一章 喰われる花嫁 一
大正十三年。
筒乃屋の養女である野村佐名は、骨董商の堂島琢磨に嫁ぐために、昼過ぎに堂島
屋敷の北の
その後ようやく佐名は、夫となるべき堂島琢磨と初めて顔を合わせた。
年齢は三十二歳と聞いていた。佐名よりも十三歳も年上だが、それほど
「よく来てくれた。これからよろしく
と、静かに
実際に会ってみると、堂島の印象は悪くなかった。
思ったよりは良さそうな人だとほっとして、「はい」と
白無垢姿で、裏庭に面した北の離れの座敷に一人残された。
結婚式が始まるまで待てと言われて、ここに置かれている。
(白無垢って重いな)
(これでわたしは、このお屋敷の人間になるんだ)
純白の
結婚式は、どんなにめでたいと言われようが祝われようが、厳然とした
自分の姿が美しく見えれば見えるほど、緊張した。
(まあ、なんとかなるでしょう)
嫁入り、結婚式と言っても、嫁入り道具は一つもない、身軽なもの。
相手の堂島琢磨はこれで六度目の
初めて
普通の嫁入りであれば母親がそばにいて、言葉をかけてくれているはずだ。そんなときは、どんな
そんなふうに母親のことを考えそうになって、
(そんなこと考えちゃだめだ。今のわたしには、どうでもいいことよ)
佐名に母親はいない。かつてはいたかもしれないが、もういない。自分を置き去りにした人のことなど、どうでもいい。それらの言葉で気持ちにしっかり蓋を閉めた。
それでいつもの自分に
(なんとか、なるなる)
しゃんと自分を立て直し、一人頷く。
裏庭の、
どういうわけか、夕暮れ時の結婚式だった。
(あれ? あそこ、開いていたかな?)
きっちりと閉まっていたはずだと思い、襖の
ふっと、いやな
(何、これ。
臭いに気づくと同時に、見えてしまった。流水を
ふーす、ふーす、と。肉が
隙間から見えるのは、ぶよぶよした質感の
にたっと笑いの形に
『ああ、
べろりと真っ赤な舌が現れた。ざらざらと畳を
『いつ
『目玉だけを今喰って、すこおしずつ、すこおしずつ、指の先から毎日一本喰っていこうか』
正座した
(何、これ)
襖の隙間からこちらを見る異形は、とてつもなく
(これが……これが原因だ)
これが、堂島の妻たちが次々に死んだ原因だとすぐにわかった。
(このお屋敷には、こんなものが取り
こんな異形の者がこの世に存在すると、佐名は想像したことすらない。
佐名が普段目にする
(殺される)
それを
嫁入りすれば佐名も、
(『取って喰われはしないわよ』じゃない、
十日前の自分を、震えながら佐名は内心
(堂島琢磨は確かに化け物じゃない。けれど、けれど。このお
全身から血の気が
『ああ、とっても美味しそう。若いわねぇ。ゆっくり、ゆっくり喰ってあげる。堂島の妻になってこのお屋敷に入ったら、もうわたしのもの。逃げられやしない』
ざらざらざらと、舌が畳を
近づいてくる。
(逃げる機会は今しかない。
これほどの異形の者が住む屋敷に、妻という形をもって入り込んだら最後。家と縁を結んだ
覚悟の嫁入りだった。命と尊厳を取られなければ、
しかし。
(このままじゃ、確実に命を取られる)
命を
(嫌だ。死ぬのは、嫌だ。そうだよ。わたしは命や尊厳を捨てる気はない)
真っ赤で大きなぶよぶよの舌が、佐名の膝を舐めそうになる。
(嫌!)
(逃げなきゃ。このお屋敷から!)
