第20頁 いつか
2月16日、正午、ひまわり畑。
「邪魔してごめんね。私は帰るわ」
「お気をつけて」
エルがひまわり畑から去り、僕は一人ぼっち。骸骨のお母さんを撃ってしまったあの場所に、いつものように祈りを捧げ、今日も元気に調査を開始しようとしていれば……
「っ……」
背中に突き刺さった視線。今までもずっと見られていたのだろうが、賑やかなエルが去り静かな空間が出来上がったことで、よりはっきりと自覚してしまう。
狐さんは、今日も居る。僕の背中側、南の方の木の陰に。
ひまわり畑に来たのは一日ぶり。一昨日にアサヒさんから狐さんの存在を聞き、昨日は彼女を避けるようにここに来なかった。逃げてしまった後ろめたさからだろうか。胸の奥の傷が、ズキンと音を立てて熱を持つ。
見つめてくれるその視線は、ポカポカとあたたかいはずのに、嫌な熱を含んでいるように思ってしまった。きっとそれは僕の罪悪感故の気のせいだと思う。だけど、本当に気のせい?
先ほどエルが語ってくれた、一緒に言葉を練習した異形。それは狐さんなのだろうか。届けたかった言葉は感謝や思いやりの言葉だと、僕は勝手に思っていた。けれど、それは恨み言や怒りの可能性もある訳で。
狐さんは、本当に……ただ挨拶がしたいだけですか。本当は僕に……
僕の想像が最悪な結末へとたどり着いた時、狐さんからの視線に耐え切れず、ひまわり畑を飛び出した。
※※※
どれくらい走っただろうか。どこまでもついてくるような視線と、嫌な考えを振り払おうと夢中だったから、自分がどこをどれだけ走ったのか分からない。だけど、いつの間にか……
「アサヒさんの、ログハウス」
僕の足は彼女の元へ向かっていたようだ。目の前には、相変わらず扉が開いたままのログハウスが。
トントントン
「アサヒ、さん……」
壁を叩きながら、小さな声で呼びかける。無意識のうちに、心が彼女に助けを求めたようだ。アサヒさんが答えを知っているとは限らない。だけど、今、無性に彼女の声を聞きたかった。
「はい。あ、陸奥さんこんにちは」
いつもと変わらない対応のアサヒさん。彼女の顔を見た途端、張りつめていた糸が、プツンと切れる音がした。
「教えてほしいことが、あるんです」
「何でしょうか」
「狐さんは……本当に僕に挨拶がしたいだけですか?」
前置きも何もかもすっ飛ばして、僕は消え入りそうな声で疑問をぶつける。いきなりの質問に答えてくれないかもと思ったけれど、アサヒさんは素直に答えてくれた。
「そう言っていましたよ。何かあったんですか?」
「本当は……本当は、何か他に伝えたいことがあるんじゃないですか」
「どういうことですか?」
「あの日、僕が骸骨のお母さんを撃ったあの時……狐さんは近くに居たんじゃないですか?」
狐さんの存在を知って、『毎日のようにここに来ている』というアサヒさんの言葉を聞いて、最初に思い浮かんだのはそのことだった。
狐さんがあの時近くに居たのだとすれば、僕は彼女に相当の恐怖を与えてしまっているはずだ。どれほどの恐怖を感じたことだろう。見つかったら自分も撃ち殺されるのではないかと、生きた心地がしなかったに違いない。
それに僕が撃ったあの一発は結果的に骸骨のお母さんの足に命中した訳だけど、狐さんを貫いていた可能性だって否定できない。あの小さな命を、僕がこの手で撃ち殺していたかもしれないんだ。
「っ」
そう考えると、胸が苦しくて仕方なかった。
いつも木の陰に隠れこんで、僕を見つめている狐さん。彼女は本当に、挨拶をしたいだけですか。本当は……何か違うことを伝えたいのではないですか。彼女からの視線を感じる度に、胸の奥にある傷が疼いて仕方ない。
「僕にどこかへ行ってほしいと、願っているのではないですか」
想像もできないほど大きな恐怖を与えた存在の僕が、毎日のように自分の大好きなひまわり畑にやってきているという、今の現状。耐えがたい苦痛を僕は狐さんに与えているのではないだろうか。
「いつか復讐をしてやると、怒りに燃えているのではないですか」
彼女にとって、僕は殺人未遂犯だ。傷を負わされた仲間のことを想い、その仇を打とうとタイミングを見計らっているのではないだろうか。
狐さんはいつも僕の背後から視線を投げてくる。それはいつでも後ろから襲い掛かってやれるんだぞという、無言のメッセージなのではないだろうか。
「僕のことが憎くて憎くて仕方がないんじゃ……」
「陸奥さん」
優しい声音で呼んでくれた僕の名前。彼女の表情を伺えば、声の通り優しい瞳で微笑んでくれていて。
「いつか狐さんに直接尋ねてみてください。だけどきっと陸奥さんが思っているような言葉は出てきませんよ」
あたたかく告げられたその言葉に、僕の心から不安の靄が消えていくようだった。
はっきりと僕の言葉を否定してくれた訳じゃない。だけど、彼女には僕には聞こえない言葉が聞こえるのだろうか。彼女には僕には見えない何かが見えるのだろうか。分からない、分からないけれど、アサヒさんの緑色の瞳は、どこまでも澄み切っていて。単純に僕を慰めるためだけに繕ったその場限りの言葉ではないと、それだけははっきりと分かった。
「ありがとう……ございます」
アサヒさんの言葉を胸に刻み込みながら、僕は頭を下げる。
いつ、狐さんと話ができるだろうか。狐さんは、以前エルと共に言葉を練習した異形なのだろうか。彼女が言葉を話せても、話せなくても、狐さんが紡いでくれる心はどんな形をしているんだろう。
彼女ときちんと対面するその瞬間は怖いけれど、アサヒさんのおかげでその恐怖が少しだけ薄らいだ。
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