第33頁  お断りします

 3月5日、午後1時、アサヒのログハウス。


「昨日、狐さんが声をかけてくれました」

「良かったですね」


 翌日、僕は昨日の狐さんとの一件をアサヒさんに報告しに来ていた。あの後僕と狐さんは一緒にひまわり畑を鑑賞する友達になった。アサヒさんにはたくさん心配をかけてしまったので、良い報告が出来てとても嬉しく思う。そして……


「アサヒさんの言ってくれたように、狐さんは僕のことを怖がってはいなかったです」


 ずっと心の奥底で怯えていたこと。異形を撃ってしまった僕に対して、狐さんが負の感情を抱いているのではないか、と。だけどそんな感情、狐さんの中に全く存在していなかった。


「良かったですね」


 先ほどと同じ言葉。でも、さっきより優しい声音で奏でられた言葉。その心地よい音に胸が温かくなる。だけど……


「泣いてくれたんです、僕のために」

「……」

「誰かに寄り添える心を持っているのに……どうして彼女たちは、世界から誤解され続けているんでしょうか」


 異形たちと触れ合うほどに強くなるこの気持ち。なぜ彼らは銃を向けられるのだろうか。


『異形は駆逐しなくてはならない、人類の敵である』

 長年言い聞かされてきたこの言葉。それが間違いだって、僕はアサヒさんを通じて知った。彼らは駆逐しなくてはいけないような存在じゃない。人類の敵なんかじゃない。

 最初は信じられない気持ちが大きかったけれど、今は違うと断言できる。


「誰かのことを想って、涙を流せるんです。誰かに寄り添う心を持っているんです。僕たちと何も変わらないじゃないですか」

「……」

「狐さんだけではありません。天狗さんも大木さんも黒猫さんも他のみんなも、僕に優しくしてくれました。あの魔法みたいな不思議な力だって、その出発点は全て優しい感情です」


 僕を楽しませようと、身体を光らせてくれた大木さん。

 僕が風邪を引かないように、乾かしてくれた天狗さん。

 僕を怯えさせないように、姿を消してくれた黒猫さん。


 誰一人として、あの不思議な力を悪い感情で使った異形は居ない。みんな僕のために一生懸命祈ってくれた。


「こんなにも優しい彼らが誤解され続けているなんて、僕嫌です。異形たちのことを正しく世界に認識してほしいです」


 片足を失ってしまったケルベロスや僕が撃ち殺そうとした骸骨のお母さんも。もし異形が人間の敵ではないという事実が広まっていれば、怪我をせずに済んだかもしれない。不必要に負う怪我、消える命が、救えるかもしれない。


 聞こえる声に耳を塞いで、見たくない物に蓋をした。その結果がこれだ。何の罪もない異形たちが犠牲になり続けている。


「アサヒさんは以前『人間を襲う異形は居ない』って言ってました。知っているんですよね? そう断言できるだけの根拠を」

「……」

「教えてほしいんです。異形が無害だって根拠を元に、僕論文を書きたいんです。それを学会で発表します。異形たちの真実を世界に公表し……」

「お断りします」

「え?」


 僕の言葉を遮って飛んできた、冷たい否定の言葉。驚きながら見つめれば、言葉と同じで冷たい目をしてた。


「どうして、ですか? みんなが無害だって真実が広まれば、もう誰も怪我をしなくて済むのに。異形も、人間も、怯えなくていい世界になるのに」

「そうかもしれませんね」


 そう告げる彼女はとても痛そうで。どうしてそんな顔をさせてしまっているのか、僕には全く分からない。


「だったら……」

「誰が、信じてくれるんですか」

「すぐには受け入れてもらえないかもしれません。僕だって最初はアサヒさんに失礼なことを言ってしまいました。だけどこれが真実だから。時間はかかるけど、届くと思うんです。だから、一緒に……」

