三章 探偵と僧侶とあやかしと 二


 しばしにらみあう。

 おそろしくて目をらしたくなったが、こらえた。ここで弱気を見せたら、佐名はあやかしに利用されるだけだろう。

「ここを出て生きられるのか」

「なんとかする。新しい奉公先を探す。筒乃屋も堂島も関係ない、上方にでも行って」

「奉公するつもりがあるならば、わたしの願いを受け入れても良くはないか? この家の主におさまって、主としての役目を果たせば同じではないか?」

「全然違う」

 きっぱり言った。

「あなたは『願い』と言ったけど、わたしを簡単に喰ってしまえるあなたの願いは、わたしにとっては『強要』になる。こわくてけして逆らえない者の下にいることは、奉公するのともおよめに行くのとも違う」

 養女とは名ばかりの奉公人として成長していく中で、あきらめるもの、なくすものは、たくさんあった。親の愛ははなからあきらめるしかなかったし、学校もしかり。未練がましくとっておいた四歳のときの着物は「古くてきたない」という理由で奥様に捨てられた。

 あきらめることを知り、なくすことに慣れた。

 そんな十五年の中で佐名は、何をなくしたとしても、最低限の大切なものだけはあきらめず、まもろうとした。彼女が考えた最低限のものは、命と尊厳。それだけは護りたい。

 逆に言えば、護れるものといえば、それだけだったのだ。人として最低限のもの。自分のみならず、誰にとっても大切な最低限のもの。だからその最低限のものは、誰のものでも護りたい。

「ここにいたら、こんな綺麗な着物を着て、しばらくは生きられるのかもしれない。でもいつなんどき、あなたがわたしを喰う気になるかわからない。実際に、役に立たない主は喰うと言った。そんなじようきようにおびえ、びくびくしながらこの家にしがみついたとしたら、わたしは人の尊厳を失う」

 絶対的な強者の支配を受け入れたら、それはれいだ。

「役に立たなければ、喰うとは言った。だがやみに喰うことはしない」

「信じられない。人ですら信じられないのに、ましてあやかしの約束ごとなんて」

ごうじようむすめめ」

 低く言うと、青紀はさらに強く佐名をき寄せて彼女の首筋に顔を近づける。甘い香りといつしよいきはだれ、体がこわばる。くちびるを首に触れさせて彼はささやく。

「出て行くなら喰う。こうして首をみちぎる」

 恐ろしさにひざふるえた。それでもきよぜつした。

「いやよ」

「拒絶は許さない。この家の主になるのは、おまえの義務だ。以前は、おまえの母がこの家の主だった。だから彼女の代わりに、おまえが主になる義務がある」

(お母さん?)

 おびえばかりが強かった心に、とつぜんぱっと火花が散ったような小さないかりがねた。

(お母さんの代わりに、わたしが?)

 ここは佐名が母親と住んだ家だ。そこに連れてこられて、いやおうなく母親のことを考えさせられる。

(考えたくもないのに。何度も、何度も。お母さん、お母さんって!)

 十五年間うまくふたをしていた。けれどそれはひどくもろい箱に蓋をしているようなもので、何度もこじ開けられたことで、箱そのもののたががゆるみ、くずれる。

(何度も)

 蓋をするのには十年以上もかかったのに、箱そのものが崩れるのはいつしゆんだった。

(お母さんって!)

 反射的に答えた声は、われながられいたんに聞こえた。

「じゃあ、お母さんがもどってきて、また主になればいじゃない」

 とうとつこわの変化に、青紀はうわづかいに佐名を見る。佐名はかたくなに宙の一点に視点をえて、続けた。

「お母さんは、どこよ。さがして、あなたが連れてくればいい。わたしがお母さんの代わりをする理由なんかない」

 視線を下げて青紀をめつける。

「あなた十五年前に、お母さんは帰ってこないって言ったわ。お母さんがどこへ行ったか知ってるから、ああ言ったのよね。この家とわたしを放り出してげたんじゃないの? じゃあ、連れ戻してくればいいじゃない。あやかしなんでしょう? わたしをおどかすみたいにお母さんを脅かしたら簡単じゃない。連れ戻して。あの人は、どこなのよ!?」

