第28頁 名前を思い出した感情
2月28日、午後5時、アサヒのログハウス。
「んー?」
おはようございます……じゃない、外では夕日が沈んでいくじゃん。あれ? 今日がもう終わってしまう。あれれ、どうしてこうなった?
僕がパチリと目を覚ますと、瞳に映るのは沈みかけの夕日と見慣れない天井。どこだ、ここ? 僕は何をしてたんだっけ。
まだぼんやりとしている頭を必死に働かせながら、状況を理解しようと努力する。ゆっくりと身体を起こしてみれば、そこに広がるのは見慣れた風景。あ、ここ、アサヒさんのログハウスだ。ん? アサヒさんのログハウス? え、なんで僕はアサヒさんの家で寝てるんだ?
「あ、陸奥さん。おはようございます。お身体大丈夫ですか」
僕が混乱していると、ティーポットを持ったアサヒさんが部屋に入ってきた。ポットからはホカホカと湯気が上がっている。
「え、はい、大丈夫です。あのアサヒさん、僕は一体……」
「かなり無理をされたようなので、もう少し休んだ方がいいと思います。どこか痛むところなどありませんか」
いえ、元気ですけども。痛い所も特にありませんが……それよりもあのいつも冷たいアサヒさんがとっても優しいことが気になるのですが。どうして? 僕何かした? え、何かしてしまいました?
「陸奥さん?」
僕が急に黙ってしまった故だろう、アサヒさんは心配そうに僕の顔を覗き込む。ひぇ……なんで今日はそんなに優しいんですか。
本当に何をしたんだ、何をしてしまったんだ、僕は。分からない。アサヒさんが優しい理由も、僕がここで眠っていた理由も、何もかもが分からない。どういう状況なのこれは、誰か説明してほしい。
「あー! 陸奥起きたのね、おはよう」
「お、おはようございます」
「もう! びっくりするじゃない。あんたいきなり倒れたのよ、ひまわり畑で」
「へ……」
ふわふわと飛びながらやって来たエルの言葉で、一気に記憶が浮かび上がってくる。
そうだ、思い出したぞ。確かひまわり畑の調査をしていて、その最中にアサヒさんに出会って話をして……そこまでは覚えてる。それから倒れたのか、僕は。
「睡眠をあまりとっていなかったようですね」
温かい紅茶のカップを差し出してくれるアサヒさん。そうだ、やらかした、研究に夢中になり過ぎて睡眠を疎かにしてしまった。
「ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます」
僕は紅茶のカップを受け取りながら、頭を下げる。紅茶を一口含むと、優しい甘さが口いっぱいに広がって、次第に身体が温まった。
「研究熱心なのもいいですが、身体を壊したら大変ですよ」
「そうよ、もう二度としないでね!」
「はい、すみませんでした」
ぺこりと頭を下げながらも、二人の優しさが疲れた心に染み渡る。今日アサヒさんにいつものような極寒対応がないのは、僕が病人だからか。こんなに温かく接してくれるなら、毎日病気でもいいのにとかって思ってしまう。いや、ダメですね。心配かけてしまいますし、反省反省。
「そう言えば、アサヒさんが僕をここまで運んでくれたんですか?」
「はい、そうです」
ケロッとした顔で答えたアサヒさんだけど、結構すごいことだよね? 僕は小柄だけど、一応男だし、体重もアサヒさんよりあると思うんだけど。
前のケルベロスの時も思ったけど、力持ちだよね。細そうなのに、そんな力一体どこに……
「気持ち悪いです、人のことをジロジロ見ないでくれますか?」
大変申し訳ありませんでした。
今回は僕が全面的に悪いね。女性の身体に服越しとは言えど、不躾な視線を投げかけてしまった、僕が悪い。本当にごめんなさい。
……でも、『気持ち悪い』はちょっと傷つく。それにアサヒさん基本的に全身ローブで身体のラインとか分からないし、少しくらい見てても別にいいじゃん。それに部屋の中でもずっとマフラーに手袋。寒がりなの?
「アサヒさんって、いつも全身ローブにマフラー手袋の完全防備ですけど、寒がりなんですか?」
「……まぁ、そんな感じです」
ん? 何だか含みのある返答だけど、複雑な理由がありそう。男の僕が女性のアサヒさんに服のことをもう少し聞くと犯罪? やましい気持ちは全くないけど、犯罪になる? 通報? 逮捕? アサヒさんが嫌な気分になったら、多分犯罪成立だもんね。
それに『気持ち悪い』発言をされた直後だし、あんまり突っ込んだ質問をすると、僕が傷つきそうだから何も聞かないでおこう。今度聞けそうな機会があったら、聞いてみよう。うん、そうしよう。
僕は自分の中でそう片付けて、ズズーと紅茶をすすった。
※※※
「さて、出て行ってもらっていいですか? 私、暇じゃないので」
「……」
はい出ました。アサヒさんの極寒ブリザード対応。紅茶を飲み終わって、のほほんとしていた所、出てきましたブリザード。今日の僕は病み上がりだから、もうブリザード出ないと思っていたのにぃ。
今日までの付き合いで、少しは心の距離を縮めることができたのではないかと思っていたけど、まだまだみたい。僕としては、もう少し仲良くなりたいなと思うんだけど、時間がかかりそうだ。
そして、今日僕は新しい作戦を実行する。その名も『押してダメなら引いてみろ』大作戦。と、いうことで……
「はい! ご迷惑をおかけしてすみませんでした。お邪魔しました」
本当はもう少しゆっくりしたいなあと思うんだけど、倒れて迷惑もかけてしまったしね。今日は大人しく帰ります。
※※※
「珍しく素直に出て行ったわね」
「そう、ですね」
陸奥が去ったログハウス。普段の彼なら紅茶おかわり一杯分くらいは粘りそうな所ではある。それなのに彼らしくないその行動。アサヒはポカンと眺めていることしかできなかった。
「なに、アサヒ? もしかして寂しかったの?」
「……寂しい?」
エルがニマニマとした笑みを携えながら、アサヒの周りをクルクル回る。自分はそんなことを思っていただろうか。アサヒは自分の胸に手を当て、考えてみる。言われてみれば、ポッカリと穴が開いたような心持がするような気もした。
そしてエルの言葉を聞き、アサヒの胸の中の感情が名前を思い出した。
「確かに、寂しいのかもしれませんね。ひさしぶりです、この感じ」
久しく感じていなかったこの気持ち。名前を思い出すのに時間がかかってしまったが、この感情の名前は『寂しい』だったような気がする。
しかし、感情自体は悲しいはずなのに、彼女の表情はどこか嬉しそう。
「……あんたまで素直にならないでよね」
アサヒの予想外の反応に、エルはつまらなそうに舞い降りた。
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