第一章 銀の髪の少女

 あの人がまた現れてくれないだろうか、とむなしいことを願いながら、ソフィーは弟の額の上にせた布を取った。

 先ほど取りえたばかりなのに、もうぬるくなっている。

「ビョルン、がんって」

 熱に苦しむ幼い弟は、ソフィーの言葉を耳にしてうめいた。

(このままでは、視力を失ってしまう……)

 熱が出て二日目だ。あと一日で、熱が引くだろう。それから代わりのように視力がなくなる。

 見えなくなってから数日以内に、薬を手に入れなければならないのに、そのすべがない。

 ソフィーは、古ぼけた部屋を見回した。

 売るものなど、ほとんどない。ソフィーの家は貧しい小作農だ。さらに、父親は早くにくなっており、日々暮らすだけでもせいいつぱいな母子家庭だ。この家だって地主からの借り物で、ぜいたくなどしたこともない。

 あの時、彼が薬をくれなければ、ソフィーは確実に視力を失っていただろう。

「ビョルン……」

 十歳をえれば、モルク病にはかからないとみなが言っていた。ソフィーがかかったのも、九つの時だった。

 しかしビョルンは十歳になってすでに六カ月ほど過ぎている。ビョルンは体が弱く、同年の子どもよりも小さかった。そのせいなのだろうか。

「ソフィー、看病代わるよ。少し休みな」

 後ろから母親が声をかけてきた。

 ソフィーは頷き、立ち上がる。とっくに日がのぼっているのに、朝食も食べずに看病にぼつとうしていたのだった。

「母さん、お金借りれた?」

「……だめだったよ。地主さんとこも、ゆうがないそうだ」

「──そう」

 想定していた答えだったが、ソフィーは深く落ち込んだ。

 自分は助かったのに、弟は失明してしまうのかと思うと辛くてたまらなかった。

 わかっている。この病にかかれば、裕福でなければ失明してしまう運命なのだと。

 ソフィーは幸運だっただけだ。

 どうしてお前だけが助かるのか、というえんの声がとなりきんじよからの視線を通して伝わってきたものだ。

「私、町に行ってかみを売ってくるわ。そのお金で、薬を買ってくる」

 編み上げた銀の髪をいとおしげにでて、母に宣言する。せっぽちのソフィーにとってゆいいつほこれるものといえば、めずらしい色の髪の毛だけだった。

「お前の髪を……? でも、せっかくきれいな髪なのに。お前も、大切にしてただろう」

「たかが髪の毛よ。すぐにのびるわ。じゃあ、行ってくる!」

 ソフィーは勢いよく家を飛び出し、野をけた。この村から近くの町までは、歩いて数時間はかかってしまう。

 決断したものの、ソフィーは不安でたまらなかった。いくらまんの髪の毛といえど、薬を買うに足りるものだろうかと。

(きっと、足りないわ)

 もし足りるなら、母がもっと早くに提案してくれていただろう。

(でも、薬屋さんにすがりついてでも売ってもらわなくちゃ)

 熱で呻く弟の姿を思いかべて泣きそうになりながらも、ソフィーは苦しい息をこらえて走り続けた。


    ◆◆◆◆◆◆◆


「売れないよ」

 ようやく辿たどり着いてたのみ込んだのに、薬屋の答えは取り付く島もなかった。

「大体、髪はかんきんに時間がかかるんだ。自分でかつら屋に売ってから、金にえてきたらどうかね。もっとも──そんな洒落しやれた店は都にでも行かないとないか」

 店主の言うことは、もっともだった。だからこそソフィーは薬屋に真っぐに飛び込み、こうしようしたのだ。

「でも……お願いです。このままじゃ、弟が失明してしまいます」

「モルク病の薬は高価なんだ。その髪と引き換えに売ってたら、うちの商売あがったりだよ。帰った帰った」

「でも!」

「しつこいな! 売れないものは売れないって言ってるだろ!」

 すがりつこうとしたソフィーは店主にカウンターしにき飛ばされ、しりもちをついた。

「体でも売ったらどうだ? それから来いよ」

 にやにやと笑われ、ソフィーはくちびるみ締め立ち上がる。ふらつく足で店を出ると、どんてんから雪が降ってきた。雪が鼻の先に落ちてけたしゆんかんぼうなみだを流す。

 口に手を当てて声をこらえるが、我慢できずにえつれた。道行く人々は、そんなソフィーをうろんげに見ていた。

(ごめんね、ビョルン……あなたを助けてあげられない)

 しばらくそのままたたずんでいたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。何か手段を講じなくては、と考えながらソフィーはようやく意を決して歩き出したが、広場に差しかかったところで人だかりに気付いて足を止めた。

めいある職業、ワルキューレになりたい者はいないか!」

 見れば、軍服を着た青年が三人立っており、張り紙をかかげてさけんでいる。彼らを取り囲む人々は、おそろしげに顔を見合わせているだけで、だれひとり進み出る様子はない。

「ワルキューレには、さきばらいで高給が出るぞ!」

 その一言を聞いて、ソフィーは人をかき分け前に進んだ。最前列に出て、水色の目でまじまじと兵士たちを見つめる。

 反応がないことにうんざりしているのか、つかれた表情だった。その中のひとりがソフィーに気付いて、がおを見せた。

「君、興味ある?」

「──ワルキューレって、何をするのですか?」

 まさか神話に出てくるワルキューレと同じことをするわけではあるまい、と思いながらソフィーはおずおずとたずねる。

「なに、戦地で兵士の手伝いをする仕事だよ。だから戦乙女ワルキユーレというんだ」

 兵士の説明に、群衆がざわついた。ひそひそ、と話し声が聞こえたが、何を言っているかまではわからない。

「本当に、高いお給料がもらえるんですか?」

「ああ、それはもう」

「モルク病の薬も買えますか?」

「……いくらぐらいするんだい?」

「千ジーゼルです」

 先ほど薬屋の店主から提示された値をそのまま口にすると、兵士はにこやかに笑った。

「余裕で買えるよ」

「本当ですか! それでは、やります!」

「勇気のあるおじようさんだ。それでは、けいやく成立ということで。そうと決まれば、すぐに出発したいのだが」

 急な話に、ソフィーは目を丸くする。

「あの、その前に──薬を買って弟に届けてやりたいんです」

「ああ、わかったよ。それじゃ、先に千ジーゼルわたしとくよ。給金の一部だから、残りは後ほど」

 兵士はソフィーにぶくろを渡した。

「ありがとうございます!」

 ソフィーは小袋をめるようにして、頭を下げた。

「届けたら、ここにもどってくるように」

「わかりました!」

 ソフィーは足取りも軽く薬屋へ走ろうとしたが、周りを取り囲む人々の視線に気付いてまゆをひそめた。

 みなが浮かべていたのは、何かをあわれむ表情でしかなかったから。

(どうして、あんな目で見るの……?)

