第49頁 ただ愛してほしかった
※※※
全ての始まりは、一つの大きな岩。地球が出来た大昔から、静かにみなを見守ってきた。
生命の誕生、成長、そして死。繰り返されていくその営み。嬉しく、楽しく、時には悲しく、寂しく。そんな穏やかな日常をずっと静かに見守ってきた。
だけど……
ある日、目の前に小さな子ウサギがびっこを引きながらやってきた。可哀想に怪我をしてしまったのだろうかと思っていれば、白色の毛並みには所々赤色が。通った地面には血溜まりが出来ているようにも見える。そして子ウサギの後ろには……
「さぁて、今度は反対の足を使えなくしてやろう」
ニマニマと気持ち悪い笑顔を貼り付けた人間が。その手には猟銃を持っていた。そしてパンと乾いた音を響かせて、懸命に歩を進めていた子ウサギの足を撃ち抜く。
その瞬間悟った。今子ウサギが負っている怪我は、全てこの人間がジワリジワリと抉った傷なのだろう。わざと急所を外して、死への恐怖を味わわせるために。
パン、パンと乾いた音が静かな森で響き渡る。そして……
子ウサギは撃ち殺された。大岩の目の前で。
人間は恍惚な表情を浮かべ、好き放題に亡骸を弄び始める。果てには埋葬もせず、その場に放置。あんまりではないか、こんな酷い所業。子ウサギはお前に何かしたか? 何のために死なねばならなかった?
それから毎日のように人間はやって来て、新しい命を弄び帰って行った。まるで何も出来ない大岩に見せつけるように。いつも彼の目の前で最後の一発が放たれる。何十年も繰り返される残酷な所業。負の感情が大岩の中に蓄積された。
憎い憎い憎い。人間が憎い。憎くて憎くて仕方がない。彼らは無垢な命を弄んで、一体何がしたいのか。今回のことだけではない。大気汚染や森林伐採、彼らはいつもやりたい放題ではないか。なぜそんな奴らが生きていて、何の罪もない命が死んでいくのだ?
人間たちを一人残らず駆逐してやる。
その思いが限界を迎えた時、彼は大きな手足を得ていた。その後のことは正直よく覚えていない。ただ怒りのままに、憎い人間をたくさん屠った気がする。暴れて暴れて暴れて。
そしていつの間にか多くの子供たちを生み出していた。抑えきれない感情が吹き出してしまったのだろうか。ハッと我に返った後、もう子供たちを産み出すことは出来なかった。
※※※
「彼が生み出した異形たちが子を産み育て、またその子供たちが命を産み……そうして今の異形たちが誕生しているのです」
初めて聞いた、異形誕生の物語。
異形たちの身体が自然と馴染みやすいのは、これ故だろう。地球のような存在である原始の異形から産まれたから、相性がいい。
アサヒさんからふぅ、と一つ息が漏れ、彼女の瞳に寂しい色が灯る。
「ずっと知りたがっていましたね。肉食の異形がもう居ないと、私が断言するその理由を」
「はい」
「原始の異形に聞いたのです。肉食の子が居なくなった、と。親だからでしょうか。離れていても、彼は子供たちがどこに居るのか分かったようで」
アサヒさんの言葉に納得すると同時に心が冷えた。どこに居るか分かったということは、裏を返せば、一人また一人と命が消えていくのも感じ取れてしまったということではないだろうか。
自分の子供たちの命が消えていくことを、知りたくなくても知ってしまうその力。ひどく残酷な物のように思えた。
「肉食の遺伝子は強力で、片親でも肉食だとその子供も肉食になります。そして両親共に草食だと、肉食の子は産まれません。だからもう肉食の子は産まれません」
「……」
「みんなの生みの親である原始の異形も、この世を去りました。人間に討伐されて。だから新しい肉食の異形を誕生させることもできないのです。そもそも怒りで我を忘れていた時にしか、異形を産み出せなかったようですが……でも正確に言えば、人間を食べる異形は居ないと断言することはできませんね。原始の異形である彼のような存在が、今後出てこないと言い切ることはできませんから」
アサヒさんの緑色の瞳が寂しげな色に変わり、細い声で先が紡がれる。
「優しい方でした。怒りのままに動いてしまったことをずっと悔いていた。もし自分があんなことにならなければ、戦いなんて起こらなかったのに、と」
僕は原始の異形に会ったことはないけれど、アサヒさんの言葉が何となく分かる気がした。
