入れ替わりは時々起きている。でもたいていの人が思い出せなくなるだけ。

入河梨茶

人目につかないところでひっそりと書かれた「物語」

●当日


「だ……大丈夫?! お姉ちゃんに、陽介くん!」

 倒れて目をつむっていると、妹の明美の声が上から降ってきた。バタバタという音は、上履きで階段を駆け下りているのかも。校舎の外からは、しとしとと雨が降る音もした。

 ほっぺたが廊下に当たっていて冷たい。埃と、雨の匂いがする。

 少しくらくらする頭で、たった今起きたことを思い出す。

 わたしは階段を上ろうとしていた。そしたら階段を下りようとしていた男子生徒が足を滑らせたのか転がり落ちてきて、彼に巻き込まれて床に倒れてしまったのだ。

 わたしは目を開ける。そして起き上がろうとした。

 その時、自分がおかしなことになっているのに気づく。

 なぜか、ついさっきまで着ていた女子の夏服のブラウスではなく、男子のワイシャツを着ていた。

 床についた手は、大きく筋張って色黒になっていた。

「あ、陽介くんも……立てる? 大丈夫?」

 背後から、わたしに向けての明美の声。わたしはいつものように「お姉ちゃん」とは呼ばれない。

 自分に何が起きているか、わたしはうすうす理解し始めていた。確認するなんて嫌だったけど、このままでいるわけにもいかない。

 声のした方に振り返ると、明美と『わたし』がいた。

 長い黒い髪はそれなりにきれいで、内心ちょっと自慢に思っている。顔立ちもまあまあ整っている。

 その『わたし』の顔が、わたしを呆然と見つめていた。

「ぼ、僕がいる……」



「アニメとか、漫画みたい……だね」

 明美の声が、場を和ませるようにはしゃごうとして、尻すぼみになった。

 実際にこんなことになると、ドタバタ大騒ぎという気分にもなれない。ファミレスはにぎやかだけど、わたしたち三人の席だけは暗く沈んでいきそうになる。

 ……これじゃ、いけない。

 三人の中では、わたしが一番年上なのだから。いきなり三年の女子になってしまった陽介くんも、いきなり姉とクラスメートが入れ替わってしまった明美も、わたしがしっかり支えてあげないと。

「まずは、情報交換しましょ。今すぐ元に戻れないなら、わたしは陽介くんの、陽介くんはわたしの、ふりをして生活するしかないものね。明美にも手伝って欲しい」

 わたしは自分の――『静香』の――カバンから、ルーズリーフを取り出した。自分に一枚、『わたし』の姿の陽介くんに一枚、明美に一枚。

「陽介くんには、わたしが陽介くんのふりをするために知っておかなくちゃならないこととか注意点とかを書いて欲しい。明美も、思いついたことがあったら色々書いていって」

「は、はい……」

 陽介くんが『わたし』の顔でおずおずと応じる。おとなしい子なんだろうなと思う。

「うん!」

 明美は、気を取り直したように明るく返事をした。



●一ヶ月後


 もう七月。あの入れ替わりが起きて、一ヶ月経った。

 朝の通学路で、わたしは明美と陽介くんを待つ。傍目には、『陽介』が明美と『静香』を待っている。


 わたしと明美と『静香』が長時間一緒にいられる理由づけとして、わたしと明美は付き合っているふりをすることにした。明美とわたしは元から仲の良い姉妹だったから、彼氏の『陽介』がそこに入り込んでいくような形。

 明美は「お姉ちゃんが彼氏なんて変なの」と言っていたけれど、嫌がっているわけではなさそうなのが救いだった。

 でも、中学三年の女子から中学二年の男子になるのは、想像していたよりも大変だった。

 例えば、『陽介』との友達とのおしゃべり。男子の精神年齢は、どうも女子より少し低い気がする。本来のわたしから一歳年下というだけなのに、何歳も下の子と話しているような気分にさせられて落ち着かない。

 授業が妙に簡単に感じられてしまうのも問題だ。入れ替わる前にもそれなりに成績の良かったわたしにとって、去年やった勉強は少しやさしすぎる。なのでわたしは、元に戻った時に備えて三年向けの参考書でこっそり自習したりもしているのだが、先生の目を盗んで授業とは別のことをやるというのは初めてで落ち着かない。

 あるいは食生活。陽介くんのご家族はいい人ばかりで、陽介くんから事前に情報を聞いていたこともあって、大きく困ることはないのだけれど、ご飯の量がものすごい。わたしが少し苦手だった唐揚げやトンカツなどの肉料理が毎晩メインで、ご飯も一度おかわりするくらいで済ませると心配されてしまう。身体も変わったから食べ過ぎで苦しいなんてことにはならないものの、これに慣れてしまうと元に戻った時が大変そうだ。

