三章 探偵と僧侶とあやかしと 三
闇雲に走り、
(
青紀が追ってくる気配はない。
十五年前母親は家を出て、佐名を浅草に置き去りにした。そのうえで、自分の代わりに佐名を家の
佐名をさらってあの家の主になれと強要するのは、あやかしにそれを許した、母親にこそ責任がある。
(いやだ、やめよう、考えるのは。とにかく、あやかしのもとから逃げ出せたんだから)
頭を
日曜日の朝とあって、浅草オペラの
(それよりも、堂島にいる異形の者をどうすればいいのか、考えよう。知ってしまったんだから放っておけない。まずは、あの
路面電車が通り過ぎざま巻き起こす風を
「番地を覚えておけば良かった」
昨日、桂川龍介が差し出した
路面電車の軌道に面した七軒町
それから随分とうろついて、お昼を過ぎてしまった。
朝から何も食べていなかったので、
(探偵? これ、まさか)
見上げると二階の窓に張り紙があり、「桂川探偵事務所」と書かれていた。雑すぎる事務所に
蕎麦屋はひっそりしている。お昼を過ぎて、人の出入りが絶えたのだろう。
引き戸を開けて中を
階段を上がりきった所にある板戸の前で、声をかける。
「桂川さん。こんにちは。
「野村佐名!?」
中からどたんと重いものが
「よう、お
「お願いがあるんです。話を聞いてもらえませんか」
「なんの話だか知らねぇが、喜んで。しかし、ここじゃなんだ。近くにミルクホールがある。ついて来な」
龍介は先に立って階段を下りる。佐名は
ミルクホールに入ったのは初めてだった。
それでも一見
店内には、学生や若い婦人たちの姿がある。さして混んではいない。
温めたミルクは一
龍介はおごりだと言って、ミルクとコーヒー、さらにカステラを二つ
「さて、さて。昨日はとっとと逃げたお嬢さんが、今日は俺にお願いがあるって?」
一口コーヒーを飲んだ龍介は、
温かなミルクは、空腹の身には甘くて
「知っていたら教えてほしいんです。堂島琢磨がどういう
「逃げ出した、
「堂島家に関して、堂島の人に伝えなければならないことがあるんです。あの家にとって、とても大切なことです。堂島琢磨が人の話をちゃんと聞いてくれる、考えが
「伝えなければならないことってのは、なんだい」
「それは……あなたに言っても信じてもらえない」
口ごもると、龍介は
「俺が信じないことを、堂島琢磨が信じるって?」
「人柄によっては、聞いてもらえるかも」
「やめときな。とっ
龍介は当然のことを言っていて、佐名もわかっている。わかっていても放置できない。
「それでも伝えなきゃ。わたしが助かっても、次にお
「断言できないだろ。六人目の嫁は達者に暮らして、大往生するかもしれねぇ」
「いいえ。絶対に死ぬ」
コーヒーのカップに
「あんた、堂島の嫁が次々に死ぬ原因でもわかったのか?」
「信じてもらえません、きっと」
「へぇ。て、ことは。あんたが堂島琢磨に伝えなければならないことってのは、次々に嫁が死ぬ原因だってことだ。それを堂島はわかってない。けど、あんたはわかった。そういうことか」
察しがいい。
「よぉ、取引しないかい」
「わたしとですか? どんな?」
「俺は今、三つのゴシップ雑誌から忽那青紀の家を調べる
「ゴシップ……
龍介が佐名に声をかけ、青紀の家の場所を聞き出そうとしたのは、そんな理由だったのか。しかし彼は呆れた人だが、勘は良い。確かに忽那青紀を怒らせたら、命を取られかねない。
「ま、それでだ。ゴシップ誌からの依頼を中断するにしても、相手さんには別のネタを差しあげなきゃ、今後仕事を回してもらえなくなる」
そこまで聞くと、龍介が何を言いたいのかわかった。
「堂島の嫁が次々に死ぬ原因をわたしから聞き出して、忽那青紀の情報の代わりに雑誌に売りつけるんですね。堂島骨董商会は東京市中じゃ三本の指に入る
「ただとは言わない。ネタが売れたら礼金は三分の一やるよ。それに堂島琢磨の人となりや、
(お金。必要だ)
佐名は一文無しだ。上方に
面白いネタなのは確かだ。ゴシップ誌の記者は、その話を信じようと信じまいと、面白おかしく、おどろおどろしく書きたてるはず。堂島家の尊厳は
五人の嫁を殺した家だと思えば、
「すみません。それは、できません」