 ちからいつぱい、青紀の胸をき放す。意外にも青紀の力が緩んでいたらしく、彼は佐名から手を放すと、数歩背後によろけた。

「連れてくればいい、お母さんを」

 きようが燃料になって、怒りが燃え上がったかのようだった。かたいからせ、佐名は声を高くした。

「お母さんはどこなの!?」

 それは青紀に再会してから、心の奥底で、ずっと問いかけたかった言葉だ。意識すらしていなかったが、こうやって言葉にしてようやく自覚した。

 佐名は何をおいても、母親の居場所をきたかったと。

 その思いをふういんしていたのは、十五年の歳月の間に積もりに積もった、かなしみとこんわくと、絶望。いまさら、母親のことなど考えてもだ。母親がいた事実すら無視して、自分は自分の道を歩まなければと、そんなふうに言い聞かせてきた。だから蓋をしていた。

 そして前向きに、と自分をしつして明るくった。元気なふりをした。ふりが、もはや本当になりかけていた。

 そうならざるを得なかった。

 幼いころ。当初は、母親が自分を置き去りにしたのは、やむにやまれぬ事情からで、けして捨てられたわけではないと思っていた。しかし筒乃屋のあるじや奥様や、意地の悪い年配の客などは、聞こえよがしにうわさしていた。

『浅草公園に置き去りですって。あんなさかり場に』

『どうせ母親は商売女だ』

『でもあの子の身なりはそれなりよ』

『なら、金満家の愛人か何かだったんだろう。新しくりの良いだんに乗りえるのに、前の旦那との間にできた子がじやになったのさ。よく聞く話さ』

 そんなはずはないと、幼い佐名は必死に心の中で否定していた。母親にはやむにやまれぬ事情があり、むかえに来られなかったのだと。だからいつか、佐名を捜しあててくれると。

 一年ち、二年経ち、三年経ち。迎えは来ずに、意地悪な囁きはことあるごとに聞こえる。

 そのうち、佐名は母親を信じられなくなった。意地悪な囁きが本当のような気がしてしまった。十年過ぎる頃には、母親は自分を捨てたと確信していた。

 そして母親の存在に蓋をした。あの人はもう自分とは関係ない、と。

「連れ戻すことはできない。おまえの母親は十五年前にこの家をはなれた。二度と帰って来ない。その代わりに、おまえを主にしろと言った」

 静かに青紀は答えた。その冷静さにさらにいらつ。

「お母さんが、わたしを代わりにしろって言ったの? 身勝手だ。自分は家を離れて、代わりを、わたしになんて。わたしを置き去りにして捨てた人の代わりなんて、絶対にしない!」

 さけぶと、身をひるがえす。三つのこうをたて続けに乱暴に開き、青いもやちん殿でんする外へとけ出る。靄をらすようにしてむねもんをくぐった。

 肌に触れる空気が変わり、急に町の音がせんめいに聞こえる。

 生けがきの向こうに墓場のある裏道に出た。佐名はそこからさらに表通りへと走った。


    ◆◆◆◆◆◆◆


(……逃がした)

 走り出した背中につめを立て、引き戻し、首を喰いちぎることなど、青紀の能力からすれば簡単なはず。それなのに一歩も動けなかった。佐名が母親に向けたにくしみといきどおりにおどろき、どうしてそんなことを考えるのかとぜんとしたのだ。

