第32頁  届いた言葉

 3月4日、午前10時、ひまわり畑。


「……」


 昨日の言葉が胸に刺さって、抜けてくれない。ズキズキとする痛みが響いて、とても苦しい。


『人間と出会って、生き残っている異形が少ないんです』


 異形と出会ったら、弾丸が尽きるまで打ち続ける人間がほとんどだろう。そして、仮に致命傷を免れたとしても、異形たちは自分で弾丸を取り除くことはできない。ただ腐りながら死を待つだけなんて、あまりにも残酷すぎないか。

 でも、以前の僕は、その残酷な行為をしてしようとした訳で……


「?」


 胸の痛みに苦しんでいれば、クイクイ、と服の裾が引っ張られる。何かに服が引っ掛かっただろうか。だけど、僕は特に動いていないし、引っかかるはずがないと思うんだけど……あ、もしかして


「狐さん、ですか?」

「m」


 僕の問いかけに小さく漏れた金属音と、服の裾が頷くように縦に再び引かれた。

 やっと、来てくれた。僕がここに来て約1カ月。ずっと準備してくれていた狐さん。心を整えて、ようやく僕のそばに来てくれた。

 彼女のその温かい行動に、胸の苦しさが和らぐ。だけど、それと同時に一度だけ大きくズキンと疼いた。


「振り向いてもいいですか?」


 疼く傷を意識しないように、背中越しに許可を求める。もちろん、彼女を驚かせないよう小さな声で。

 少し待っていれば、再び縦に服が引かれた。ゆっくりと背後を振り返ると、そこには僕が想像していたよりも可愛らしい異形が。

 いつも遠く離れた所に居たのでよく見えなかったが、頭には狼のような灰色の耳、お尻では金色の尻尾がユラユラと揺れている。鼻はツンッと尖っていて、左右の瞳の色が異なっていた。身長は、僕がしゃがみ込んだ時に丁度目線が同じになるくらいの高さだった。


「urbn@」


 見つめていれば、ほんの少し頬を染めながら、小さく金属音が発生。何と言っているのかは残念ながら僕には分からない。だけど以前アサヒさんが言っていた狐さんの目的を考えると……


「こんにちは、狐さん」


 僕が挨拶を返した瞬間、狐さんは花が咲いたように明るい笑顔を浮かべてくれる。その笑顔は見ているこちらが優しい気持ちになれる、あたたかい笑顔だった。とても無垢で純粋で綺麗な笑顔。

 その笑顔を見て分かった。狐さんは本当に僕に挨拶をするためだけに、頑張ってくれていたんだと。彼女の見せてくれた笑顔は、嘘も偽りも余計な感情が何も入っていない。

 だから、尚更泣きたくなった。彼女のことを疑ってしまった自分に。そして……


「あ、の……」

「mjrhw@,?」

「僕、狐さんにお聞きしたいことがあるのです」


 狐さんに確かめないと、怖くて仕方がない自分に。


『毎日のようにここに来ているみたいです』


 アサヒさんの言葉と彼女の存在を知ってから、ずっと聞きたいと思っていた。あの日、あの時、狐さんがここに居たのなら……


「狐さんは、僕のことが怖いですか?」

「?」

「あの時……僕が銃を撃った時に近くに居ませんでしたか?」


 そう尋ねれば、狐さんは何も答えずただ俯いた。俯いたその横顔から、痛そうな顔が見える。その表情が答えだろう。


 狐さんはあの日、ここに居た。僕が銃を撃ったその瞬間を、近くで見ていた。


 その事実に嫌な汗が背中に滴り落ちた。あの時撃ってしまった一発。少しずれていれば、目の前の小さな命を貫いていた可能性もある訳で。想像もできないくらいの恐怖を彼女に与えてしまっていたに違いない。


「怖い思いをさせてしまい、すみませんでした。あの時の僕は、何も知らなくて……いえ、知らないなんて言うのはただの言い訳ですね。知らないことが撃っていい理由にはならないのに」

「hb……sfs」

「撃ち殺そうとしたという事実は、絶対に消えなくて、ずっと苦しくて……」

「ihbwob、ubn、od:sp、v]ks」


 僕の言葉を遮って狐さんは何か言葉を発し続ける。しかし、何と言っているのか分からない。僕に対する怒りの言葉か、罵倒だろうか。どんな言葉だったとしても、僕は彼女の言葉を受け止めなくてはいけない。それが辛く痛い言葉だったとしても。

 ふるふると首を振りながら話し続けている彼女に、目線を合わせる。すると……


「泣いて、る」


 狐さんの瞳からは、ポロポロと涙が。

 自分も撃たれるかもしれないという恐怖を思い出させてしまっただろうか。傷ついた仲間を想い、怒りに震えているのだろうか。それとも……僕という存在が恐ろしくて仕方ないのだろうか。

 とまることなく流れ続けるその涙を見て、胸の傷が今まで感じたことのない位痛みを増した。


「っ……」

「sibhn」


 どうすればいいのか僕が迷っている間に、トン、と一番痛い所に手が添えられる。触れてくれる手の主は、いまだ涙を流し続ける狐さんで。怒りに任せて殴るでも、突き放すでもなく、優しく寄り添うように触れてくれる。その行為と共にあたたかな感情が僕の中に流れ込んできた。


「isorb」

『辛かったね』


 本当にそう言ってくれたのかは分からない。だけど、僕にははっきりと聞こえたんだ。

 この子は、思い出した死の恐怖からではなく、仲間を傷つけられた怒りや悲しみからでもなく……


「僕のために、泣いてくれているんですか?」


 そう問いかければ、狐さんは深く頷いてくれた。

 どうやったって、過去の過ちを消すことなんてできなくて。胸の奥深くで、膿み続ける傷が痛くて苦しくて仕方なかった。

 だけど、狐さんはそんな僕の苦しみを認めて、寄り添ってくれる。僕のために涙を流してくれる。その滴はすごく綺麗であたたかくて、心地良い。


「っ」


 トントン、と小気味いいリズムで狐さんが触れる度に彼女から感情が流れ込む。胸が温かくて仕方ない。

 毎日のようにここに足を運び、僕に挨拶をしようと頑張ってくれていた狐さん。当然ずっと僕のことを見ていた。僕がずっと後悔してきたことも、苦しんできたことも、あの祈りも全部……全部っ。見てきてくれたからこその言葉と温かさだと思う。


「……っ」


 あぁ、もしかすると狐さんは、僕に挨拶をしたいという目的だけでなく、僕の傷に寄り添おうと頑張ってくれたんじゃないだろうか。狐さんから流れ込んでくる感情が、まるで抱きしめてくれるかのように包みこんでくれた。


「ありがとう……ございます」


 本当は彼女の手を握って、抱きしめたい。だけどそんなことをすれば、臆病で繊細な狐さんを緊張させてしまうだろう。ただでさえ、僕に触れているという今の状況は、相当な勇気を振り絞った行動のはずだ。

 だから、僕は心からの感謝を込めて、頭を下げる。

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