 不思議に思いながらも、ソフィーは彼らの視線を無視して駆け出した。


 ソフィーはおどろく店主に銅貨の山を押しつけて、無事に薬を手に入れた。

 息を切らして、家に戻る。どうやってかせいだのか、という母の質問に答える前に、弟に薬を飲ませてやった。

「ううん、苦い……」

 液体をえんした弟の額を撫でると、彼はすぐにねむってしまった。

「ソフィー。あんた、質問に答えなさいよ」

「……うん。私ね、ワルキューレというものにおうしたの。そしたら先払いで薬代をくれたのよ!」

 ソフィーは笑顔で報告したが、母の顔色は青ざめていった。

「あん、た……。ワルキューレが何か、知っているのかい?」

「戦場で兵士のお手伝いをするんでしょう? もちろん危険だとは思うけど、私は悪運が強いからだいじよう──」

鹿っ!」

 母が、強い力でソフィーのかたつかんだ。母のそうはくな顔を見下ろして、ソフィーは首をかしげる。

「ワルキューレは、十割死ぬって言われてる職業だよ! 今すぐ断ってきなさい!」

 今度は、ソフィーが青ざめる番だった。

 十割、とはどういうことだろう。ワルキューレに志願した時、町人がソフィーに投げかけた憐れみの視線はそういうことか──と得心する。

「十割……? でも、いまさら無理よ。もうお金使っちゃった」

「なら、いつたんどこかへげなさい!」

 ひゅう、と風のく音がした。ソフィーは母の肩越しに、誰かが入ってきたことを認めた。

 先ほどの、兵士たちだ。

「約束をたがえては困りますね。後を付けてきて、よかった」

「こ、この子はワルキューレが何かも知らなかったんです! どうかごを!」

「残念ですが」

 先頭の兵士が、すらりとけんいた。

「もう契約は成立してしまった。違えるつもりならば、相応の手段に出ねばなりません」

 ソフィーはとつに、母とベッドの上の弟をかばうようにして一歩前に出た。

「せっかく助かった弟さんを、守りたいでしょう?」

 甘やかな笑顔にそぐわぬ、冷たい声だった。彼が命じれば、残りのふたりもすぐにおそいかかってきそうだ。

「それにね、ワルキューレになれば、ご家族にお金を送ってあげることもできますよ」

「……わかりました。逃げたりしません。いつしよに行きます」

「ソフィー! あんた、何を言ってるのかわかっているのかい!」

(私が契約をわしたことは、くつがえせない事実。ここでていこうすれば、母さんやビョルンも危ない。なら、私が大人しく行くことがゆいいつの解決法)

 ばやく考えて、ソフィーは母親に笑いかける。

「大丈夫。私が悪運強いの、母さん知ってるでしょ。生き残って、ちゃんと帰ってくるから心配しないで」

 ソフィーはり返らず、兵士たちに近付いた。

「なかなか見どころのありそうなお嬢さんですね。さあ、こちらへ」

 手を引かれて、ソフィーは歩き出す。

 泣き叫ぶ母の声を聞かないように耳をふさぎたくても、できなかった。片方は手を取られていたし、もう片方は自分の目元に当てていたから。


    ◆◆◆◆◆◆◆


「私はニルスというんだ。君は?」

「ソフィー、です」

 そつせんして話しかけてきたのは、ニルスと名乗るちようはつの兵士だった。改めて観察すると、兵士とは思えないほど、剣よりはペンをにぎってこいぶみつづっていそうな、優美な青年だった。

 彼のやさしげなふうぼうのせいか、気がゆるんでソフィーの目から涙がこぼれ落ちた。

「ソフィー? どうしたんだい」

「母さんが、ワルキューレは十割死ぬ職業だって言ってたこと、思い出してしまって……」

 母と弟の前では、ソフィーはぜんとしていた。いや、しようとした。ソフィーが泣けば、家族がもっと心配するとわかっていたからだ。

 その時にまんしていたなみだまでもがあふれ出ようとするかのように、手のこうぬぐっても拭っても涙が流れて止まってくれなかった。

「……十割は、大げさなうわさだ。信じないように」

 ニルスはしようしてしゆきんを差し出しながら、ソフィーをなだめた。

 ソフィーはそれを有りがたく受け取って、涙を拭う。気をらせようとしてくれたのか、ニルスは話題を変えた。

「ベルンハルド将軍のことは知ってる?」

「いいえ」

「まあ、ワルキューレのことも知らなかったぐらいだからね。今から、そのベルンハルド将軍のところに行くんだ」

「場所は……?」

「シュオム王国との国境──前線だよ」

 シュオムはレンマールと南の国境を接する国であった。

 南でずっといくさが続いていたことは知っていたが、北の寒村に住んでいたソフィーは戦の知識にはとぼしかった。

「一年前に開戦してから、我が軍は苦戦をいられている。なかなか決着がつかなくてね」

(それほど、危険なのね)

 ぐっとこぶしを握り締める。しかし、どれだけいやがってももう逃げられないのだ。抵抗する気も起こらなかった。

 いつの間にか涙も止まっていて、ソフィーは手巾をひざの上に置いた。

「その手巾はあげるから。好きに使ってね」

 ニルスの言葉に、ソフィーは「ありがとうございます」と礼を述べて軽くうなずいた。涙でれそぼった手巾を返されてもめいわくだと思ったのか、それとも単純な親切心なのか。後者であってほしかった。