「この、あんぽんたん───っ!」

 立ちくす青紀の後ろ頭に蹴りが入った。たいしたしようげきではなかったが、油断していたので直撃をまぬかれなかったし、そのせいでわずかによろける。

ごくあく非道でくされどうなだけでなく、莫迦ばかですか!? 青紀様は!」

 見事な蹴りを命中させて、青紀の足元に四本足で着地してわめいたのは、茶釜。

「わたしが莫迦?」

 目をつり上げても、茶釜はおそれる様子もなく喚く。

「莫迦です! なんでもっとちゃんと話さないんです。その頭はぼうの台ですか。極悪非道の莫迦たれなんて、最悪です」

「茶釜。おまえはそれほど、わたしがきらいか」

「感謝してます、恩人です! 好きじゃないけど、大嫌いの一歩手前です!」

「嫌いなんだな、それは」

「ぽん! いや、それはそれとして。とにかく、ご主人様を連れ戻してください。この家が消えちゃいますよ。連れ戻して話をするんです」

「約束がある。話せないことは、話せない」

「じゃあ、この家は消えますよ! 前のご主人様がいなくなって十五年でしょう? 前のご主人様が残したこの家を保つ力も、もうほとんど残ってないでしょうに」

 言葉にまる。

 青紀にはいくつかの約束がある。どれも大切な約束だ。だがすべての約束を守っていては、一番大切な約束を破ることになりかねない。

(これだから人間は困る)

 顔をしかめた。じゆんすることを約束させるから、自分は困ったことになってしまう。

「ご主人様を連れ戻してください。変な連中もうろついてるし、行ってください」

 昨日そうぐうした若いそうりよ。あれは、あやかしをる妖狩寮の者だろう。見たことのない顔だったが、油断ならない気配をしていた。

 あの僧侶は、佐名が青紀とかかわりがあると察しているはずで、そうだとすれば彼女はあやかしと同等に見なされている。彼らはようしやしない。たとえ相手が人間のむすめでも、迷いなくめつしにかかる。

(妖狩寮の者に佐名が見つかったら、ことだ)

 動きづらい和服のままだったが、える時間はしい。

「茶釜、羽織を!」

 命じられると茶釜はばやく奥へと駆け、羽織をくわえて戻ってきた。茶釜はそれを、青紀に向かって投げつけた。

「行ってください! くさぎつね!」

 どさくさにまぎれて、とことん悪口を言う茶釜に青紀は、

「覚えていろ」

 とき捨て駆けだした。背中に「忘れましたっ!」という人を食った返事が当たったが、舌打ちするだけでそのままげんかんを飛び出す。

(佐名)

 彼女があやかしであれば、見つけるのは簡単だ。ようをたどって行けば良いので、造作もない。しかし佐名は人間。人間の行方ゆくえさがすのは、人が人を捜すのに似て、あやかしにとっても困難だ。

 だから佐名を捜し出すのに十五年もかかった。

 当初は自分の力だけで捜そうとしたが、時間が過ぎるばかり。あやかしとちがって、人の時間は短く早い。あっという間に四歳の子どもは大人になり年老いてしまう。そこで当世のことを学んで人の世界に交じり、佐名のこんせきを求めた。それでも手がかりは得られず、ようやく桂川龍介という男にめぐり会った。

 あの男に佐名の居所捜しをらいしたのは、二年も前。彼はしんぼうづよく調査を続け、彼女を見つけ出したのだ。

 見失ったら、また何年も見つからないかもしれない。

 あせり、苛立ち、青紀はみする。

(また見失うのか、わたしは)

 大通りに出る。夜明けのうすくらやみの中で、路面電車のどうかたこおっていた。東の空はあいむらさきにじみ始めていたが、まだ夜の気配がく人通りはない。

 その通りの真ん中に、りんぷんに似た金色の光が、ふんわり帯のようにびていた。

「あれは」

 光るつぶ。座敷童が言っていたのを思い出す。

(佐名の胸からは光る粒が出ていて、それを追ったと)

 光はとてつもなくたよりない。あるかなきかの細かな光の集合体なので、人が行きえばかくはんされてすぐに見えなくなる。座敷童のてきを聞いていなければ、見えていても無視したかもしれない。現に青紀は、佐名の胸からそんな光が出ているのをにんしきしていなかった。

 あの光はなんなのだろうか。幼い日の彼女には、そんなものはなかったように思う。それとも、生まれながらにあったにもかかわらずだれにも認知できないほどにかすかだったのか。それが成長とともに見える形になったのか。

 光の鱗粉は夜明けの寒風にき流され、今にもさんしそうにはかない。

 だが今はまだ見える。それが空気に混じって消えないうちならば、追える。

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