瞬間の覚醒

 秘密の処理も一仕事も終えれば、アミナは、ムサシよりも一足先に湯煙の中でゆっくりと足を伸ばすのだ。

(…………)

 ただ、心地よさに乙女が上気し、見上げた空は、野外ならではの満天の星空すらない。


 きっと、これが、世界がこんなになる前の、恋人同士の単なる観光旅行だったなら、東京に生まれ育った二人が見た事ないような、大自然が待ち、味わった事もない海の幸や山の幸に舌鼓も打った、素敵な思い出の日々となったかもしれない。今、天に広がるのは、妖しい色が蠢く謎の覆いであり、食事と言えば、毎回、顔面を蒼白にして帰宅するムサシが、廃墟の街並から辛うじて獲得してくる品々ばかりだ。


「……お台所、使えたらな~」

 許嫁まで決められ、花嫁修業も早かったアミナは、ボソッとひとりごちる。元々料理好きでもあり、学生生活では、大食漢のムサシの弁当のために、おかずをもう一品、自分が準備してやる事など、朝飯前の話であったアミナだが、本領はそんなものではない。

「……お腹、いっぱいにさせてあげたいな」

 細かい変化にさとい女子の観察眼は、着実にムサシの体つきが細くなりはじめている事に気づきはじめていた。それは、奔放を気取りながらも、内心は繊細である本人の心労もあろう。寧ろ、この状態に、どこか余裕があるのはアミナの方ですらある。

(……せめて、ネ……)

 そんなふうに思いながら、ムサシのお気に入りである、自らの豊かな胸などを抱えるふうな仕草をすれば、それは、緩やかに湯の中に波打つ。今宵も、もう少ししたら、小躍りでもするようにして恋人は現れる事であろう。当初こそ、アミナも警戒していて、声もこらえていたものだが、最早、怪物の気配は感じないと解れば、息も荒くして突き上げてくるムサシのピストンに、答える声も、時に、絶叫にすら近かった。


(……こ、こんな旅行、お父さんもお母さんも絶対、許してくれない……っ)

 すっかり毎夜、毎夜とムサシに抱かれている日々とは言え、アミナもまだまだ花も恥じらう乙女なのである。思わず、毎日を反芻すれば、更に赤面してしまうその表情は、湯加減のせいでは決してなかった。


(…………)

 そして家族の事がよぎれば、無論、その安否が気になる。家族だけではない。学校のクラスメートたちも、無事、大阪には避難できたのであろうか。ただ、今は信じるしかない。アミナは振り切るようにして、榛色の瞳を強く瞑り、かぶりをふった。と、その時の事だった。


 ガサリ…………と、した音が聞こえれば、愛しき者の後からの来訪かと、その瞳は、はにかんで、その方向を見つめたのだ。ただ、そこに有り得ない姿を目の当たりにすれば、表情は一気に驚愕に変わった。


「おい、こんなところにまだ、異世界人がいたとはな」

「んだ。たまには遠出、してみるもんだ」

 こんこんと立ち上る湯煙の向こうから現れたのは、肥えに肥え太った体は、纏った毛皮から腹が突き出てしまう事も隠せず、手には棍棒をもつ、顔は豚、そのものである、二匹の正体不明生物だったのだ!


(…………!)

 危機を感じて、バシャリと立ち上がったアミナであったが、不幸にもそれは、性欲ばかりが旺盛な魔物を前にしては、火に油を注ぐようなもので、タオル一枚では隠しきれない抜群のプロポーションが露となってしまい、途端に豚顔どもは、表情を変えれば、よだれすらたらし、

「おい……こいつぁ、なかなか……」

「ああ、だまんねぇ……」

(…………!)

 そして、迫りこようとしている正体不明生物たちが、自らに何を企んでいるかを悟った少女は、背筋も凍りつく、ゾッとした感覚と共に、脱衣した場所に駆け寄ると、湯から出、忍ばせていた銃剣を手に取れば、鞘から抜き、切っ先を敵陣に向けると、気丈にもキッと強く睨み付けたのだ!


 すごんだ少女の姿に、思わず、キョトンともした豚男たちであったが、途端に、腹を抱えて笑いだせば、

「おいおい、ねーちゃん、おっかなすぎて、おじさんたち、涙、でてくるぜ~」

「んだんだ。ぶるぶる、震えちまって、あれま~!」

(…………!)

 その正体不明生物たちが、かつて、異世界で、自らがバッサバッサと斬り捨てる事も造作なかった、オークという魔物たちである記憶も失った少女は、気丈な表情とは裏腹に、体全てはすっかり恐怖にかられていて、まるで、極寒の空気の中での全裸であるかのように、短剣の切っ先まで震えていた。

(ムー君……!)

