一章 喰われる花嫁 三
血の気が引く。しかし。
(
十五年前の、非力な四歳のときとは違うのだ。そう自分に言い聞かせ、
男は
子狸は鼻に
「目が覚めたか、佐名」
うんともすんとも声が出ずにいると、男は返事を期待していないらしく、
「
よく知っている名だった。よく知っているからこそ
「忽那青紀?」
忽那青紀。
その人物は今、日本で最も有名な作家の一人と言って良かった。
「それが名だ」
「今一番もてはやされている、流行作家の名じゃない。幻想小説で有名な」
「幻想小説を書いているつもりはないが」
男の返事に
(まさか本物?)
以前読んだ雑誌の記事で、忽那青紀が同じことを口にしていたのだ。
それでもと、佐名は疑う。忽那青紀を
「わたしをどうするつもり。
本物かどうか
「喰いはしない。危害を加えるつもりはないと言ったはずだ」
「
男の目が異様に底光りする。背筋が寒くなり一歩後ずさると、伸びてきた男の手が佐名の
男の手は肩に乱れかかった佐名の
現実味がないほど綺麗すぎる男だ。細いペン先で
「そうだな。わたしは人の呼ぶところのあやかし。三百年生きている。この時代には、忽那青紀と名乗っているだけのこと。だが、重ねて言うが、おまえを喰う気で連れてきたのではない」
「喰う気でないなら、あやかしが、わたしになんの用があるの」
「おまえに願いがあって、ここに連れてきた」
「願い?」
意外な言葉に、何度か
「そもそも、ここはどこなの」
「浅草」
「浅草のどこ」
「おまえの家だ」
「わたしには家なんかないの」
あやかし──忽那青紀は淡々と続けた。
「ある。ここは四歳まで、おまえが住んでいた家だ」
「少しも覚えていないのか。この家のことを」
確かに目覚めて部屋を見たとき、
◆◆◆◆◆◆◆
(ここが、わたしの家だった?)
母親と住んでいた、あの家なのだろうか。
毎朝母親に髪をくしけずって編んでもらい、
あの家なのだろうか。
(じゃあ、お母さんは)
どこ? と。そう続きかけた心の中の問いを、佐名は急いで追い
「知らない。覚えてない」
「なぜ」
「なぜって言われても困る。わたしは四歳のときにお母さんに置き去りにされて、それからずっと筒乃屋の奉公人だったんだもの。四歳以前なんて、そんな小さな
「これだから人間は
「覚えてなくとも、ここはおまえの家だ。だから、おまえが
ますます
あやかしにさらわれて来たのは、かつて自分が母親と過ごした家。さらにこの家に主として住めと、このあやかしは要求しているのだ。なぜそんなことをお願いされるのか理由がわからないし、そもそもなぜ佐名がかつて住んだ家に、あやかしや
「どうして?」
様々な疑問が、ただ一言になって口から出る。しかしそれに答えはなく、あったのは命じる一言。
「ここに住め」
「嫌」
「逃げてきたのだろう?」
反射的な
痛いところを
「連れ
言葉に
「おまえは身寄りもなく、
母親に置き去りにされ、捨てられた佐名はきっと、塵みたいに不要な存在。ずっと、ひとりぼっち。そんなことは知っている。けれどそれをいなして、見ないふりをして、自分を
「自分の身の上を理解したなら、
「意地悪!」
思わず口を衝いて出た。
「あなたは底意地が悪い。意地悪よ、すごく」
「意地悪?」
意外なことを言われたように青紀は
「意地悪をしたつもりはない」
「いいえ、意地悪だ」
言い張る佐名に困惑したように、青紀は視線を
「とにかく……この家の主になれ」
「なるもんか」
「逃げようなどと思わないことだな、佐名。この家の外に出たら命は保証しない。それこそ、役に立たないおまえなど喰ってやる」
後ろ手に
あやかしの男に対する
(あんな意地悪な
(
ぴょこんぴょこんと、茶釜が跳ねた。
「ご主人様、すごい! あの極悪非道の
勢い余って胸に飛び込んできた茶釜を
「もしかして茶釜は、あの人にここに閉じ込められているの?」
「いいえ。青紀様から仕事をもらったので、喜んでここに住んでます。僕の仕事はこの家の修理や雑用と、お料理なんです」
「じゃあ、あの人の手下?」
「手下なんかじゃありませんが、極悪非道の
「あの人のこと
「ぽん! そんな
「じゃあ、好きなのね」
「
「……えっと……」
追求する気力が
なんとなく察したのは、茶釜は忽那青紀から仕事をもらい、命の恩人だと感謝しているらしいのだが──心底虫が好かないのだろう、ということ。
自分がかつて住んだ家だとしても、ここは
出て行くにしても、身なりをどうにかする必要がある。
「ねぇ、茶釜。わたしが
「ありますとも」
佐名の胸から飛び降りると、茶釜は「ついてきてください」と、
「嬉しいなぁ。ようやくこの家も、ご主人様をもてるんですね」
それに佐名は答えなかったが、茶釜は独り
だが正直にはなれない。この子狸は悪いものではなさそうだが、忽那青紀の仲間なのだ。
黒光りする廊下を真っ
廊下の左右には延々と
廊下の
板戸も分厚く重そうだったが、茶釜が前足でちょいと
「この中から、好きなものを選んでお
先に中に入った茶釜が、すんすんと鼻を鳴らすと、鼻先にぽっと小さな
狸火はその小ささにもかかわらず、蔵の中をほどよく明るく照らす。
「すごい」
蔵の中を目にして、思わず声が出た。
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