 あるいはファッション。髪の短い生活は楽ではあるけれど、これも元に戻った時に長い髪をケアするのがおっくうになりそうで怖い。私服を自分で買いたいと言うとご家族に不思議そうな顔をされるのもこれまでと違いすぎて戸惑う。それと、水泳の授業で上半身裸になるのも、すごくしんどい。

 そしてもちろん、トイレやお風呂も。



 入れ替わって一ヶ月目のその朝、明美はどんよりした表情でやって来た。

「おはよう。陽介くんは?」

 明美は一人でやって来た。期末テストが昨日で終わり、今日からはまた三人で登校することにしていたのに。


 年下になったわたしは勉強に関して楽をしていたけれど、年上になった陽介くんはもちろん大苦戦だった。それなりにレベルの高い女子高を目指している『わたし』が授業で指されてもろくに答えられず、先生やクラスメートに首を傾げられてしまうほどだったらしい。

 それでも「静香さんが元に戻った時に成績が落ちすぎてしまうのは嫌だから」と健気なことを言ってくれて、最近は勉強をすごくがんばっていた。

 だから期末テストの間、わたしも明美も、陽介くんについてはそっとしておくことにしたのだった。家でも明美に助けてもらうまでもなく、陽介くんは普通に生活できるようになっていたそうだし。


「あの、ね」

 明美は、おずおずと不安そうに切り出した。こんな声を聞いたのはいつ以来だろう。小さい時、「死んだらどうなっちゃうの?」と訊ねてきた時ぶりかも。

「お姉ちゃん、だよね? 身体は陽介くんだけど、入れ替わっちゃったんだよね?」

「え? 当たり前でしょ?」

 あまりにおかしなことを訊かれた。いや、この状況自体がすごくおかしなものではあるけれど。

 でも。

 どうして明美はこんなことを言い出したんだろう?

「陽介くんが変なこと言ったの? 元に戻ったとか」

 ただ、それも考えづらかった。入れ替わってから知り合った相手だけど、陽介くんは真面目な男の子(?)だ。ふざけたり、ましてやこんな質の悪い冗談を言ったりする性格には思えない。

「それが、その……『入れ替わりって何のこと?』って。まるであたしの方が変なこと言ってるみたいな反応されちゃって」


 つらそうな顔をして、明美は続けた。

「それに、その反応が……入れ替わる前のお姉ちゃんとほんとにそっくりで……もしかして、あたしが夢でも見てたのかなって、迷っちゃって、それで……」

「一人で出てきたんだね」

 わたしは、明美をなだめるように優しく頭を撫でた。小さい頃、泣き出したこの子にそうしていたように。明美もそれを思い出したのか、表情が少し和らぐ。

「陽介くんは……『静香』みたいになろう、『静香』になろう、そんな風に思い詰めちゃって自分が誰だったのかわからなくなっちゃってるのかな」

 今のわたしは、身体も立場も『陽介』だ。傍目には、「自分が静香だったと思い込んでいる陽介」でしかない。

 わたしが静香だったと言えるのは、記憶があるから。その記憶を失ってしまったら、わたしは自分が静香だと思い込むことさえできなくなる。

 そう説明すると、明美は泣きそうな顔になる。

「でも、忘れちゃったなんて、そんなのどうやって思い出してもらったら……」

「あの紙を見せたらどうかな?」

 わたしは思いついて言った。入れ替わり直後、何度も何度も確認してすっかり暗記してしまったルーズリーフ。それでもクリアファイルに入れていつも持ち歩いている。

「そうだね!」

 希望を抱いてカバンを開ける明美と二人、ルーズリーフを取り出す。

 でもクリアファイルに大事にしまわれていたそれは、ただの白紙だった。


「何、これ……」

 明美はボールペンを取り出すと、白紙に字を書いていく。あの時と同じように、『お姉ちゃんと陽介くんの入れ替わりをサポートするために!』とタイトルをつける。

 でも、書いた言葉は端から消えていく。インクだけでなく、筆圧強く書いた痕跡すら残らない。

 まるでそんなことは起きてませんと言うように。入れ替わりなんてこの世界では発生していませんと言うように。


 すると、背後から声がした。

「仲がいいのは結構だけど、立ち止まっておしゃべりしてたら遅刻しちゃうよ」

 振り返ると、『わたし』がいる。

 わたしに笑いかけてくる。妹の親しい男友達へ向けた、ささやかな微笑み。

 ホラー小説のように、こちらへ悪意を向けてくるわけではない。

 でもその優しい笑顔は、わたしにとって最高に怖ろしかった。



「もしかしたら入れ替わりって、けっこうよく起こっているのかもしれないね」

 昼休み、二人だけでお弁当を食べながら、わたしは明美に言った。

 入れ替わった人たちがみんな、こんな風にあっさりと今の立場と身体に慣れていくのなら、そして記録したものまで失われてしまうのなら、誰も覚えていないのも無理はない。

 受け入れたいわけじゃないけど、どうしようもないかもしれない。

 そんな風に思ったわたしに、明美は言った。

「あたしは忘れないから! あたしはお姉ちゃんとずっと一緒にいるからね!」



●三ヶ月後


 そう言ってくれていた明美も、さらに二ヶ月が経った今は、わたしたちの入れ替わりをもうだいぶ思い出せなくなっていた。

「おはよう、陽介くん!」

 夏休みが明け、九月。今でも毎朝、わたしたちは待ち合わせる。でも明美はほとんどの朝、わたしを『陽介くん』と呼ぶ。


 明美はすごくがんばった。わたしのことを忘れてしまわないようにと、夏休みの間もわたしたち二人はよく一緒にいた。でも、お盆の頃にそれぞれの実家――わたしにとっては他人の実家だったけど――へ帰省してしばらく離れてしまったことが、大きかったようだ。

 今では、わたしたちがよく一緒にいるそのわけは、彼女の中でも、わたしたち二人が付き合っているからということになったみたいだ。そしてもう、昼休みに『静香』のところへ行ったりはしない。それはそうだろう。仲良し姉妹だからって、彼氏を交えて一緒にお昼なんてことは、普通はするわけないのだから。

 たまにわたしが静香だったことを思い出した日、明美はすごく申し訳なさそうな顔をする。そうなると、こっちまで申し訳ない気持ちになってくる。


 今朝は、明美は入れ替わりのことを思い出していない。

 振り返ると、『静香さん』がいた。微笑ましいカップルを見守るように、わたしたちへ小さく手を振る。苦い気持ちを押し隠して手を振り返す。

「もう、陽介くんったら! お姉ちゃんにでれでれしちゃって」

「ごめんごめん、明美ちゃん」

 明美が可愛く焼きもちを焼いて、わたしは謝った。

 妹の彼氏として振る舞うのにも、ずいぶん慣れてしまった。



 わたしは、どうなってしまうんだろう。

 わたしはまだ、自分が『静香』だったことをはっきり覚えている。

 でも、明美もそれをすっかり忘れてしまったら……わたしだけ覚えているのは却ってつらいようにも思えてきた。


 わたしももう『陽介』として暮らすことに何の不自由もしていない。

 夏休みには『陽介』の田舎へ帰省して、初対面のおじいさんやおばあさんとも普通に過ごせるくらい、わたしは『陽介』の家族になじんでいた。

 毎日のように食事に出てくる唐揚げやトンカツは、いつの間にか大好きになっていた。

 今のクラスの、一歳下の男子たちとおしゃべりするのが当たり前になってきた。女子と話をする方が、逆に緊張してしまいそうになる。三ヶ月前まで同級生だった女子たちが、「一歳上の異性の先輩」に感じられてしまう。もし元に戻れたとしても、女子高を目指すなんて落ち着かないことになりそうだ。

 それどころか、この三ヶ月で成績が急に伸びたことに気を良くした両親はレベルの高い男子高を勧めてきていて、自分でも悪くないかなんて考えている。明美は前から『静香』と同じ女子高を目指していたので、わたしが共学だろうと男子高だろうと構わないと言っていた。


 このままわたしは元に戻れないで『陽介』になっていくのかもしれない。『静香』だったことを、いつしか忘れていくのかもしれない。

 でも。

 わたしが『わたし』だったことを、すっかりなかったことにしてしまうのも、さみしかった。


 あれこれ試すうち、わたしは創作――作り物の形でなら、記録が残り続けることに気がついた。

 だからわたしは、わたしが経験したことを、名前や立場をある程度は加工した上で、こうして小説に書いてみることにした。

 いつかわたし自身が『わたし』であったことを忘れてしまって、自分を『陽介』だと思うようになっても、この小説が残ればいい。

 後になってこれを見つけた時、『わたし』でなくなった『ぼく』がどう思うかはわからないけど。

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入れ替わりは時々起きている。でもたいていの人が思い出せなくなるだけ。 入河梨茶 @ts-tf-exchange

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