第19頁  無駄ではないですよ

 2月16日、午前10時、ひまわり畑の手前。


「陸奥」

「あ、エル。おはようございます」


 僕がひまわり畑に向かっている途中、ふわふわと優雅に飛んだエルが。そして昨日の今日なので、一瞬エルの背後にゴリラの顔が頭に浮かんだのは仕方がないと思う。表情に出なかった僕を誰か褒めて。


「なに?」

「ナンデモナイデス」


 いや、ちゃっかり表情に出ていたらしい。ごめんなさい。女性に対してゴリラを想像してはいけないよね。大変失礼いたしました。これ以上失礼がないように、僕は慌てて話題を振る。


「ひまわり畑に食事に行くんですか?」

「いいえ。暇だから、陸奥をからかいに来たの」

「……さいですか」


 堂々と仕事の邪魔宣言をするエルに、僕は苦笑いしか返せない。そして、目の前にはもうひまわり畑。ほんの少しだけ、胸の奥にある傷が疼いた。


「綺麗なひまわり畑よね」


 うっとりと、囁くようにエルが告げる。彼女の言葉に誘われて、目の前の景色をしっかりと瞳に映せば、真っ白な雪の世界の中に広がる、黄色の花たち。幻想的で、儚くて、とても綺麗な光景。


「綺麗ですよね。夏のひまわりとはまた違った雰囲気があります」

「そうね。周りの景色が違うだけで印象は変わるわよね」

「柵の向こう側にもひまわりの花は咲くんですか?」

「咲くわよ。向こうのは夏が終わると枯れるけど」


 ほぉ、てっきり向こう側のひまわりも一年中咲くとばかり思っていた。この謎の超常現象に異形が関わってくると予想していたのに、向こう側のひまわりが枯れるのなら無関係なのかな。


「境の奥ってどんな感じなんですか?」

「こっち側とあまり変わらないと思う。ただ人間がいないだけ」


 こちら側から、人間だけを消した世界。

 向こう側の異形は鉛の恐怖に怯えることなく暮らしているのだろうか。自由に大地を駆け巡り、日常を送っているのだろうか。

 窮屈なこちら側と、自由な向こう側。人間がその要因になっているという事実に、堪らなく悲しくなった。




※※※




「エルはアサヒさんと住んでいるんですか?」


 エルがひまわり畑を飛び回り、僕が調査を進める中、ふと思い出して話題を振る。彼女たちが再会する時、たしか『こんなに早く来ると思っていなかった』とアサヒさんが言っていた。


「今はアサヒの所に遊びに来てるだけ。私は普段境の奥深くに住んでる。でもしばらくはこっちに居るから、安心なさい。陸奥も寂しくないでしょ?」

「しばらくって、一カ月くらいですか?」

「一年か二年かしらね」


 しばらく過ぎない? もうそれは居候と言うか、何というか。

 異形って長命だし、時間の流れの感覚が人間とは違うのかな。のんびりしていると言いますか……


「エルは何歳なんですか?」

「2000歳くらいかな」

「ふぉ」


 変な声出た。異形が長命だということは知っていたけれど、すごい大先輩だったのですね。幼い少女の見た目をしているせいか、エルは異形と言う感覚が僕の中で薄い。彼女の異形らしい部分と言えば、背中に生えている綺麗な羽根だけ。そして、あまり異形として意識できない一番大きな理由は……


「エルって異形ですよね?」

「何を当たり前のことを。空を飛べるミニサイズの人間が居ると思っているの?」

「いえそういう訳ではなくて。エルは他の異形たちとは違って、人間の言葉を話せるんだなぁと」

「あぁ、そういうことね」


 僕の言葉にエルは納得の声を漏らした。

 そうエルの扱う言語が、彼女が異形であるという認識を薄くしている最大の要因。今まで何人かの異形と出会ってきたけれど、エルのように言葉を扱う異形は一人も居なくて。なぜ彼女は言語を扱えるのだろう。