庭づたいに裏木戸に向かい、堂島
人目の少ない路地を選び、北に向かう。
あてがあったわけではない。南に下れば奉公先の筒乃屋があるし、見知った人も店も多いので、無意識にそれを
堂島邸のある日本橋區を
息があがる。
(どこまで走ればいい!? どこへ行こう。筒乃屋には帰れない)
このままどこへ逃げるのか。逃げた後どうするのか。恐怖と
「待て!」
逃げ出したことを気づかれたらしい。
(連れ戻される。あの
異形がいる、異形に喰われる。そんな
(追いつかれる)
目についた路地に飛び込み、さらにまた別の路地へと走る。
追っ手をまこうと試みるが、掛下姿は目立ちすぎた。男たちは道行く人に、白い着物の
どこをどう走ったかは、わからない。あちこち曲がって、曲がって、路地に入り込み、また曲がって。
路地から飛び出した先は大通りだった。
日が沈みかけていたが、路面電車の
「おい、お
親切に声をかけてくれる人もいるが、助けを求められない。
結婚式の直前に、逃げ出したのは佐名なのだ。しかもその理由が「
「なんでもありません。お願い、通して」
集まった人をかき分け、別の路地に飛び込もうとした佐名の左手首を誰かが
「本当に、なんでもないんです。放してください……っ!」
息が止まるかと思った。
佐名の手を握ったのは、黒い二重回しと黒い三つ
どくんと心臓が鳴った。
(そんなはずない)
この顔には見覚えがあった。
しかし青年は十五年前と変わらない、若々しく美しい顔立ちのまま。年を取っていない。
(
どく、どく、どく、と。心臓がさらに速く打つ。
「佐名」
不思議な
(わたしの名を知っている)
ぞっとした。間違いない。この男は、十五年前の男だ。
反射的に佐名は、男の手を力任せに引っ
(何が、どうなってるの!?)
結婚式のはずだった。
義父に決められた相手と
そうだったはずなのに──堂島邸には恐ろしい異形の者がいた。命
しかもその男は年を取っていない。
悪い夢でも見ているようだった。
気がついたら、筒乃屋の奉公人部屋に敷かれた
路地の左右は
口で息をして走っていると、冷たい空気が
(夢なら
「待て」という、堂島の男たちの声が路地に
逃げる方向を探して視線をあげると、建物の角に黒い
若い僧侶だ。右目の下にある泣きぼくろが目につく。
「こちらへ」と、その口が動いたような気がした。
その救いの手を取るべきか、取らざるべきか。
迷いが生じるよりも先に、横合いから飛び出してきた誰かに
驚き、自分を抱く者をふり返り、全身がそそけ立つ。
黒の二重回しと黒の三つ揃い。白い
(わたしを
この男、
(わたしなんて、そんなに
そう口にして
「十五年もかかった。やっとつかまえた、佐名」
耳元で
(ああ、わたしは喰われるんだ)
そう思ったのを最後に、
◆◆◆◆◆◆◆
掛下姿の少女を抱き、彼は十五年ぶりの
「これで、わたしは約束を守れる」
気を失っている少女の
「これは」
この少女が佐名であるのは間違いない。彼女の気配を覚えている彼には、間違いなく佐名だという確信がある。何しろ彼女の気配は、彼が
しかし。それこそが問題だった。
「……こんなことが」
身につけていてしかるべきものを、この少女は身につけていない。
◆◆◆◆◆◆◆
若い僧侶は険しい顔で路地を見つめていた。大通りのほうから、
掛下姿の娘は三人の男たちに追われて路地に飛び込み、僧侶のほうへ走ってきた。
追っている者たちの形相と、
事情は様々あるのだろうが、若い娘を、大の男が三人がかりで追いかけることそのものが、純有にしてみれば非道だ。
かばってやろうと娘に声をかけた
左右は煉瓦造りの
「あやかしか」
純有は
現れる気配すら見せず、
純有は浅草のざわめきに耳を澄ます。悲鳴は聞こえない。
目の前であやかしが人をさらったことに、純有は少なからず
「浅草には、よほどのあやかしが住むと見える」
(あの
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