第47頁  もう戻れません

「アサヒさん」


 僕は流れるままだった涙を拭いて、彼女の名前を呼ぶ。


「僕は、こんなに優しくて素敵な光景を作ってくれる彼らを、きちんと世界に知ってほしいです」


 不気味だと言って、恐れる声も多いけれど、あの空間に悪い感情は一つもない。あるのはただ、優しさと思いやりの感情だけ。

 もしかすると世界各地で頻発している超常現象も、異形が誰かを思いやる優しい感情から出来上がった物ではないだろうか。

 こんなにも素敵な景色が誤解されているままなんて、もう僕は我慢できない。


「協力してくれませんか? 異形たちのことを世界に正しく認識してほしいんです」


 以前断られてしまったこの問い。だけど、やっぱり諦めることはできなくて。異形たちと触れ合えば触れ合うほどに、今の現状が苦しくて堪らなかった。もう、無害な彼らが傷つくところは見たくない。


「お願いします」

「……」


 深々と下げた僕の頭に振ってくるのは、重々しい沈黙の空気と……









「お断りします」


 彼女からの無機質な拒絶だった。以前と同じ、何の感情も乗せずに放たれた言葉。ふと視線を移すと、その手は小刻みに震えていた。まるで何かに怯えているかのように。


「世界はもう、形を決めてしまったんです。異形を駆逐する形に」


 昨日も告げられたその言葉。アサヒさんはきっと世界と戦ったことがある。そして負けたんだ。だけど……


「何をしても変わらないんです。陸奥さんが訴えかけても、ただ傷ついて終わるだけ」

「傷ついたって構いません。それでも僕は、この世界を変えたいんです、異形に怯え続けているこの世界を、異形が怯えているこの世界を」


 溢れ出しそうな感情を必死にこらえ、僕は彼女に訴える。


 また負けるかもしれない。だけど今のままは嫌なんだ。僕はアサヒさんに出会うまで何も知らなかった。こんなに綺麗な景色があったことにすら、気がつかなかった。

 ううん、違う、見ようとすらしていなかった。見たくない物から目を背けて、勝手に悪だと決めつけて、銃口を向ける。もうそんなことはしたくない。


「簡単なことではないと思います。でも、できるはずです、だってこれが真実なんですから」


 僕自身、最初は信じられなかった。だけど、現実はそのままで。信じるしかない事実が僕の前に並べられた。どれくらいの時間がかかるか分からない。でも必ずこの真実は届くはず。


「彼らの声や心が届けば、変わると思うんです」

「……っ」


 僕の言葉に反応して、アサヒさんの肩が揺れた。そして今まで恐る恐るといった様子で僕を映していた瞳が、黒く濁り出す。まるで池に投げ込まれた石が、奥底へと沈んでいくように、ゆっくり、ゆっくりと。


「……本当に変わりますか?」

「え……」

「無害だから撃たないでほしいって、助けて欲しいって言えば、助けてくれますか?」


 瞳の濁りに呼応するように、アサヒさんの口から言葉が出てくる。その言葉たちは普段の声音よりも低い温度で奏でられた。その温度の無さに息が詰まるのを感じる。


「この世界には、感情だけではどうにもならないことがあるんです。どんなに願っても、どんなに信じても、現実は変わらない。変えられないんです」

「アサヒ、さ……」

「助けてほしいと伸ばした手も、ここに居るよと叫んだ声も全て拒まれました。何度も何度も何度も何度も。それでも今回こそは違う結末かもしれないと抗いました。その度に傷ついて、絶望して、それの繰り返し……もう、疲れたのです」


 塞き止めていた物が外れたように、溢れ出てくる感情たち。打ち明けてくれるアサヒさんは、今にも泣き出しそうな顔で、ひどく苦し気だった。


「……1500年です」

「え?」

「1500年かけても、何も変わらなかったんです。それだけの年月をかけて叶わなかった願いが、これから先の未来で叶うと思いますか?」


 真っ黒に塗りつぶされた瞳。それは、彼女の告げた1500年の道のりを表しているようで、どこまでも続く闇の世界に息が詰まった。


「愛してほしかったんです。ただ、存在を認めて抱きしめてほしかった。それだけなんです……それだけ、なのに、誰も、叶えてくれません」

「……」


 震える声でそう告げるアサヒさん。今にも壊れてしまいそうな彼女の儚さに、つい手が伸びた。


「近づかないでください」


 しかし、手を伸ばしかけた瞬間に、鋭い声が僕を刺す。


「こっちに来ないでください。それ以上は戻れなくなります。なかったことにはできないんです」

「アサヒ、さん」

「陸奥さんがたくさん考えてくれること、すごく嬉しいです。だけどお願いです、お願いですから、もう……」


 そしてポロリと一粒の滴が彼女の頬を伝った。


「放っておいてください」


 その言葉を最後に、アサヒさんはクルリと向きを変え、部屋を出て行こうとする。瞬間、彼女が消えてしまいそうな気がして。もう一度彼女へと手を伸ばした。


「待ってください、アサヒさん。そんな状態のあなたを放っておける訳ないじゃないですか」


 離さないようにギュッと、彼女の手を取った。だけど……


「あぁ、とうとう触れられてしまいましたね」


 彼女の放った言葉に底知れぬ恐怖を感じた。ゆっくりと振り返ったアサヒさんは、寂しそうな顔をしていて。どうしてそんな顔をさせているんだろうと思ったけれど、握った手のひらの感覚でその答えが分かった。


「だから忠告したのに、戻ることはできないと」

「アサヒさん……なんで」

「でも、あなたは止まらないだろうと思っていました」


 どうして、なんで……彼女に聞きたいことはたくさんあるのに、思うように言葉を紡げない。僕が何も言えない間にアサヒさんは話を進めてしまう。


「先ほどの質問、あと半分をお答えします。あのひまわり畑が作られた理由を」

「……」

「私も好きなんです、ひまわりの蜜。でも、一人で食べるのも寂しいので、一緒にとお願いしました。だから願いをあえて言葉にするのなら『異形みんなでひまわりの蜜を楽しめますように』でしょうか」


 掴んでいたアサヒさんの手が、するっと僕の手から落ちる。そして今まで頑なに取らなかった手袋とマフラーを外し始めた。一つまた一つとゆっくり外されていく。


「陸奥さんは以前、私を綺麗な人だと言ってくれましたが……」


 全てを外し終わった後、彼女は顔の左半分を隠していた前髪をかきあげて問いかける。


「この姿を見てもまだ、綺麗なと言ってくれますか?」

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