序――そして十五年後



「命と尊厳以外なら、だいたい売りわたしてもいいよ」

 確かに、佐名はそう口にした。

 それはどうじまたくとつげと義父に命じられ、それをしようだくした日。十日前のこと。

 嫁ぐと知ったどうりようほうこう人たちは口々に、なぜ断らなかったのかと佐名にいた。

「いくら育ての親だといっても、だん様は横暴すぎる」

「育ての親とは名ばかり、佐名ちゃんはあたしたちと同じ、奉公人としてあつかわれているじゃない。あたしたちがもらう、ぼんれのおづかいももらえないし。奉公人よりひどい」

「しかも嫁ぐ先が、あのどうじまこつとう商会の堂島琢磨だろう」

「次々によめが死ぬ、あの堂島よ」

「もう五人も嫁が死んでるんだぞ」

「そんなところに嫁ぐのを、どうして承知しちゃったの」

 お店の裏庭のばたで同僚たちに囲まれた佐名は、みずおけかかえたまま、何でもないことのように答えた。

「だって、断ったらお店を追い出されるよ?」

 裸足はだしの足先が冷たくて、足踏みしながら言葉を続けた。く息も白い。

ほかのお店に奉公するためのしようかい状ももらえずに、この広い東京市にほうり出されたら、え死にするか身売りするしかなくなる。だったら新しい奉公先だと思って、お嫁に行く。顔も知らない相手に嫁がされるなんて、つうなんだもの」

 佐名は四つのときに浅草で母親に置き去りにされた。身なりが良かったらしく、ちゃんとした家の子どもだろうということで警察に保護されたが、身元はわからずじまい。

 結局、とくとして知られていた、ほんばしふく屋・つつの主人に養女として引き取られた。養女といっても、仲間たちも言うように奉公人と変わらないきようぐうだった。十歳のとき、自分のせいが「むら」で、筒乃屋の主人と同じ姓なのは、自分がせき上は主人のむすめだからなのだと知って、おどろいたくらいだ。

 この身の上では義父の命令に逆らえるわけはない。

 同僚たちもそれは承知の上で、それでもなつとくできずに、やんやとさわぐのだろう。

「それでも、怖くないの?」

いやじゃないの?」

かなしくないの?」

 ぎ早に問われた。

 さらに井戸端に座って暗い顔をしていた女が、佐名を見上げてにくにくしげに言う。

『いい気味。泣きわめけばいいのに』

 その女だけは、他の仲間たちとはちがって半分体がけているし、佐名以外の人には見えていない──ゆうれいなのだ。

(おっと、めずらしい。しやべったね)

 この女の幽霊は、佐名が四つでこの店に来たときから、ずっとここに座っている。めつに喋ることはなかったが、口を開けば憎らしいことしか言わない。当初は憎まれ口にもつきあって、あれこれと話しかけていたのだが、そのうちそれもめた。周囲の者が、佐名を気味悪がりはじめたからだ。それに気づいてからは、なるたけ返事はしないようにしていた。

 この女幽霊だけではなく、佐名は亡霊や異形の者、あやかしが見える。

 それを怖いと思ったことはない。

 なぜなら、物心つく前から彼らが見えるのが当然だったから。この性質は生まれつきのものだろう。見えて当然のものを、いちいち怖がれはしない。しかも彼らは、いんうつな顔をしてそぞろ歩きするのがせいぜいで、こちらにかんしようしてくることは滅多にない。だから怖くない。

 亡霊や異形の者、あやかしの姿は、佐名にとっては風景の一つ。道行く見ず知らずの人々と同じ。

 佐名は女幽霊に聞かせるように、明るい声で答えた。

こわいし、嫌だし、哀しいけど。生きるためには仕方ない」

 運命に絶望し暗い顔をしても、落ち込んでも、神や仏をのろっても、どうしようもない。

 どうしようもないことに打ちひしがれて自分をあわれむのは、みじめだ。

 自分を可哀かわいそうがって、めそめそぐずぐずと泣き言を口にして、暗い顔をして生きていても、だれも救ってくれない。みな自分のことでいつぱいなのだから、佐名を救うゆうなどない。それはこの十五年で身にみて知った。

 惨めになるのは嫌だ。だから、できるだけ自分を可哀相がらないようにしたい。

 だからといって、哀しみもきようも感じないわけではない。自分の中にひっきりなしに入ってくるそれらを、なだめていなすことができる、ということなのだ。

 自分の心にふたをする努力は必要だった。

「命と尊厳以外なら、だいたい売り渡してもいいよ」

 確かにそう言った。そしてこうも続けた。

「堂島琢磨だって、化け物じゃないでしょう。取って喰われはしないわよ」



 しかし。

 そう口にしたのんで常識的な自分を、佐名は今、なぐたおしたい。

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