 そして、愛しき者に届けとばかりに、強く目を瞑り、想ったが、今宵に限って、やけに、その到来は遅い。もしかしたら、自らが与えたiPodのせいで、久々の音楽鑑賞のひと時に、未だ夢中になっているのかもしれない。


「ふへへ……ねーちゃん、そんなべっぴんさんが、真っ裸で、オークの前にいたのが、運のつきってなもんだ……」

「んだんだ。そのでっけーもん、もう、死ぬまで、ぶるんぶるん震わすしかね。ぐへへ!」

 容易いとすら思ったか、オークの二匹は、得物である棍棒すら投げ捨て、捕まえる事がさも楽し気であるというふうに、距離を詰め、とうとう、あわや、としたその刹那!


『……聖なる……力を……!!』

 何時ぞやの謎の声が、まるで、テレパシーのように、少女の体を駆け巡ると、途端に、アミナの体から震えは消え、際に、すっと背筋も伸ばして、手にした剣を構え直せば、空いた左手はバランスをとるように宙に舞ったせいで、辛うじて体を隠していたタオルすらも、完全にその場に落ち、更に、険しく、また凛々しい表情にすらなって、睨みつけているというのに、豚どもは、「おおっ!」、「ぶへへ!」と、相手の変化に全く気づかぬまま、眼前のオールヌードを喜んだが、次の瞬間、短剣は、怒涛のような斬撃を、次々にオークに与えていて、

「ぐ……は……」

 慌てて、棍棒の元へ駆け寄ろうとした最後の一匹の後ろ姿に留めをささんとした、その刀身は、かつて異世界で、聖騎士としてあり続けたその少女が、力をこめんとした時に生ずる聖なる力に呼応して、閃光を発するほどだった。


「ふぅ……」

 そして、まるで、慣れた風に血糊をはらうと、アミナは、鞘に刀身をおさめたのである。目の前の魔物たちの死体を目の前にし、夢中だったとは言え、我に返っても動揺すらなかった。むしろ、

「騎士の本懐、ってとこねっ」

 などと、無意識ながらも口についた時には、(……騎士?)と、自分へ向けて首をかしげてしまったが、それよりも、

「……たいっへんっ」

 と、慌ててアミナが湯の中へと戻っていった理由は、今夜もムサシに存分に楽しんで欲しいと思っていた自らの肌が、返り血で真っ赤に染まっていた事だったのだ。


 無論、その後、未だiPodも耳にしたままのムサシが、小躍りに二人の湯浴みの場に着く頃、現場の状態に仰天してのけぞったのは言うまでもなく、「え……? な、なにこいつら、殺ったの?」という問いには、「……ん~」と、湯舟の中、少女は生返事をするしかなかった。


 日付は変わり、今日も、今日とて、ムサシは廃墟の中、調達係に徹していた。結局、昨夜は、瞳もパチクリとしたままにムサシも湯に入れば、まるで、尚、問うてくるかもしれない彼の口でも閉ざすかのように、ザパ……と水面に音を立てると、アミナは半身を起こし、ムサシの事をその胸の中で優しく抱きしめてしまったのだ。


 互いの肌に水滴も際立つ世界の中、天然の湯につかりながらの、アミナの豊満な胸の柔らかさは、いつ終わるかも解らない、このサバイバル暮らしの中で、ムサシが唯一、心が休まる場所で、見上げれば、聖母のようですらあるアミナの微笑みすらそこにあれば、まるで全てはどうでも良くなってしまい、後はいつもの情動に突き動かされてしまったりで、眼前に横たわる正体不明生物たちの死骸についての真相は、遂に、うやむやになってしまったのである。


 豚の顔をした怪物たちは、鋭利な刃物で容赦なく斬りつけられ、絶命していて、まるで、手練れのプロの仕業であるようだった。当時、確かにアミナは銃剣を所持していたが、誰もが振り返る絶世の美女ではあるにせよ、彼女は、どこにでもいる単なる女子高生なのである。とてもじゃないが同一人物がやったとは思えない。

(……まさか、な~)

 そして、苦笑しつつ、丁髷をゆらしてかぶりをふると、侵入したスーパーの一角の、荒れ果てた陳列棚から、めぼしいものを一掴みに、スクールバックに入れていっては、アミナの文字で書かれたメモを注意深く見直したりしていて、それは、手探りながらも彼らなりの旅への準備の現れであった。


 なにせ、修学旅行などとはわけが違う、経験した事ない旅である。メモのリストを眺めつつ、ムサシが、店から店へとはしごしようと、通りを渡ろうとした、その瞬間、砂塵舞うひび割れた路面の上に、思わぬ影を見つけては、少年は慌てて、近くの朽ち果てた戦車の影に隠れたのだ。そして、もう一度隙間からそっと眺めると、昨夜も目にした豚面の生き物二匹が、愛用の棍棒すら肩に担いで、周囲を見回していたりするではないか。

「あいつら、ほんとにここに転送したのか?」

「ああ。ここらへんに湯浴みができる場所を見た、とか言ってな」

 どうやら、豚面コンビは人探しのようである。それらはもしかしたら、昨夜、少年が見た二匹であろうか。


「確かに、あんなくっせーゴブリンどもと一緒にいたら、体もかゆくならあな」

「ああ、おれたち、オークは、あんなゴキブリとはちげぇ」

(…………!)

