三章 探偵と僧侶とあやかしと 二
しばし
「ここを出て生きられるのか」
「なんとかする。新しい奉公先を探す。筒乃屋も堂島も関係ない、上方にでも行って」
「奉公するつもりがあるならば、わたしの願いを受け入れても良くはないか? この家の主におさまって、主としての役目を果たせば同じではないか?」
「全然違う」
きっぱり言った。
「あなたは『願い』と言ったけど、わたしを簡単に喰ってしまえるあなたの願いは、わたしにとっては『強要』になる。
養女とは名ばかりの奉公人として成長していく中で、あきらめるもの、なくすものは、たくさんあった。親の愛ははなからあきらめるしかなかったし、学校もしかり。未練がましくとっておいた四歳のときの着物は「古くて
あきらめることを知り、なくすことに慣れた。
そんな十五年の中で佐名は、何をなくしたとしても、最低限の大切なものだけはあきらめず、
逆に言えば、護れるものといえば、それだけだったのだ。人として最低限のもの。自分のみならず、誰にとっても大切な最低限のもの。だからその最低限のものは、誰のものでも護りたい。
「ここにいたら、こんな綺麗な着物を着て、しばらくは生きられるのかもしれない。でもいつなんどき、あなたがわたしを喰う気になるかわからない。実際に、役に立たない主は喰うと言った。そんな
絶対的な強者の支配を受け入れたら、それは
「役に立たなければ、喰うとは言った。だが
「信じられない。人ですら信じられないのに、ましてあやかしの約束ごとなんて」
「
低く言うと、青紀はさらに強く佐名を
「出て行くなら喰う。こうして首を
恐ろしさに
「いやよ」
「拒絶は許さない。この家の主になるのは、おまえの義務だ。以前は、おまえの母がこの家の主だった。だから彼女の代わりに、おまえが主になる義務がある」
(お母さん?)
(お母さんの代わりに、わたしが?)
ここは佐名が母親と住んだ家だ。そこに
(考えたくもないのに。何度も、何度も。お母さん、お母さんって!)
十五年間うまく
(何度も)
蓋をするのには十年以上もかかったのに、箱そのものが崩れるのは
(お母さんって!)
反射的に答えた声は、
「じゃあ、お母さんが
「お母さんは、どこよ。
視線を下げて青紀を
「あなた十五年前に、お母さんは帰ってこないって言ったわ。お母さんがどこへ行ったか知ってるから、ああ言ったのよね。この家とわたしを放り出して
「連れてくればいい、お母さんを」
「お母さんはどこなの!?」
それは青紀に再会してから、心の奥底で、ずっと問いかけたかった言葉だ。意識すらしていなかったが、こうやって言葉にしてようやく自覚した。
佐名は何をおいても、母親の居場所を
その思いを
そして前向きに、と自分を
そうならざるを得なかった。
幼い
『浅草公園に置き去りですって。あんな
『どうせ母親は商売女だ』
『でもあの子の身なりはそれなりよ』
『なら、金満家の愛人か何かだったんだろう。新しく
そんなはずはないと、幼い佐名は必死に心の中で否定していた。母親にはやむにやまれぬ事情があり、
一年
そのうち、佐名は母親を信じられなくなった。意地悪な囁きが本当のような気がしてしまった。十年過ぎる頃には、母親は自分を捨てたと確信していた。
そして母親の存在に蓋をした。あの人はもう自分とは関係ない、と。
「連れ戻すことはできない。おまえの母親は十五年前にこの家を
静かに青紀は答えた。その冷静さにさらに
「お母さんが、わたしを代わりにしろって言ったの? 身勝手だ。自分は家を離れて、代わりを、わたしになんて。わたしを置き去りにして捨てた人の代わりなんて、絶対にしない!」
肌に触れる空気が変わり、急に町の音が
生け
◆◆◆◆◆◆◆
(……逃がした)
走り出した背中に
「この、あんぽんたん───っ!」
立ち
「
見事な蹴りを命中させて、青紀の足元に四本足で着地して
「わたしが莫迦?」
目をつり上げても、茶釜は
「莫迦です! なんでもっとちゃんと話さないんです。その頭は
「茶釜。おまえはそれほど、わたしが
「感謝してます、恩人です! 好きじゃないけど、大嫌いの一歩手前です!」
「嫌いなんだな、それは」
「ぽん! いや、それはそれとして。とにかく、ご主人様を連れ戻してください。この家が消えちゃいますよ。連れ戻して話をするんです」
「約束がある。話せないことは、話せない」
「じゃあ、この家は消えますよ! 前のご主人様がいなくなって十五年でしょう? 前のご主人様が残したこの家を保つ力も、もうほとんど残ってないでしょうに」
言葉に
青紀にはいくつかの約束がある。どれも大切な約束だ。だが
(これだから人間は困る)
顔をしかめた。
「ご主人様を連れ戻してください。変な連中もうろついてるし、行ってください」
昨日
あの僧侶は、佐名が青紀とかかわりがあると察しているはずで、そうだとすれば彼女はあやかしと同等に見なされている。彼らは
(妖狩寮の者に佐名が見つかったら、ことだ)
動きづらい和服のままだったが、
「茶釜、羽織を!」
命じられると茶釜は
「行ってください!
どさくさに
「覚えていろ」
と
(佐名)
彼女があやかしであれば、見つけるのは簡単だ。
だから佐名を捜し出すのに十五年もかかった。
当初は自分の力だけで捜そうとしたが、時間が過ぎるばかり。あやかしと
あの男に佐名の居所捜しを
見失ったら、また何年も見つからないかもしれない。
(また見失うのか、わたしは)
大通りに出る。夜明けの
その通りの真ん中に、
「あれは」
光る
(佐名の胸からは光る粒が出ていて、それを追ったと)
光はとてつもなく
あの光はなんなのだろうか。幼い日の彼女には、そんなものはなかったように思う。それとも、生まれながらにあったにもかかわらず
光の鱗粉は夜明けの寒風に
だが今はまだ見える。それが空気に混じって消えないうちならば、追える。
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