所で、たまたま同じ年に生まれて、たまたま気が合った。そんな偶然に偶然を重ねた状況を、私たちは特別だとは思っていなかった。


私より背の低かった君は泣き虫で、いつも私の事をちゃん付けで呼んでいた。転べば助けてと口にし、からかわれたら服の袖を引っ張って来た。弟のような存在だったのだ。頼りなくてひ弱で、それでも心の優しい男の子。


それが君だった。


関係性が変わってしまったのはいつだろうか。口から零れ出す白い息が夜に消えて溶けていく。踏切の音が鳴り響いて遮断機が下りた。無言で立ち止まり電車が通過するのを待つ。君は鼻を啜った。


君が弟のような存在に見えなくなってしまったのは中学二年生の秋だった。隣のクラスの可愛らしい女の子と笑い合っていたのを、教室前で見かけた時だ。君は私に気付き軽く手を振ったが、私は何故か、その手を振り返す事が出来なかった。足は二人から離れるように後退り、背を向けて来た道を戻った。心の中に靄がかかった気がした。渦巻いて息が苦しくなった。


そして、二人が付き合った事を知ったのはその数週間後になる。放課後、掃除当番の仕事をこなしながら箒を握り外を眺めていた時だった。校舎から、二人が仲睦まじそうに出てきたのは。嬉しそうに笑う君と彼女、そしてどちらからともなく手を繋いで門から出ていった。


私は、その光景をただ眺めていた。心に小さな傷が出来た気がした。理由なんて分からないまま締め付けられた心臓に違和感を抱く。帰り道、ふと足を止めた。


夕暮れがやけに目に染みた。眩しくて見てられなくなり目を細める。空には宵の明星が見えて、夜がやって来る事を教えてくれた。何故だか涙が出てきそうになって唇を噛み締める。先程の光景が脳内で何度も繰り返し流れ続けた。


「ああ、そっか」


幼い頃からずっと一緒にいたはずの君に対し、そんな感情を抱くわけがないと勝手に心の中で線引きしていたのだ。けれど蓋を開けてみれば簡単で、今更ながらに自分の感情に気付いてしまう。アスファルトに染みが一つ出来た。良く晴れた日だと言うのに、まるで雨が降ったみたいだった。


「好きだったの、私」


君の名前は声にならず歯の隙間から二酸化炭素になって零れ出し地球を汚していく。


その日から、君との関係性は変わってしまった。



結局の所、二人の恋はそう長く続かなかった。季節を二度跨いだ頃だろうか。人づてに別れたと聞いた。どうやら君が振られたのだとか。人づてだったのは、もう君と話す事をしなくなったからだ。彼女と付き合ってから君を避けるようになって逃げ続けた。顔を合わせたくなかった。幸せを、素直に喜んであげられない自分が嫌だった。


まるで他人の様になった私たちは、そのまま進学した。家からそう遠くない高校に入り、これでやっと君から離れられるだろうかと考えていた私の目に飛び込んできたのは、隣のクラスで男子生徒と会話している君だった。進学先など知らなかった私は固まってしまったが、君は事前に知っていたのだろう。私を見て昔のように小さく手を振った。


二年生になって同じクラスになっても、一度開いた溝が簡単に埋まる事はなかった。それまでどんな話をしていたのか、どんな風に名前を呼んでいたのか、全部分からなくなってしまったのだ。


開いていく距離にまだ残り続ける恋心は、私を難解にさせていく。そうして一人相撲をしている間に冬が近づいてきた。寒さに震えながら一人帰る道すがら、空に綺麗な星が輝いている事に気付く。そういえばもうすぐ流星群の季節だ。子供の頃は二人で近所の高台まで見に行ったが、星が流れる瞬間を見る事は叶わなかった。その代わり、月がとても綺麗だったのを憶えている。


「星、見たいなあ」


何てことのない独り言だった。それから流れ星を見る事はまだ一度も叶っていない。だからこそ、人生で一度くらいは見たいと思った。それだけの事だった。


しかし、背後から返事が返って来た。


「じゃあ見に行こうよ」


驚いて振り向けば、ポケットに手を入れたままこちらを見て立っている君がいた。開いた距離は数十メートル、まるで離れた心の距離のように思えた。


「星、見に行こう」


「誰と?」


「俺と、二人で」


誰とと聞いたのは、それが間違いでない事を確認したかったからだ。だって、そんな事言うと思わなかった。私の心がいつになく沸き上がり、寒さに震えていたはずの身体から熱が発せられる。鼓動が意味の分からない速さで動き、次の言葉を口にする事すら苦しくなった。


「明日、夜九時に迎えに行くから」


それだけ言って私の横をすり抜けた君の腕を取る事すら出来なかった。足はその場に縛り付けられたように動かない。きっと顔は真っ赤だろう。手で仰ぎ風を待っても、効果はなかった。




そうして今に至る。


踏切を越え、坂道を上っていく。遠くなっていく街の光が、ガードレールの向こう側に輝き続けた。隣に歩いている君の顔は見れないままだ。空は高く空気は澄んでいたが、月は見えなかった。代わりに小さな星々が輝いている。果たして星は流れるだろうか。


もし、星が流れたら。私は何を願うだろう。時間を巻き戻してもらう事でも願おうか。叶うなら、恋心に気付く前の時間に。戻ったら君と向き合う事が出来るかもしれないから。今みたいに逃げ続ける結末は迎えないだろう。燻る恋心にも、何かしらの終着だって見えたはずだ。