 かつて、異世界で、オークもゴブリンも、一瞬で一刀両断だった記憶など、とっくに失った少年は、今、世間話を続ける彼らの会話が、どんどんこちらに近づいてきている事に、慌てて更に隠れれば、顔面蒼白で、運の悪さを呪う事しかできなくなっていた。


「……いつ、帰れんのかな。やっぱ抱くなら母ちゃんが、一番ええ」

「ああ、おめ、それを思い出させんな。こっちの人間族も具合はいいんだがな。あっちと同じで、おれらオークについてこれるスタミナが、全然足りねぇ」

(…………!)

「人間族といや、あの黒剣とかいうやつ、なにもんだ?」

「さあな。魔王様の弟子ってくれーだから、次の魔王様候補とかなんじゃねーか?」

(…………!)

 声は、どんどん近くなる! どうにかして、逃げ出そうとしたムサシであったが、不覚にも閉まり切っていないバックから缶詰はこぼれ、更に、不覚にもそれに足をとられれば、激しく転び、「いって!」などと叫んでしまえば、途端に警戒したオークたちが「誰だ!」と叫んでくるのは当然の事であった。


(…………!)

 もう、意を決した少年は、64式銃剣を抜刀し、目の前に飛び出す他に道はなかった。途端に現れた長身の姿に、

「むう……その髷!」

「んだと……こっちにも侍、いたんか!」

 と、オークたちも身構えたが、既にその額からは、びっしりとした汗が浮かび、刀ですらない短剣である事を確認すれば、直ぐに素人と悟った魔物たちは、余裕の笑みを浮かべ、

「……んなわけねーよな。お前らは、カラクリがなきゃ、なんにもできねー異世界人だ」

「おいおい……こんなガキ殺しても手柄にもなんねーじゃねーか」


 棍棒を片手に、オークたちはどんどん距離をつめ、ムサシは、後ずさりするしかなかったが、

「お、お前たちは! なにもんなんだ!!」

 などと気丈にも問えば、

「ふん。おめーら、オーク族も知らねえのなぁ。ほんと白けるぜ」

「どのみちおいらたちが欲しいのは女だ。男はいらねぇ。死ね」

 と、とうとう彼らが棍棒を振り上げながら答える頃には、ムサシの背後は、仰向けとなった戦車が迫る有様で退路は断たれていて、こうなれば一矢報いてやろうと、雄叫びすらあげて少年自らが突っ込もうとした刹那、

『……神秘の……力を……!!』

 何時ぞやの謎の声が、まるでテレパシーのように、少年の体を駆け巡ると、次の瞬間、ムサシの視界では、オークたちの動きがまるでスローモーションに見え、そうとなれば避ける事も訳なく、加えて、間合いを取るために、一陣の風と化せば、瞬間でその場を切り抜け移動し、棍棒を振り落としたオークたちが振り向く頃には、短剣ながら、腰を低く落とした抜刀寸前の構えでもって、敵たちを鋭く睨みつけてすらいたのだ。


「げっ……! や、やっぱ、侍……?!」

「まじかよ……!」

 見た事もある剣の構え方に、途端にオークどもは大慌てとなり、今度は、めくらめっぽう、大振りに得物を振り回し、丁髷の少年をつぶそうとしてきたが、最早、涼やかな顔つきにすらなったムサシは、それらを次々に避けていくと、逐一、短剣を右、左と器用に持ち替え、一打、一打と確実な攻撃で返し、とうとう、一匹目が倒れた時には、次の二匹目の息も絶え絶えな顔の顔面に、その切っ先でもって迫り、

「……峰打ちだ。侍の情けだ。……去れ!」

 なぞと言ってのけ、よれよれとした豚面が気を失った同僚をかつぎ、尻尾を巻いて逃げていく姿を、まるで冷静に眺めていたものだが、やがて、静かに短剣をおさめ、所持していた荷物を持ち直すと、無意識ながらも口についた自分の言葉に、(……侍?)と、首をかしげてしまったものだが、改めて、昨夜の光景も思い浮かべれば、何か閃いた丁髷の少年は、とるものもとりあえず、家路を急ぐ事としたのだ。


 思ったより早い帰宅に、何事かと、出迎える少女も驚いたものだが、ムサシが、たった今、自らに起きた事を打ち明ければ、あまりの相似に驚き、アミナもつられて告白してしまうのも、当然の事であった。





























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