第50頁 約束します
「もう疲れたんです、戦うことも希望を持つことも。だから全て諦めました。初めから期待しなければ、絶望することなんてありませんから」
「疲れた」「諦めた」彼女の口をついて出てくる言葉に、胸が張り裂けそうな位痛くなる。本当は何一つ諦めたくないはずなのに。世界は諦める道しか、彼女に用意してくれない。
「何も変わらないんです。何をしても陸奥さんがただ徒に傷ついて終わるだけ。そんな想いはしてほしくありません」
「アサヒさん……」
壮絶なアサヒさんの過去の道のり。それを聞いただけで胸が苦しいのに、実際に体験した彼女はどれほどの傷を負ったんだろう。
「陸奥さんが私たちのためにたくさん考えてくれたこと、とても嬉しく思います。ありがとうございます」
深々と下がったアサヒさんの頭。彼女のその言動で、僕の頬につぅと涙が伝った。
本当は、アサヒさんが誰よりも世界に伝えたいはずなんだ。自分たちは無害な存在なのだと。拳銃を向けないでほしいと。害さないでほしいと。
だけど、言葉は誰にも届かなくて。戦って戦って戦って、ボロボロになりながらも歩いて来て、その足がついに止まってしまった。
「陸奥、さん?」
気がつけば、僕は彼女を抱きしめていた。僕の中でアサヒさんが身体をこわばらせたのが分かる。だけど、アサヒさんは僕の手を振りほどこうとはしなかった。
身体中から感じる、継ぎはぎの皮膚の感触。無機質な縫い目、固い皮膚、柔らかい皮膚、毛深い皮膚。シャツ越しに触れても、それらがはっきりと僕の身体全体に伝わる。彼女の苦痛と、バラバラに切り刻まれた異形たちのことを思うと、胸が苦しくてたまらない。
「僕、何も知りませんでした、アサヒさんのこと。どれだけ辛くて、どれだけ痛くて、どれだけ悲しかったのか、何も……っ」
一カ月以上。この山で一緒に居たのに、僕は何一つ知らなかった。それだけ、彼女が気付かれないように、注意深く行動していたから。もう傷つかないように、固くその口を閉ざしてきたから。だけど……
「やっぱり今のままは嫌です」
「陸奥さん、お気持ちは嬉しいのですが……」
「だって……僕には届いたじゃないですか」
涙と一緒に出てきた僕の言葉。「届いた」と言葉として声に載せたそれに、アサヒさんの瞳が揺れた。
「僕はあなたの言葉が真実だって知っています。アサヒさんを通じてたくさんの異形と知り合って、彼らが無害な存在だって知っています。アサヒさんが今までどれだけ辛く苦しい道を歩いてきたのか、今知りました」
何も知らなかった頃の僕はもう居ない。自分の目で見て、耳で聞いて、手で触れて。届いているんだ。彼女は不可能だと言ったが、僕にはちゃんと届いている。
「それに、ずっと扉を開けていたじゃないですか」
「……」
雨の冷たい日も、雪の降る寒い日も、アサヒさんがログハウスの扉を閉じたことは一度もなかった。ずっと不思議だったんだ。いくら山奥と言えども、そんな不用心。でも彼女がそうし続けた理由は、一つだけ。
「誰かに見つけてほしかったから、ずっと扉を開けていたんじゃないですか?」
いつ来ても開け放たれていた扉。アサヒさんが語ったように、全てを諦めているのなら、最初から心も扉も閉ざしていれば良かった。だけどそれをしなかったのは、本当は誰かに助けて欲しかったから。自分と言う存在を見つけて、知ってほしかったからではないだろうか。
全てを諦めたフリをする彼女の、無言のSOS。何も諦めていないと、最初から扉が告げていた。
「時間はかかります。全人類には理解してもらえないかもしれない。心無い言葉に傷つくこともあるかもしれません。だけど、届くんです、届く人は居るんですよ、僕みたいに。世界は少しずつだけど、変わります。だから、だから……」
「ありがとう、ございます」
僕の声を遮って、アサヒさんの口から零れたお礼。震えるままの声で、その先が紡がれる。
「その言葉で十分です……誰かに届くということは、こんなにも嬉しいことなんですね」
彼女の言葉にハッとした。1500年伝え続けて、拒絶され続けて、だけどようやく僕に届いた、今この瞬間。きちんと言葉にして紡いでしまった「届いた」という形に、彼女が張りつめていた糸がプツンと途切れた気がする。
「ありがとうございます」
アサヒさんはそのまま笑った。
だけど、それならどうして、どうして……そんな顔で笑うんですか。
違う。僕はそんな風に笑ってほしい訳じゃありません。もっと、たくさんの幸せを感じて、心からの笑顔を見せてほしいのに、なんでっ……
「私の手を見てください。継ぎはぎの皮膚と、長さも大きさもバラバラな指。これでは大きな物は持てません」
「アサヒ、さん」
「っ……今の幸せが私にはちょうどいいんです。人間たちと深くかかわらず、静かに暮らしていく今の暮らしが。だから……世界には何も伝えなくていいんです。変わらなくて、いいんです」
彼女の言葉と表情の、真逆過ぎる感情に再び涙が伝った。
それは今までアサヒさんが裏切られ続けてきた証。希望を抱いて、粉々に打ち砕かれる苦しみを知っているからこその反応。だからもうこれ以上傷つきたくないと願う。自分も、異形も、そして僕も、誰も傷つかないために。だけど……
「私は、もう十分幸せです。だから……」
「だったらどうして、っ……どうしてそんな痛そうに笑うんですか」
見ている僕が泣きたくなるような、苦しい笑顔。
言葉では幸せだと、十分だと言っているのに、心は痛くて、怖くて、苦しくて泣いている。
本当は世界を変えたいと思っている。だけど、必ず変わるという証はないから。期待した後の絶望を、彼女が嫌と言う程知っているから。「十分だ」「諦めた」と自分自身を納得させて、怖いと泣き叫ぶ自分を隠している。何一つ十分じゃないし、何も諦めていないのに。これ以上誰にも傷ついてほしくないから。自分が経験した苦しみを、僕に味わわせたくないから。
「そんな優しい理由で、僕が納得すると思いましたか?」
「……」
「アサヒさん、僕の手を取ってください」
「……ズルいです、そんな言い方」
ふるふると首を振り、恐怖と戸惑いといろんな感情が入り混じった顔で、彼女は僕の手を見つめる。長年ずっと差し伸べてほしいと願っていたはずなのに、その手を握り返すのが怖くて堪らないのだろう。
「約束します。僕が必ずあなたの望む未来を連れてくると。この一生、いえ一生以上をかけても、連れてきます」
怯えている彼女に、僕は手を差し伸べながら言葉を投げた。
きっと、僕はアサヒさんより早く死ぬ。ずっとずっと早く。だから、彼女はまた一人になってしまうだろう。だけど、このどこまでも優しい女の子を、本当の一人ぼっちにはしたくない。
「約束します」
アサヒさんに手を伸ばしながら、僕はもう一度はっきりと言い切った。
「……」
しばし流れる静寂。お互いの緊張と吐息だけが聞こえる空間で、アサヒさんが選んだ答えは……
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