「金属音の子たちも練習をすれば、私みたいに話せるようになるのよ。もちろん長い時間はかかるけれど」

「どのくらいの時間がかかるんですか?」

「私は音を発音できるようになるのに、100年。単語を話せるようになるのに、400年。今みたいにスラスラと話せるようになるには、そこから1000年くらいかかったかしら」

「ふぉ」


 また変な声出た。つまり彼女がここまでの言語能力を習得するまでに、合計1500年かかったということか。僕には想像もできない長い道のり。

 彼女はまず『あいうえお』の音を発することからのスタート。元々異形の口や喉は言葉を話すような作りをしていなかったのだろう。普段とは異なる動きをすれば、口や舌は疲労するし、喉を傷めることもあったかもしれない。金属音を奏でるだけの喉が、言語を習得するのには、途方もない労力と根気が必要だったはずだ。だけど……


「どうして、言葉を話したいと思ったのですか?」


 僕の中に芽生えた純粋な疑問。険しく果てしないその道を、彼女はどうして歩こうと思ったのだろうか。


 エルたちにとって、人間の言葉を話せなくても生活する上で特に不便は感じないはず。彼らの共通言語は金属音なのだから。人間と全く出会うことのない境の奥に住んでいるのなら、尚更習得する必要はないだろう。

 それにもかかわらず、1500年と言う気の遠くなるような時間をかけて、習得した言葉。それだけの労力を注いだ理由は何なのか。


「……」


 ちらりとエルの顔を伺えば、彼女は遠くを見つめながら寂しそうな顔をしていた。捧げた1500年の時を振り返っているのだろうか。

 そしてじっと彼女の言葉を待っていると、エルは小さく微笑んで紡いでくれる。


「成り行きだったの。言葉を習得したい子が居て、その子の練習相手になっていたら、自然と私も話せるようになっていたわ。その子は……人間にどうしても伝えたい言葉があったのよ」


 伝えたい言葉。その言葉を伝えるために、1500年の年月を捧げた異形。伝えたい言葉は、届いたのだろうか。

 しかし……エルの表情から考えると、きっと言葉は届かなかったのだと思う。異形と人間の間で流れる時間の長さが、違い過ぎて。異形が努力し続けた果ての未来に、言葉を届けたかったその人は、既にこの世に居ない。


「必ずしも努力が報われるとは限らない。無駄だったのよ、最初から」


 今にも泣き出しそうな顔で唇を噛んでいるエル。

 長年の努力が報われなかったその時、襲い来る絶望はどれほど大きかったのだろう。ようやく伝える術を手に入れたのに、伝えたい人には届かなくて。悔しさ、虚しさ、腹立たしさ、いろんな感情が押し寄せて来たに違いない。「無駄」だと、そう言い切る彼女の姿が、とても痛々しくて、苦しくて。だけど……


「無駄なことなんてないですよ」

「……」

「だってエルは、今、僕と話が出来ているじゃないですか」


 告げたその言葉で、エルが驚いたように目を見開き、僕を見つめる。迷子の子供のような瞳で見つめる彼女に、僕は優しく微笑んで言葉を紡いだ。


「エルが練習をせず、金属音しか話せなかったら、僕は今あなたと会話できていません。さっきみたいに、このひまわり畑の綺麗さを共有することはできなかったんです」


 僕だけじゃない、アサヒさんとだってそうだ。まぁ、アサヒさんは金属音でも言葉を理解できるみたいだけど。僕たち三人で仲良く話ができるのは、エルが長い年月をかけて努力してきた成果。


「だから、何一つ無駄なことなんてないんですよ」

「……その言葉、あの子にも聞かせてあげたいわ」


 ぷいっと顔を背けながら呟いた。照れているのか、喜んでいるのか。分からないけれど、彼女の中に僕の言葉はきちんと届いたような気がする。


 エルと一緒に言葉を練習したのは、どんな異形だったのだろうか。そう考えて浮かんできたのは、僕に挨拶をしたいと頑張ってくれている狐の異形さん。もしかして、エルと練習したのは、狐さんだったりして?

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