「戦場に向かう前に、しん殿でんに寄るからね」

 戦場。その言葉が、脳内で重くひびく。戦場に出ることなど、一生ないと思っていた。

(死後、ヴァルハラに行けるのかもしれない……)

 ヴァルハラは、神の世界アースガルズに存在する主神オーデインやかたである。かつては戦場で命を落とした者しか行けないと言われていたが、最近では戦場でがらを立てればどんな死に方をしてもヴァルハラに行ける……と神官たちはこぞって言っている。ヴァルハラに行きたいがために、死ににいくような戦い方をする戦士が相次いだせいで神官が一計を案じたという噂だが、しんのほどはわからない。本当にしんたくがあったのかもしれない。

 ソフィーは自分が死ぬとしたら、病気やろうすいだと思っていた。そういう死に方をした場合は冥界ニヴルヘルに行くとされていた。冥界は心地ごこちがよくないと母に教えられて、子ども心に嫌だと思ったことを覚えている。

「大丈夫かい?」

 ニルスに声をかけられ、ソフィーはわれに返った。

「……すみません。先に、神殿に行くんですよね」

「ああ。そこで君は、ワルキューレになるんだ」


    ◆◆◆◆◆◆◆


 神殿では、じゆつが待っていた。

 すぐにわかったのは、彼が魔術師しか着用を許されていない、国のもんしようい付けられた黒いローブを着ていたからだ。

「新しいワルキューレ候補だ。ワルキューレ生成の魔術をたのむ」

「わかった。……おじようさん、はじめまして」

「はじめ、まして……」

 あいさつをしてくれた魔術師は、温和な表情をした青年だった。

 魔術師に会うのは、これが二度目だ。数年に一度、魔術師調査団はレンマール全土を回って魔術の素養のある子どもを探しにいく。対象ねんれいは十歳から十四歳までだ。故郷の村に来たのは、ソフィーが十二歳の時だった。ソフィーには魔術の素養がないと判明して、がっかりしたが、魔術師は集めた村の子どもに色々な話をしてくれて、簡単な魔術も見せてくれた。今となっては、楽しかった思い出のひとつになっている。

 魔術師になるには魔術の素養がひつで、さらにその素養を高めるべく都に一つしかない魔術学校で魔術の式や理をもうべんきようしなくてはならないのだということも、その時に教わった。

 いわば、魔術師とは選ばれし者。王族とまで言わなくても、貴族ぐらいには会い難い存在なのだ。

 ソフィーが調査を受けた時は、村から男の子がひとり魔術の素養ありとされて連れていかれた。その子の両親はたいそう喜んでいた。しよみんが貴族に並ぶほどの高位の存在になれるとすれば、魔術師ぐらいだからだ。更に魔術学校の学費は国費でまかなわれるから、親は負担しなくてもいい。それほど、魔術の素養を持つ者は希少で、かつじゆようがある。

 この無害そうな青年も、だんなら口もけないぐらい遠い存在だ。それだけ、ワルキューレとは重要な役目なのだろうか。

「あの──これから、何をするんですか?」

「ワルキューレになるために、術をかけるんだよ。ああ、あと魔術をかける前に、神官の祝詞のりとさずけられるからね。まあ、しきだと思って」

 そうですか、とソフィーは頷く。

「この石の台に横たわって」

 示された石の台の側面には、神々の姿がり込まれていた。全能の主神オーデイン雷神トール豊穣の女神フレイヤ──。そして──戦乙女ワルキユーレ。戦場をけて、戦士のたましいをヴァルハラに送る乙女おとめたち。彼女たちの名前を取った職業とは、一体どんなものなのだろう。十割死ぬ、というのは本当なのだろうか。

