日常

 腫物にさわるようにし続ける両親と、完全に軽蔑している妹などと共に、僕は、久しぶりに自分の椅子に着席する。慌てて用意された朝食を、ゆっくりと口に含んでいくと、何かが変わるような気がした。そうだ。僕は世界を救った英雄たちの中でも、そのリーダーだった男なんだ。一体、あれがなんだったのか、夢か幻かは解らないけど、僕にとってはあれこそがリアルだ。


 ただ、朝日眩しい行き交う朝の街並みの光景は、それこそが、まるで異世界みたいで、駅へと近づく度に、革靴は重く感じ、握りしめていた学生カバンの手の握力は、次第にむやみやたらに強くなっていく一方だった。とうとう、駅の構内に立てば、様々な人々を、それぞれの会社や学校へ送り出すベルトコンベアーの様な行列ばかりが、そこ、ここ、かしこに出来上がっている。

(…………)

 ここにきて、僕は、急速に息苦しくなり、逃げ出したくなっていた。が、その時、つい、昨夜まで、僕のすぐそばにあった、僕にとってははじめての女性の香りが舞い散ったものだから、思わず、すぐ隣を振り向かずにはいられなかったんだ。


 そこには、あの彼女の横顔が、制服姿で、丁度、隣に居合わせていて、電車を待っているところだったんだ。スマホの画面に目をやったりしている、ハーフアップのロングヘアーの僕の彼女にとって、僕の姿は全く眼中になかったけれど、思わず、その名を呼べば、榛色の瞳は思わず、こちらを振り向いた。嗚呼、間違いない。僕のすぐそばで閃光のように細剣を繰り出し、僕の剣と共に、村人を苦しめるドラゴンにだってトドメをさした、聖騎士だった、あの彼女だ。ただ、僕が瞳、うるませ、もう一度、その名を呼べば、怪訝な顔と共に彼女が放った一言は、

「え?……あ、あなた、だれ? ですか?」

 という、明らかに気味の悪そうな視線だった。

「…………!!」

 つい、昨日まで、僕の腕の中にすらあったはずの、彼女からのその一言に、僕は、動揺を禁じずにはいられなかったと言う事は言うまでもない。思わず前のめりとなれば、次から次に口から飛び出すのは、あの世界での冒険の日々の事で、その意味不明な内容に、ますます、彼女は気味を悪くしていき、

「なに……言ってるの……?」

 などと、とうとう、彼女は、迫りくる僕の姿に怯えるようにしながら後退し、行列から逃げるようにしたところで、ダイヤ通りに電車は訪れて、一斉に乗り込もうとする人波の力に抗する事も叶わない非力な僕は、車両の中に埋もれていってしまった。


 車内は、経緯を知る、不審なものでも見る視線も、未だあったかもしれない。ただ、僕は、彼女が同じ街に住んでいた、という事実を前に、感動で涙が止まらなくなっていたんだ。彼女は僕の事を何一つ覚えていないかもしれない。けど、僕が彼女の名前を言い当てたという事は、あの世界での冒険の日々が真実であったという事を、物語っていたのだから。


 何かが変わる、そんな気がしていた。


 丘の上に望む校舎を見上げた時、それは唾をも飲み込む勇気だったけれど、僕は、同じ制服を着込んだ皆と共に、通学路に身を投じてみた。大丈夫さ。僕は、あの冒険の日々の中で何かがきっと変わったんだ。教室を目の前にすれば、動悸すら激しくなっていったけれど、その一歩を踏み込んだ。


 久々の僕の姿に、そこにいたクラスメイトの多くが、一瞬、驚いていたけれど、すぐさま、それらは嘲笑へと変わり、座席の方に向かえば、相変わらず花瓶は置かれていたし、机中にびっしりと書き込まれた落書きの数すら増えていたけれど、それでも僕は歩を進めたんだ。大丈夫。きっと何かが変わる。着席ざまに、僕の名を呼びながら、紙くずが飛び、それは見事に頭部に着地したりしても、あの世界での冒険の日々の事を思い出せば、笑みすらたたえて耐えられるというものだった。


 朝のホームルームで、担任は僕の出席に驚き、やはり、何かが変わるかもしれない、そう思えた。ただ、それも束の間の事、丁度、一時間目の授業が終わった十分休憩に、やつらは僕の周囲を取り囲み、肩によりかかってきては再会に喜ぶそぶりすら見せた後、「ウォーミングアップ」などと称して、途端に殴りはじめ、クラスからは、いつかと同じような、ドッとした笑いの渦が起こった。


 放課後の夕暮れの男子トイレのタイルは、窓からのぞく茜色をすっかり照り返していた。殴られ、蹴られ、しまいに壁を背に、立つ気力も失っていた僕は、気づけば、ずぶ濡れのボロ雑巾のようですらあったけど、あの世界での冒険の日々の事を思い出す事でしのぐ事ができたんだから、やっぱり、何かが変わったのかもしれない。だって、僕は、つい昨日まで英雄だったのだから。


 教室に戻れば、丁度、部活を終えた同級生が、僕の浮かべる薄ら笑いに気味悪がったりしたけれど、早速、カッターで切りに切り裂かれたカバンを手に取って、僕は帰路につく事に決めた。彼女も共に住む、僕らの街へと。


 力なく駅前広場を通りすぎようとした、その時の事だった。いづこかで聴いた事のある歌声と共に、ギターをかき鳴らす音が聞こえる。

(……まさか!)

 鼓動は、暴力で痛み切った体の事など、全て忘れるようにして、その奏でる方へと、足は向かっていったんだ。


 譜面台には、「オーディション落選記念!」「バンド解散記念!」と、クロッキー帳の紙に、やけっぱちな調子の書きなぐりが飾られていて、ギターを構えながら、CDを無料配布するから聞いてほしいと訴える制服姿は、決して丁髷に結ってはいなかったけど、つい昨日まで、無二の親友と思い合っていた彼の事を、僕が見間違うはずもない。演奏の合間、すぐ近くに佇む僕にもCDを手渡そうとする、作り笑いの彼が近づいてきた時、

「!!!」

 思わず、その名を呼べば、

「おいおい、まだ、ソロ名義、本名でいくか決めてねーんだからさ……って、お前さん、誰よ」

 苦笑して返す長身の友は、涙を潤ましてこちらを見つめてくる僕の事を、思い出そうとする素振りを見せていたが、

「え~……どっかのハコで会った?……え~……、その制服、○高だよね? って、おいおい、ボロボロじゃね?! なに? やりあった帰り?!」

 彼は、僕の制服を眺めると、そのあまりの廃れ具合に驚き、途端にコミュ障と共に我に返った僕は、差し出されたCDを受け取ると、赤面のままに背を向け、脱兎のごとく駆け抜けてしまったんだ。


 部屋に戻り、改めて聞き直したCDの音色に、僕の記憶は鮮明となる事、この上なかった。冒険の道中、皆で焚火を囲む中、ロックロックと言う割には意外と優しい声をからかえば、真っ赤にして怒ってきた事すら懐かしい。


 グスリ……気づけば、涙で視界がぼやけたけれど、あの世界での日々の事は、僕以外、皆、記憶にないにしろ、はじめての友に、そして、彼女が、この街のどこかに住んでいるという事実は、今の僕のわずかな希望だと思えた。


「……」

 渡されたCDの包み紙にはQRコードが印刷されていて、スマホで抜き取れば、友のブログにいきついた。テンションも高い記事は本日付けで早速更新されてて、駅前での定期路上公演を誓ってたりしている。


「……」

 異世界ファンタジーものに嗜みさえあれば、もしかしたら僕ら一行のリーダーは彼だったかもしれない。そんな持ち前のバイタリティで彼は溢れまくっていて、

「相変わらずだネ……」

 なんて、誰というわけもなく呟いてみたけれど、今、自室のベットの上で、着替えもしないままの僕の声なんて、誰に届くわけでもなく、それが、つい昨日まで、当たり前のように僕のすぐ近くにあったなんていう事は、余計に肌をかきむしる想いと共に、嗚咽と咆哮をあげさせ、壁に空けた穴の数は増えていく一方だった。


 ただ、友と彼女はこの街にいるんだ。この事実は、あくる日も、そのまたあくる日もやってくる現実の日常の中で、僕の支えとなっていった事は間違いなかったんだ。彼女とはあれきり出会えずにいたけれど、学校での暴力を耐え抜いた帰宅後、こっそりと駅前に向かえば、歌う友を遠巻きに応援する事が、僕の日課となっていった。酔っぱらいにからかわれ、時に、警察からストップをかけられても、友は、場所を移動するなり、手を変え品を変え歌い続ける、その姿勢に、あの世界にいた頃から、好きな事に真っ直ぐだった彼の事が、次第に眩しく思え、なんだか、そう思えていくと、こっちの世界ではなんにもない自分が、だんだん虚しく感じ、それはやがて妬み嫉みとした感情に切り替わると、玄関先で靴まで履きかけたというのに、なんだか、その夜の僕は、結局、部屋に戻り、テレビの画面の前に座ると、ゲーム機の電源に灯を灯したんだ。


 その夜も友は一所懸命に歌っていたそうだ。クラスメートの皆が皆、当たり前のようによくある「進路」について語り合う中、(人生、それだけじゃなくね?)という「違和感」が、彼にとっての原動力だった。共に夢を誓い合ったはずのバンドメンバーも、そして誰もいなくなった。尚且つ、今宵は完全に空振りのようだ。いつの頃からか遠巻きに感じていた視線の影すら、其処にはない。家では、厳格な親と喧嘩ばかりの毎日の中、とうとう、ある一曲を演り終える頃、

「……オレだってさ……わかっちゃあ、いるのさ……」

 誰も見向きもしない雑踏の中、普段、陽気でいる事を好むはずの彼も、流石に、この時期の少年によくあるガラス細工の心をきしませ、誰にも見せない顔をして、しな垂れる長髪もそのままに、俯いてしまった時の事だった。


「あ、あの……っ!」

 聞き慣れない女性の声に顔をあげれば、長い髪をハーフアップでまとめた同い年程度の美女が目の前にはいて、塾帰りの私服姿もそのままに、彼の歌に感動した事を、顔を上気させた榛色の瞳で物語っていたのだ。

 



















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