四章 まよいが 一
「てめえ! この人殺しめ」
その場を立ち去ろうとする純有の
「手を放してください」
「放せるか! 警察に突きだしてやる。人を
「人は刺していません」
「しらばっくれるな。俺はこの目で見てたんたぜ。悪党が」
「あれは人ではありません。あやかしです」
「
「あなたこそ大丈夫でしょうか? わたしが忽那青紀を刺したと
胸ぐらを掴む力が
「あれは……いや。まさか。あんなのは、
「あやかしです」
手を放させると、純有は乱れた
「忽那先生が? まさか。
笑おうとした龍介に、純有は
「では、あれはなんだと?」
龍介は
「あやかしなのです。
きびすを返して歩き出そうとした純有の背に、龍介の低い声が当たる。
「いや、あんたは悪党だ」
悪意のこもる言葉を、無視しようと思えば無視できた。
だが「悪党」呼ばわりは聞き捨てならない。純有は人の世の
「事実を理解していないのですか?」
ふり返ると、龍介の
「理解してるさ。忽那青紀はあやかしかもしれねぇし、あの
「それを理解しているのなら」
「だからって、忽那青紀を刺したら悪党だろうが」
「あやかしです」
「あやかしでも、人でも、あの先生やあの娘が、あんたや世間様に何かしたのかい。俺には何をしたようにも見えなかった。それを刺すのは悪党だ」
「あやかしは、人と
「人間の中にもなぁ、
相手の言葉を意図的に
「時には、そのような人もいるでしょう」
「だったらあんたは、人も刺すわけか」
「刺しません。人とあやかしは
「どう違うよ」
「あやかしは人に害をおよぼすと、先ほど」
「全部のあやかしが、そうなのかい!? 全部の人間が善人じゃないのと同じで、全部のあやかしが悪さするってわけじゃねぇだろ。それとも、全部が全部悪いのか。俺は忽那青紀に仕事を頼まれて、ちゃあんと
「それは」
反論を試み、純有は言葉を探しあぐねた。
──あやかしは人に害なす存在
──あやかしは滅すべし
──焔一族は、人でありながらあやかしの力をあやつる、
──焔一族は
妖狩寮の律の中に言葉を探そうとした。
しかし龍介の言葉を
「これ以上、悪党と話なんかできねぇ。口が
「ぼんさんの、負けや」
ふいに頭上から聞こえた、幼い女の子の声。
純有は錫杖を構えて飛び
寺の
「あやかし」
「せや。人から
気負わず答えた女の子はにかっと笑う。
「うちは、人に悪させえへんで。
「座敷童か」
あやかしの正体を察し、純有は構えをとく。
「あやかしでも、うちは悪させえへんよ」
「あなたは
「うちのことは刺せへんの」
「あやかし
「せやから、ぼんさんの負け。悪さするのは、あやかし全部ちゃうやんか。あの兄ちゃんのが正しいで」
純有は
「わたしは、妖狩寮の律に従っているのです。天子様をお護りするために存在する我々は、天子様の律に従っている。それが間違いだと? 律はあなたのような例外のことを、事細かく定めていないだけで、間違いではないのです」
「きまってないことが、あるんやね。それは大変や」
何が大変なのだろうかと問い返す前に、座敷童は枝の上に立ち上がると、
「ええやろ。
急な話題の
「ええ、可愛いですね」
「これ、ぼんさんが殺そうとした姉ちゃんが着せてくれてん」
そこで座敷童は、その幼い姿にそぐわない理知的なものを
「ぼんさん。よう、知っとき。お天道様だって間違うことはあるんよ。姉ちゃんよりも、退治せなあかん
とんと枝を
(お天道様が間違う?
見送った純有の胸には、不快感に似た得体の知れないものが
(しかし聞き捨てならないことを言っていた。五人も殺した異形の者がいると)
大政
それを妖狩寮という。
陰陽師のみならず、
純有も、番犬の一人だった。
◆◆◆◆◆◆◆
「わーん! 青紀様、青紀様!
「……
血まみれで家に
佐名を
「茶釜。
泣きながらも茶釜は「はいっ!」と勇ましく返事をし、駆けだす。
なめらかな
茶釜が用意した湯に布をひたし、血を
傷の大きさはさほどではないが、深そうだ。傷の近く、胸の下辺りには古い
「こんな傷を」
思わず声が出ると、茶釜が佐名の手元を
「それは十五年前の傷だと聞いてます。命に
自分を
(十五年前?)
思い出すのは、四歳の佐名の前に青紀が現れたときのこと。彼は血にまみれていた。
(まさかあのとき)
あのとき、いったい何が起こっていたのか。それについて考えを
血は止まっているらしかったので、傷口に布を強く押し当て、茶釜に手伝ってもらって包帯を巻く。
傷を洗う間、青紀は痛そうに顔をしかめていた。されるがままに包帯を巻かれ、
長い
「茶釜。お医者様は来ないの?」
「ぽん。昔はあやかしを
しょんぼり
「でもでも。へっぽこでも、ぽんこつでも、青紀様は青紀様ですから。死にはしません。大丈夫です。そんじょそこらの、
彼の額に手を
真夜中を過ぎる
(わたしのせいだ。あの純有という
申し訳なさがこみあげて、いたたまれない。今すぐ言葉を
(
出て行くなら首を
青紀は、佐名を喰うつもりなど毛頭ない。喰うの噛みちぎるのと口にするのは、ただの脅し。心にもないことなのに、佐名をこの家につなぎ止めるために口にしていたのだろう。
そのやり方は、ひどく不器用だ。
(あやかしだからなのかな?)
(この人の目が覚めたら、ちゃんと話を聞くんだ)
だが、こうして傷を負ってまで佐名を護った姿を見せられては、
(お願い。目覚めて)
青紀の手を持ちあげて、両手で
純有というあの僧侶は、なぜこんな
堂島から逃げ出した日、佐名の姿を見かけた彼はこちらに手をさしのべ、助けようとしてくれた、と思う。
しかし次に出会ったときには、怖い目をして追ってきた。
そして今日は佐名を焔一族と呼び、殺そうとまでした。
焔一族とは、何か。そしてなぜ純有に命を狙われるのか。
疑問が多すぎる。
ランプの
◆◆◆◆◆◆◆
青紀は夢を見ていた。
二百年前の夢だった。この地がまだ江戸と呼ばれていた頃の、遠い昔の
──はぐれ者同士よね、わたしたち。
江戸の町で出会った少女はそう言って、傷ついて動けなかった青紀──そのときは、また別の名だったが──に手をさしのべた。「家を作らない?」と彼女は
彼女の名は、
生を受けて百年。術者に故郷を追われてから、あのときにようやく安らげる場所を得た。
(菖蒲)
菖蒲と作った家を護り続けたい。それが青紀の願いであり、そして護り続けることが菖蒲との約束だ。彼は何人もの
あれから何人もの主に仕えてきたが、菖蒲ほど青紀を安心させてくれる主はいなかった。特別に印象深い主もいなかったのだが。
佐名。
十五年間、
必死に捜して、見つけた。しかし見つかった主は、青紀を安心させてくれるどころかますます不安にする。
(あれは、ただの人間の
主としての
それを見ると、胸がざわざわした。
そのときふと、自分の
自分の傍らに丸まっている、佐名の姿があった。すやすやと眠るその顔は幼く見える。
(わたしのそばに、主がいる)
青紀を不安にさせても、
「佐名」
名を呼んだ。
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