佐名は立ち上がった。
「自分でなんとかします。ミルクごちそうさまでした。美味しかったです」
頭を下げると、ミルクホールを出た。
「おい、待て待て」
「どうする気だ、あんた。堂島琢磨の情報、知りたくないのか」
「知りたいです。でも堂島のことをゴシップ誌には売りたくないです。自分でなんとかして、人が死ぬのを止めます」
「まさか堂島琢磨に会いに行く気か。言ったろ。簀巻きにされるぞ。俺に情報を売る気がないのは、それでもかまわねぇが、
「忽那青紀の家は出てきました。もう、関係ありません。それに堂島を
「さっそく先生と
からかう声を無視して、足を速めた。龍介は
「どうして絶対に死ぬって言えるよ」
「知ってるから。原因を」
「それなら警察にでも
「訴えても信じてもらえない。だから自分でなんとかするしかないんです」
「絶対に死ぬのか」
「絶対です。そうじゃなきゃ、こんなことしてない」
「まったく、よぉ」
頭を
「何するんですか」
「わかったよ。話してみろ、堂島の嫁が死ぬ原因ってやつを」
「売るんでしょう」
「売らねぇよ。あんたを手助けできるかもしれねぇから、聞くんだ」
「手助け? 話を売るって言ってた人が、
「変えてねぇ。俺の信念は、取れるときにゃ迷わず金を取る、だ」
胸を張り、
「今は『取れるとき』じゃ、ないかもしれねぇ。あんたのその様子じゃ、破れかぶれで堂島琢磨の所へ乗り込んじまうだろうが。それで簀巻きだ。
龍介の表情にふざけた様子はなく、
(そういえば、この人)
彼は青紀からの依頼を終えた後、やろうと思えば、堂島に佐名の居所を教えることも可能だったろう。
それどころか佐名に、堂島家に行くのは
ある種の筋は通す人かもしれない。
そのとき。
しゃん、と。金属が
音と同時に、遠く聞こえていた路面電車が
顔色を変えた佐名に、龍介が首を
「おい、どうした急に」
「その
冷たい声が聞こえた。佐名の背中に当たるのは殺気。
龍介は
「この子を口説いてる
おそるおそる、佐名はふり返った。
五間ほどの
「離れなさい。用があるのは、そちらの娘です」
「横取りかい? そりゃマナー
「離れなさい。でなければ巻き
僧侶が錫杖を軽く一回転させると、
「坊さんのくせに
「どうぞ。ただ
龍介の表情が
「あんた誰だ」
「妖狩寮
純有というのが僧侶の名だとわかったが、彼が名に
「あなたは焔一族だな」
僧侶、純有が佐名に視線を
「焔一族?」
「知らないのですか」
純有はすこし
「知らなくとも
「あやかし? 何言ってるんだ坊さん。
龍介が
「いちいち、うるさい。口を閉じなさい。そして離れなさい」
「どっちも
「では──どうなっても知りません!」
鋭い風だ。錫杖を構えた純有は身を低くし、黒い
それが
きんと耳鳴りに似た音。水晶の槍が佐名の心臓に突き込まれる寸前に、目の前の空間が
景色が破れた。そんなふうに思えた。
純有の槍先がわずかに
自分の体が背後に移動したのだと、咄嗟にわからなかった。全身を包む甘い
(
体を
佐名は悲鳴を
青紀は佐名を
純有は錫杖を回転させ、構え直す。
「……血が……」
それだけ声に出せたが、ひどく震えていた。
「
ちらりと佐名を見た目に浮かぶのは、
青紀は再び純有に視線を据えた。血の気の
尻餅をついていた龍介も
「血、血だ。忽那先生、あんた、死んじまう」
純有は
「現れましたね、忽那青紀。驚きました。作家だとか?
「だったらなんだと」
「
ふっと、あやかしは鼻で笑う。
「なるほど。おまえに頭は必要ないらしい。そんな頭ならば、わたしが
「律にのみ
「
「侮辱ではない。事実おまえに、わたしとこの娘を滅する理由が、妖狩寮の律以外にあるか」
「律は必要だからこそ、あるもの」
「そこで思考を止めるなら頭は必要ない、と言ったんだ。
声とともに青紀が
再び耳鳴りに似た鋭く高い音がして、純有との間にある景色が歪む。
佐名の体を抱きあげた青紀は、信じられない
寺の本堂の屋根に着地した彼は、佐名を抱え、屋根から屋根へ軽々と飛び移って
目が回りそうだった。
激しく上下して
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