過去になんて戻れるわけもないのに。


何も考えず空だけを見つめ続けて歩いていたらいつの間にか高台についていた。ベンチが一つだけ置かれていて、頭上には星々が輝いていた。君はそこに座り隣を叩く。座れという事だろう。私は少しだけ距離を開け隣に腰を下ろした。


どのくらい経っただろうか。もしかしたら数分の出来事かもしれない。けれど静寂は重たいものに感じた。不意に君が空を眺めながら口を開く。私は横目でその顔を盗み見ていた。いつの間にか男の人のものになっていた端正な顔立ちに、あの頃の泣き虫な君はどこにもいない。


「子供の頃にさ、同じように流星群を見に行ったじゃん」


思い出話をした口から白い息が零れる。


「あの時結局見れなくて、凄い悲しかったんだよ」


「子供だったからね」


「それ以上に、俺じゃなくてそっちが泣いた事がショックだった」


そうだっただろうか。全然記憶にない。君が泣くならまだしも、私が泣いたのか。それほど見たかったのだろうか。


「流星群が見たかったのにーって。でも願い事は考えてなかったみたいだったけど」


「全然覚えてない」


「まじか。俺はとにかく焦ったよ」


苦笑しながら視線を地面に落とした君の表情は柔らかかった。


「泣いた所なんて見た事無かったから。何とかして泣き止ませないとって思った」


「どうやって泣き止んだっけ」


「また見に行こうって言っても駄目で。だから俺が絶対に降らせるよって言ったの」


「うそぉ…」


「本気で覚えてないんだな」


どうしよう、全然覚えてない。見れなくて残念だと思った事しか覚えてない。


「それまでに願い事決めといてって言った」


決まった?と君はこちらを見る。叶うなら過去に戻りたいと先程まで思っていた所だ。けれど、それは叶いそうもない。


なら、これから。少しでいい。ずっと燻り続けた恋心を昇華させるための勇気が欲しいと思った。


「…決まったかな」


「なら良かった」


そこからは二人で空を眺め続けた。時折首が痛くなって地面を見て、もう一度空を眺めるの繰り返しだった。あまりにも暇だったから他愛もない話をした。まるで昔のように話す事が出来て、私の心は少しだけ穏やかになった。


「そういえば」


「何?」


「そっちは?何か叶えたい事ないの?」


「ああー…まあ」


何だか歯切れの悪い言い回しだ。首を掻きながら目を背ける君を見て、それ以上の言及は止めた。まあ、私には関係のない事だろう。


何時間待っただろうか。眠気に襲われながら擦った瞼の先、一瞬の光が空に線を描いた。


「え…」


「あれって」


驚いて二人同時に立ちあがる。そしてもう一度、空に星が降った。


顔を合わせればお互いに開いた口が塞がらない状態で、興奮冷めやらぬ状態でもう一度空を見て指差す。


「流れ星!!!」


今日一番の大声を出した私は、空を染める一瞬の光に見惚れてしまった。次々と落ちていく星は真っ黒な夜というキャンバスに一筋の線を描いては消えていく。自然と口角が上がって、君にこう言ったのだ。


「星が綺麗だね」


言い切った後に思い出す。星が綺麗ですねという言葉は、貴方はこの想いを知らないでしょうという意味を持つと聞いた覚えがあった。何も考えずに口から出た言葉だが、何だか的を得ている気がして苦笑してしまった。


「子供の頃にさ」


突然話し始めた君を横目に空を見上げていた。多分、思い出話だろう。


「泣いたらすぐに駆け付けてくれるの安心したんだ」


けれど、上がった口角が下がっていくのが分かった。高台の柵を握り締める。金属は冷たく、指から熱を奪っていく。


「きっとこの先もずっとそうだと思ってた。俺が幸せになったら、同じように喜んでくれると思った」


中学の時を思い出した。幸せそうに微笑んでいる君を見て、目を背けたのは私の方だった。


「でもそうじゃないって知って、凄い寂しかったと同時に違うと思った」


「違う…?」


「一緒にいる相手が違うって思った」


意味が分からなくて、その顔すら見れなかった。


「話さなくなってその理由がよく分かったよ」


だから、と君は言葉を続けた。


「流れ星が叶えてくれると思ったんだ」


「何を…」


「あのさ、」


君の口が、小さく開かれた。


「月が綺麗だね」


見上げた空には月なんて見えない。


「月なんてどこに…」


言いかけた唇が、何かによって遮られた。それが君の唇だと気づくのに、時間はかからなかった。


「…月が綺麗だね」


もう一度、耳に届いた言葉に目の前の君は頬を赤く染めていた。この寒さだと言うのに真っ赤である。


ああ、流れ星のおかげだろうか。それとも、時間のおかげだろうか。両手を重ね合わせ目を閉じ祈る前に、私の願いは叶ってしまった。込み上げてくる涙は、嬉しさの証拠だ。どうしようもないくらい愛しくて堪らなくて、私は笑った。


「月はずっと綺麗だったよ」


それを聞いた君は私の腕を掴んで抱きしめた。すっぽりと包み込まれてしまった身体は君の熱で温かくなっていく。肩越しに夜空が見えて、流れる星の中薄く小さな月を見つけた。気付かないだけでそこにあったのだ。ずっとずっと、恋心は存在し続けていた。


よく分からないけど笑いが込み上げてきて、思わず噴けば君も同じように噴き出した。星空に私たちの笑い声が溶けていく。ひとしきり笑った後、もう一度顔を見合わせた。


「死んでもいいな」


君の言葉に、また笑みが零れて涙が流れそうになった。




それ以来、月はずっと綺麗なままだ。


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月はずっと綺麗だったよ。 優衣羽 @yuiha701

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