 つらつら考えながら、ソフィーはそっと石の台に乗り、横たわる。背中が冷たい。

 白い服をまとった神官がゆっくりと、ソフィーに近付いてきた。朗々とした声で、祝詞を唱える。古語なので、古語を勉強したことのないソフィーには、祝詞の意味はよくわからなかった。だが、不思議と神聖な気持ちになる。いんりつを考えて作られたのであろう祝詞の響きは、耳に心地よい。

 段々とねむくなってきてしまい、目を閉じる。そして、ソフィーは次のしゆんかん、悲鳴をあげた。

 かっと見開いた目で、痛みの走った部位を見やる。手首に、長い針がさっていた。

「ごめんね。でも、魔術に必要なんだ。我慢して」

 針を刺したのは、魔術師らしい。彼はすまなそうに笑った。

 彼は回り込み、もう片方のソフィーの手首にも針を突き刺す。また悲鳴をあげ、いつの間にか祝詞が終わっていることに気付く。

 魔術師は、じゆもんを唱えだした。これもまた古語なのだろうが、魔術に使われるのは主神オーデインあやつったとされる神代の言葉だ。先ほどの祝詞よりいっそう古いその言葉は不気味な韻律をともない、きようを呼び起こした。

 呪文のせいか、針がしんどうする。肉をえぐられる痛みにくちびるみ、さけびをこらえる。

 先ほどの祝詞を聞いていた時とは反対だ。不快で、つらい。目をつむると、底知れぬやみが見えた。闇はうすれるどころか、段々とさを増していく。

 知らない単語のれつのなか、「ドゥーレン」とだけ、聞き取れた。よく似た響きの単語を知っている。それは──「死」。

 急速に、力が失われていく心地がする。そのままソフィーは意識を手放した。


 目覚めたソフィーは、かたわらで神官と魔術師が話していることに気付いた。ソフィーはまだ、石台の上だ。意識を失ってから、そう時間がっていないのかもしれない。

 ソフィーが起き上がると、魔術師と神官はひざまずいて頭を下げた。高位の存在に礼をされることにおどろき、ソフィーは体をこわらせる。

「儀式と魔術は成功です。これであなたは、ワルキューレとなりました。レンマールを救うため、ごじんりよくください。ご武運を」

 魔術師がそう説明した後、神官が続けた。

「ワルキューレには、女性しかなれません。我らがレンマールの戦士を守り、ひいてはレンマール国民を守る、尊い職業です。ワルキューレになると決めたあなたのかくと勇気に、神の国アースガルズにおわします神々も心を打たれることでしょう。ゆうかんに戦えば、ヴァルハラ行きが約束されます。それを胸に、おそれずに戦ってください。あなたに神々のご加護がありますように」

 そんな言葉を他人ひとごとのように聞いて、ソフィーはぼうぜんと「……はい」とつぶやいた。


    ◆◆◆◆◆◆◆


 時間がない、と言われてソフィーはまた馬車に乗せられた。不思議と、つかれてはいなかった。

(……と、いうより)

 馬車にしつらえられた窓から夜空をながめ、ソフィーは息をつく。

 目覚めた後、明らかに感覚が変わっていた。まるで、薄皮一枚へだてた向こうに世界があるような、そんな感覚だ。

 そう、まるで──この世が、遠くなってしまったような。

 ソフィーは手首に目をやった。ざっくりと刺さっている針は、先ほど見た時のような鉄の針ではなくなっていた。青白くかがやく、光の針。物質そのものが変わったのだろうか。刺された時のように、痛くはなかった。手首に、よくむ。かべに当たっても、針は壁をすりけてしまう。どうやら、この世の物質ではないらしい。