きっと異形たちは、原始の異形から出てきた感情の欠片みたいな存在だと思う。ずっとずっと長い間いろんな物を見てきて、憎しみも怒りも悲しみも喜びも、溜め込んだ感情がそのことをきっかけに世界に放出してしまった。そして人間に対する負の感情を多く受け継いだのが肉食で、正の感情を多く受け継いだのが草食の子たちなんじゃないかな。
草食の子たちはみんな僕に友好的だった。きっとそれは、原始の異形に人間を好きという気持ちもあったからだろう。彼はちゃんと知っていたんだ。人間の悪い面だけじゃなくて、優しい面を。
肉食の親から、草食は産まれない。それはつまり原始の異形が産み出さなければ、草食の子たちはこの世に存在しない訳で。怒りで我を忘れていたあの時に、彼らが産まれてきたということは、そういうことなんだよね、きっと。
「その頃ようやくカタコトではありますが、言葉を使えるようになって。異形らしい部分は隠し、人里へ降りました。最初の時とは違って、出逢ってすぐに発砲されるということはありませんでした」
ほんの少しだけアサヒさんの声に温度が灯った。だけど、出会って発砲されなかった、ということに安心しないといけないなんて、すごく寂しいような気がした。
「ローブを脱いで、この身体を見せて、元人間であることを説明しました。害はないと、傷つける意思は全くないと、必死に伝え、そばにおいてほしいと願いました。でも……発砲されました」
「……」
長い時間を費やして、相手に自分の想いを伝える術を手に入れたアサヒさん。でも彼女の努力が実ることはなかった。それはどれほどの絶望をもたらしたんだろう。
「でも、どうしても諦められなくて。時を変え、場所を変え、人を変え。訴え続けました。そばに居てほしいと。だけど……」
グッと、彼女が拳を握った。その動作で次に語られる言葉が読めてしまう。そうであってほしくないと願いながらも、今更答えは変わらない。
「私の言葉を聞いた上で、返ってきたのは拒絶でした。気持ちを聞いてもらえれば、何とかなるかもしれないと努力してきましたが、どうにもならなかった。ただの一人も、私の手を取り抱きしめてくれた人は居なかったんです」
この世界には、感情だけではどうにもならないことがたくさんある。以前エルも同じ言葉を言っていた。先ほどアサヒさんが僕に言った言葉の意味はこれだろう。どれだけ『助けて』と叫んでも、手を伸ばしても、彼女の手を握り返した人は、一人もいなかった。
「未知の物を近くに置きたくないのは、当然の感情です。私だって反対の立場なら拒絶し、銃をつきつけていたかもしれません。でも、だから……どうしたらいいか分からないのです。何をしても拒絶される。何もしなくても拒否される。だから、ここで、一人になるしか、方法がないんです」
相手の恐怖の感情を理解できるが故の決断。お互いがこれ以上傷つくことが無いように、距離を取るしかなかった。理解してもらえないのなら、自分の存在を消すしか彼女には取れる選択肢がなかった。
「死のうと思ったことも、一度や二度ではありません。でも……どうしてもできませんでした」
「……」
「今、ここで鼓動している心臓は私の本当の心臓ではありません。どなたかの心臓が脈打っています。きっと、弾丸を撃ち込めば、腐りながら死ぬでしょう。だけど……そんなことをしてしまったら、この心臓の持ち主を二度殺してしまうような気がして、できない、のです」
「……」
「自然に鼓動を止めてくれる日を待っているのですが、もう1500年以上鼓動を続けています」
1500年。長命な異形にとって、その年月鼓動を続けることは珍しくもないことだろう。そしてまだこれから先の未来もその鼓動は続くはず。
「……いつ、止まってくれるんでしょうか」
自分の胸を握りしめて、悲しすぎる言葉を呟いたアサヒさん。自分の心臓が止まることを願っているその言葉に、胸がギュっと痛くなる。
「私は、ただ、愛してほしかっただけなんです。私と言う存在を、私たちと言う存在を、この世界に」
「……」
「認めて、愛して、ここに居ていいと抱きしめてほしかった。ただ、それだけなんです」
それだけのことなのに。ただそれだけのことのなのに、世界は彼女の夢を叶えてくれない。それどころか、彼女たちを排除しようと動き出す。
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