「お断りします」


 突き放すように冷たく告げられた言葉。つい頭に血が上る。


「なんで、っ……アサヒさんは今のままでいいと思ってるんですか」

「……」

「異形のみんながこのまま傷つき続けていいと、そう思っているんですか」

「……」


 聞かなくても、答えなんて分かってる。

 アサヒさんは傷ついた異形たちに出会う度、自分が怪我をしたみたいに痛い顔をする。そんな彼女の答えなんて分かり切ってる……そう、思ってた。


「……」


 だけど、返事はもらえない。僕の言葉を速攻で否定してくれると、そう信じていたのに。


「っ、お願いします。協力してください」


 悔しさで唇を噛みながら、僕は言葉を紡ぐ。

 叶うかもしれないんだ、異形に怯えずに済む未来が。異形が怯えずに済む未来が。掴めるかもしれない未来がそこにあるなら、僕は諦めたくない。


「お断りします」

「もう、誰も異形に怯えずに済むんです。異形たちだって、人間に怯えなくても済むじゃないですか!」

「そう、ですね」

「だったら、一緒にやりましょうよ。時間はかかるけどこれが真実なんです。きっと伝わるはずです」

「……」

「アサヒさん!」

「……」


 静かに流れる静寂。ジッと何かを考え込むようなアサヒさんを、僕はひたすら待ち続けた。そして……


「もう……放っておいてください」


 しばらく待って帰って来た言葉は、少し湿っていた。その苦し気な声音が、僕の心にグサリと刺さる。

 なぜこんなに拒絶するのだろか。簡単な道ではないこと、分かってる。だけど、今のままは嫌なんだ。


「どうしてですか? 理由を教えてください」


 気がつけば、口をついて言葉が出ていた。アサヒさんはいい加減な理由で、僕の言葉を否定しないはず。きっと複雑な事情が隠れているんだろう。


「……言いたくありません」

「なんで言いたくないんですか?」

「言いたくないからです」


『言いたくないから』

 そのわがままな子供みたいな言い分に、ほんの少しムッとした。だからつい、突き放すような声音になってしまった。


「分かりました。今日はこれで失礼します」

「……」


 もちろん、彼女からの返事はなくて。僕はそのまま振り返らずに、ログハウスを後にした。


 だけど、この時の僕は何も知らない。どうして彼女がここまでの拒絶を示すのか。




※※※




 3月5日、午後4時、アサヒのログハウス。


 トントントン


「帰ったわよー」


 陸奥が帰ってから数時間後、森を散歩していたエルが帰ってくる。いつものように扉を叩いて、帰宅を伝えた。


「……エル」


 普段なら声を張り上げて返事をするが、今のアサヒにそんな余裕はない。部屋の隅で彼女の名前を呟くことしかできなかった。


「ん? 入っていいのよね? そっちに行くわよ」

「どうぞ」


 小さく呟くその声でも、耳の良いエルには届いてくれる。エルはいつもと違う様子に首を傾げながらも、中に入った。そして見つけたのは……


「ただい……え!? どうしたのよ、ランプもつけずに」


 真っ暗な室内で、隅に蹲るアサヒの姿。その背中は微かに震えているように見えた。


「大丈夫? どこか痛いの?」

「エ、ル……」


 慌てて駆け寄り呼びかけると、アサヒは顔を上げて名前を呼ぶ。その声は先ほどよりもか細く弱弱しい声だった。そして、塞き止めていた何かが壊れたように、一気に感情が溢れ出す。


「ごめん、なさい、ごめんなさい……私、わ、たしっ」

「なに? どうしたの?」

「嬉しい、提案であることは、分かっているんです。みんなにとっても、良いことだと……でも、だけど……っ」

「……」

「無理、なんです。どうしても……どうやったって、無理なんですよ」


 アサヒから零れ落ちる言葉の断片で、何となくの事情を察したエル。震えるアサヒの肩を優しくその手で擦った。


「私はどうすれば、良かったのですか」

「……」

「不可能だと、分かっているのに、教えれば、良かったのですか。陸奥、さんのその理想が、彼を傷つけること、知っているのに」


 陸奥がしてくれた提案。異形たちにとって、嬉しい提案であることは間違いない。そのことをアサヒはしっかりと分かっていた。しかし、どうしても受け入れられなかった。胸が痛くて苦しくて仕方ない。


「どうしてこんなに、苦しいんですか?」

「気がついてないの?」

「何が、です?」

「あんた、泣いてるのよ」


 エルのその言葉で、初めて自分の頬が濡れていることに気がついたアサヒ。指で涙に触れて、不思議そうに眺める。


「エル、教えてください。どうしたら、涙は、止まるのですか」

「バカね、久しぶり過ぎて忘れたの?」


 エルはふわりと微笑むと、彼女の頬に両手で触れた。そして、その小さな指先で涙を掬う。


「全部吐き出すしかないのよ。悲しみも、憎しみも、苦しさも、恐怖も」

「……っ」


 アサヒから零れ落ちる涙と、止まらない感情を、エルはしっかり受け止めた。

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