「不思議かな?」

 声をかけられ、正面を見るとニルスがたいぜん微笑ほほえんでいた。

「……はい」

「すまなかったね。しようさいは儀式の後で教えるように、という指示だったから。びっくりしただろう。痛かった?」

「そうですね……」

 ソフィーは、苦労して言葉をつむぐ。どうも、しやべる感覚も以前とちがい、もっと力がるようだ。きっと今の自分は無表情だろう。

「ワルキューレってのはね、半分死んだ状態なんだよ」

 ニルスの言葉に対する驚きも、にぶくやってきた。

「ワルキューレって、一体何をするのですか?」

「……実は、我が国レンマールが戦っているシュオム王国は、とくしゆな兵士というか兵器を使っているんだ。私たちは彼らを、『死神』と呼ぶ」

 死神、と反復してソフィーは首をかしげる。

 ようやく、感覚がつかめてきた。以前と同じように、とはいかないが人並みに反応できているはずだ。

「彼らは目に見えないが、確実にこちらの戦士をほふっていく。そのため、たいこう手段として編み出されたのが、女性を特殊な体質に作りえるじゆつだ。死の世界に近付いた女性たちは、死神を目視することができる。更に、光の弓矢を使って死神を仕留めることができるんだ。その女性たちは──ワルキューレと名付けられた」

 ニルスの説明に、ソフィーはゆっくりまばたきをり返し、質問を投じた。

「死神って、どんな姿をしているのですか?」

「黒衣をまとった白骨らしい。その手にはかまがある」

 正に、小さいころに母親から語り聞かされた死神のかたちだ──。

「だがもちろん、向こうも対抗してきた。元々、向こうは普通の戦士も連れていたんだけどね。ワルキューレは死神に対して強くても、普通の戦士に対しては弱いんだ。元は、普通の女性だし、体は武器によるこうげきを受けてしまうからね。だから戦士たちは、ワルキューレをまずねらう」

 なるほど、とソフィーはのうにその図を思いえがこうとした。

 死神と呼ばれるもの、こちらの戦士、ワルキューレ、そしてあちらの戦士──。

 こちらの思考をかしたかのように、ニルスはあわむ。

「そう。戦士は戦士から、ワルキューレを守る。ワルキューレは死神から戦士を守る。たがいに守り合うため、ワルキューレは戦士と組むんだ」

「戦士の数だけ、ワルキューレがいるということですか?」

「いや、残念ながらそうではない。ワルキューレの数はぜん足りていないため、小隊長以上に付けられることになっている」

 きっとそれは、ワルキューレの方が、おびただしく死んでいくからだろう。

 母が「十割死ぬ」と言っていたことを思い出し、ソフィーはうつむいた。

「魔術で、死神に対抗はできないのですか?」

「できるよ。だけど、高等な魔術が必要だし、そもそも魔術師の数が少なすぎて戦争には出せないんだ。だから、ワルキューレが必要になってくる」

 ニルスはソフィーの疑問に対し、ていねいに解説してくれた。

 ふとねむを感じて指で目をこすったソフィーを、彼は興味深そうに見やってきた。

「……あの、どうかしたのですか?」

「いや……実は、魔術師が言ってたんだ。今までの女性と違って、君は死の魔術にかなり馴染みやすかったと。何か、心当たりは?」

 どういうことだろう、と首を傾げながらもソフィーはおくる。

「これまで魔術師に会ったのは調査の時だけで……死の魔術なんて、聞いたことすら……」

「そうか。……理由はともかく、君は強いワルキューレになれる可能性がある。本当は、もう少し女性を集めてから戦場に行こうかと思っていたんだが、このまま直行することに決めたんだよ」

 そこでニルスはソフィーの眠たげな様子に気付いたらしく、しようしていた。

「……話はこのくらいにしておこうか。君も、疲れたろう。少し、なさい」

 ニルスにうながされ、ソフィーは目を閉じた。

 不安が押し寄せてきたので、母と弟の姿を思いかべる。

 死亡率十割。ただのうわさであっても、噂になるほど危険な職業。恐ろしくないわけではない。しかし、ソフィーはもう戦場に向かうしかなかった。

だいじよう。私は、帰れる。……たとえ本当に十割だったとしても、初めての例外になればいい)

 幼い頃から、母に「あんたはがんだね」とあきれられていた。その性格をかして、戦場でもあきらめずに戦おう……そう決めると、ようやく眠気が不安に打ち勝ち始めた。

 馬のひづめの音、車輪の回る音に耳をかたむけながら、ソフィーは浅い眠りに身をゆだねた。


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