第23頁 ずっとずっと前の物語
「あの子はね、捧げすぎるのよ、命に対して」
「……捧げ過ぎる?」
「そう、自分が壊れちゃうくらいにね」
花ネズミたちの診察に戻ったアサヒさんの背中を見ながら、エルが語り出す。それは僕がアサヒさんたちと出会う、ずっとずっと前の物語。
※※※
「ひどい」
「……」
目の前の光景に顔を歪めながらエルが呟き、アサヒは無言で前を見つめた。
彼女たちの前には、死が訪れた森が。至る所から腐臭が立ち込め、地面に異形が横たわっている。
「立ち去ってから、そんなに時間は経っていないようですね」
一番近くに居た異形の身体に触れて、アサヒが呟いた。異形の身体は無数の銃弾で撃ち抜かれていたが、まだその原型をとどめている。
異形の身体は、鉛で腐る。撃たれたまま放置されれば、腐敗が全身へと広がっていき、生きていた頃の姿が分からないほどぐちゃぐちゃになる。
「去ってから30分ってとこかしら? これだけ大がかりだと、討伐隊でも組んで殺しに来たのね」
討伐隊を結成した大規模な異形駆逐作戦。この森で暮らしていただけの異形たちが犠牲となった。その悪魔のような所業に、エルの瞳から温度が消える。
「まだ生きている子が居るかもしれません」
そんなエルの姿を横目で見ながら、アサヒは一縷の望みをかけて静かな森へと耳を澄ました。
「「!?」」
そして耳に集中していた二人が、同時に一点を見つめる。その方向から生存者の息を感じ取ったのだ。アサヒとエルは濁った空気の中、走り抜けていく。
「見つけ、ました」
息を切らしながらその場所にたどり着けば、大きな木の根元に居た。明るく日の光が差すその場所に、小型犬くらいの小さな異形の子供が。
体中をたくさんの銃弾が打ち抜いており、だいぶ腐敗が進んでいる。目視で確認できるだけで、その数10発は越えているだろう。それだけでなく、身体の深部にも弾丸は入り込んでいる。その姿を見た瞬間悟った、この子はもう……
「IH、GE。P)」
異形の子供はアサヒとエルの姿を見ると、か細い声を出しながら手を伸ばしてきた。伸ばしたその手は、動かした先からポタリ、ポタリと腐敗で崩れ落ちていく。
近づくことすら躊躇う、そのひどい状態。しかしアサヒは一瞬も迷いの色を見せずに、その子の元へ駆け寄って
「助けに来ました」
そう言って、差し出された手をギュッと握った。
「アサヒ」
「……」
「もうその子は……」
「でも!」
数十分後、見かねたエルが声をかけるも、言葉を遮ってアサヒが声を荒げる。彼女のローブも手袋もマフラーも、異形の子供の腐物でぐちゃぐちゃ。撃たれた弾丸を取り出して、消毒して、腐敗した部分を取り除いてまた消毒して……そんな終わりのない治療を延々と全身かけて行ってきた。
しかし、朽ちた部分は元に戻せない。腐った組織が再生することはない。必死に治療を続けるも、損傷部位があまりに深く、多すぎた。
異形の子供の息は、次第にか細く、少なくなってきて、ついには……
「もう、息してないよ」
完全に呼吸が停止した。小さく動いていた、呼吸を知らせる胸の上下運動。今はピクリとも動いていない。そして、徐々にその体温が失われていく。
「……っ」
エルの声に反応して、アサヒが唇を噛む。強く噛み過ぎて、ツゥと血が流れ、マフラーを赤く染めた。しかし、そんな痛みも無視して千切れるほど強く噛みしめ、消毒の作業を再開する。
「……アサヒ」
「……」
「ねぇ、アサヒ」
「何ですか」
エルが呼びかけるも、一向にその手を止める気配のないアサヒ。黙々とただ作業を続ける。
「行こう」
「……」
「早くここを離れないと、人間が来るかもしれない」
「……」
「こんな所見られたら、異形の味方としてあんたも殺されるかもしれないんだよ?」
「……」
「逃げるよ、その子はもう助からない」
「嫌です」
「アサヒ!」
「それは理由になりません!」
張り上げたエルの声に負けないように、声を荒げるアサヒ。その瞳には涙が浮かび、今にも零れ落ちそうだった。
「この子は、言ったんです」
そして、彼女は親に縋り付く小さな子供のように、夢中で言葉を紡いでいく。
「助けて、とそう言ったんです。この子は、私に助けを求めて縋り付いた。そんな子の手を離していい理由なんて、ありません。あっていいはずがないんです!」
アサヒは叫びながら、小さな異形の手を強く握った。その仕草は絶対に離さない、とそう訴えていた。もう届かないことが分かっていても、届くはずのない命に、それでも彼女は全力を捧げる。
「……」
彼女のその必死な様子に、エルはそれ以上何も言えず、ただアサヒの作業を見つめていた。
※※※
「アサヒ。あんたもう治療しない方がいい」
小さな異形に撃ち込まれた弾丸を全て取り出し、消毒し、縫合した後、アサヒは優しく抱き上げて、木の根元にその身体を埋葬した。
そして、いつまでも手を合わせ続ける彼女の背中に、エルが語り掛ける。
「このままだと、あんた自身が壊れるよ」
アサヒは捧げすぎるのだ、相手の命に対して。誠心誠意向き合うその姿勢は、とても美しくて綺麗。しかし、いつまでもそんなことを続けていれば、彼女の心が崩壊してしまうだろう。エルはそれがとても恐ろしい。
「全ての命を救えないことは、分かっているんです」
言葉を待っていると、エルに背中を向けたままアサヒが言葉を紡いだ。こちらからその表情は窺えない。彼女は今、何を思っているのだろうか。
「でも……せめて、私が出会った中で、私の手が届く範囲に居る命だけでも、救いたいと思うんです。救えなくても、命に対して精いっぱいを注ぎたいんです。それだけ、なんです」
世界中の全ての命を救うこと。それはどんなに優秀な医師であっても、叶わない夢だろう。だからこそ、自分が通った道で倒れている命だけでも、手を差し伸べたい。折角出会えたのだから、せめて、この子だけでも生きてほしい。ちゃんと道を歩いてほしい。彼女の願いはたったそれだけ。
「そう思うことは、いけないことですか?」
振り向いたアサヒが、エルに問いかけた。その時見た彼女の表情を、エルは今でも覚えている。痛くて、悲しくて、それでもまだ世界を信じていた彼女のその表情を。
※※※
「命を看取るのは、それが初めてだった。その時の背中が、さっきの陸奥と似てたの」
「……」
「結局、それからもずっと治療を続けてる。今は強くなったから、最初の頃みたいな脆さは感じないけどね」
「……」
エルの話を聞き終わって、僕は何も言葉を返せなかった。
彼女の言う通り、アサヒさんからは自分自身が壊れてしまうような脆さや儚さを感じたことはない。だけど、この強さにたどり着くまでに、アサヒさんはどれだけの時間を費やし、何人の異形の死を看取ったんだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます