第43頁 いかないで
「なん、で」
治療道具を何も持っていないアサヒさんの手。そればかりか、まるで時が止まっているかのように彼女は動いていなかった。息さえも殺して、ただそこに佇んでいるだけ。
どうして……なんでアサヒさんは治療をしてないの……あ、れ?
混乱する頭で状況を理解しようとしていれば、不自然な彼女の手元に気がついた。手のひらが上を向いているのだ。まるで何かを乗せているように、軽く指を曲げてお椀のように。そこに誰か、居る? 目を凝らしてよく見れば……
「bvuaie」
エルより一回りは小さいだろうか。10センチにも満たない体躯の存在が、アサヒさんの手のひらに乗っていた。右腕が二本、長い尻尾が三つ、頭には尖った角を持った小さな異形。その子が竜の異形に抱き着いていた。小さな手足を目いっぱいに伸ばして、身体全体で竜を感じようとしている。
「ughibuie」
耳を塞ぎたくなるほどの、悲しくて切ない声。僕には異形の言葉は分からない。だけど、今ははっきりと分かる。
『お母さん』
あの子はそう呼んだ。彼らは親子だ。身体の形も大きさも全く異なるけれど、異形にとってそれは珍しいことじゃない。
「hgu4,ar,ihb/,」
「guah、g9u 」
「9t4mbqt-」
「8vigi……enb、@」
「aihba@ivap」
続いていく親子のやり取り。穏やかな時間が過ぎていく。この瞬間がずっと続けばいいと、そう心から思った。だけど……
「……」
相変わらず動かないアサヒさん。子供を手のひらに乗せて、ただ彼らを見つめている。僕の居る位置から、彼女の表情は見えない。でも、見えなくても分かった。あの空間には身体が張り裂けそうなくらい、悲しい感情が渦巻いている。
「まさか」
その空気で悟ってしまった。彼女の意図を。僕は慌てて口を押さえる。呼吸を殺して気配を消した。
「u0……h、9.@」
「bapid」
「b……anb…」
「nsibe」
「……@ab、j」
「ks#j6j2w-mbsdj」
「mj…k&6……c」
『大丈夫』
『私は平気だよ』
『だから心配しないで、お母さん』
そう伝えているように聞こえた。あの子から紡がれる感情が胸に刺さって苦しい。声が漏れないよう口を硬く結び、嗚咽を押し殺す。
「wgdpj.d」
「mg」
「f72~hotpm」
「a……stp」
「64lrjgw/」
「s……i、j」
「cb5j.um」
「……」
「2%a9l2wm」
「……」
「……jqj,ntp」
母親の声が徐々に小さく、瞳から光が消えていく。そして……
「mt……ai,u%m」
その言葉を最後に、母親から力が抜けた。安らかな笑顔だけを残して。
「m……jg,_mv5~m」
それと同時に子供の異形から、堰を切ったような泣き声が響いた。
ずっと我慢していたのだろう。自分を残して逝く母を心配させないよう、最期の瞬間まで笑顔で見送った。
やりたいことがあっただろう。やってほしいこともあっただろう。これからもずっと長い間、一緒に居たかったことだろう。大好きも愛しているも、何度も何度でも言って欲しかったのに。
「っ……」
もう、叶わない。何一つ叶うことはない。後悔も無念も全部を飲み込んで、最期の瞬間まで笑顔を向け続けた親子。お互いを思い合う立派な姿に、熱い想いが込み上げる。
「……」
そして今まで動かなかったアサヒさんが、ようやく動き出した。開いたままだった母親の目を静かに閉じ、鞄の中から治療道具を取る。
彼女が今まで動かなかったのは、親子の最期の時間を守りたかったから。アサヒさんは母親を見た時からもう……助からないことを悟っていたんだ。だからせめて治療に伴う苦痛がないように、最期の体力を愛する子供へ注げるように、彼女は動かないことを選んだ。
「tpng……pAj、m、gwpjgj.5、76」
子供の異形の泣き声が静かな山に響き渡る。なんで……どうしてこんなことが起こるんだ。あの親子は何か悪いことをしたか? こんな酷いことをされなくてはいけない存在だったか?
雪がチラチラと舞う白の世界。地面にあるのは三つの足跡だけ。一つは僕、一つはアサヒさん、そしてもう一つは……ハンター。
やっぱりあの異形は襲いかかっていないじゃないか。雪に形跡が残っていないのがその証拠。襲いかかろうと踏ん張った足跡も、切り裂こうとした爪の跡も何もない。綺麗な新雪の地面。
竜の異形は背中にたくさんの弾丸を受けていた。あの子を抱きしめて、盾になったのだろう。そんな無抵抗な相手を、あいつは撃ち抜いた。
「陸奥さん、どこに行くおつもりですか」
居ても立ってもいられなくて進み始めた僕の背中を、アサヒさんの声が刺した。
「村ですよ。さっきハンターに出会ったんです。彼をここに連れてきます」
得意げに話していたあのハンター。異形を殺すことが正義だと信じて疑っていないんだろう。そんなの間違っている。彼らは何も悪いことをしていない。
「連れてきてどうするんですか?」
「自分のしたことを思い知らせてやります。何の罪もない命を撃ち殺したという事実を」
「ダメです、行かないでください」
「止めないでください。僕は我慢できません、目の前でこんなっ……こんなひどいことを」
「ダメです」
「どうしてですか!」
「陸奥さん」
「何ですか!」
唐突に呼ばれた名前。視線を感じて、アサヒさんの方を振り返ると……
「ugspvs」
アサヒさんの手のひらには、異形の子供が。両手を胸の前で握りしめ、涙がいっぱいに溜まった瞳で、ふるふると首を振っていた。行かないでと、そう身体全体で訴えている。
「どう、して……」
今この空間で一番つらいのはあの子だろう。その子が、行かないでほしいと、願っている。痛いくらいの眼差しを受けて、僕は一歩も動けなかった。
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