第38話 少女はそれを救いと呼んだ

 チーニが勢いよく部屋に突入すると、中から短く悲鳴が上がる。パラパラと舞った扉の破片を振り払い、チーニは悲鳴の方に顔を向けた。ずっと探していた栗色の髪と、ナイフを握る小太りの男。チーニは手に持っていた短剣を男の頬に向かって勢いよく投げる。


 短剣は男の頬から耳にかけてを切り裂き、後ろの壁に深々と刺さった。男は血が噴き出す頬を抑えて、意味のない叫び声を上げる。瞬きの間に男との距離を詰めたチーニは、あばら骨のすぐ下めがけて膝を叩き込む。威力が逃げないよう、きちんと背中を抑えることも忘れない。


「ガッ」


 男は短い声と唾液を吐いて、そのまま意識を失った。チーニは男の体を床に捨てて、ルーナに向き直る。


 血だまりの中で、涙の跡すらなく、少女は静かにチーニの視線を受け止めた。どんな外傷も直してしまう呪いの心臓は、痛めつけられた彼女の傷を、簡単に隠してしまう。痛みすら、見えなくしてしまう。


 チーニは、ゆっくりとルーナに近づいて、どうにか口角を上げた。


「遅くなってごめん。一緒に帰ろう」


 ルーナはいつも通りの柔らかな笑みを浮かべて首を横に振る。


「かえらないよ」

「帰ろう」


 ルーナの言葉を遮るように語気を強めて、チーニは同じ言葉を繰り返した。壁の短剣を抜いて、ルーナの背後に回ったチーニを彼女の言葉が追いかけてくる。


「わかってて、迎えに来たんでしょ?」

「分からないよ。ルーナの考えていることなんか、ちっとも分からない。僕が君を理解するには、まだ、時間が足りないんだよ」


 細い手首を縛っていた縄を切って、チーニはルーナの視界の真ん中に戻る。外からは、ディアと男が戦っている音が響いていた。足元にしゃがみ込んで、チーニはルーナを見上げた。


「もう十分だよ」


 少し冷たいルーナの手が、優しくチーニの頭をなでる。


「ずーっと最悪だったけど、チーニに会って、ディアに会って、仲良くなって、三年も幸せな時間があった」


 泣き叫ぶわけでも、顔を歪めるわけでもなく、ただ静かに笑って、ルーナは言葉を続けた。聞きたくないと思うのに、チーニの耳は彼女の声を捉えて離さない。


「もう、十分だよ。もう、おなかいっぱい」


 後に続く言葉はチーニの中にあった。


 不自然に漏れたラクリア家の情報。誰にも見られずに連れ去られたルーナ。彼女の服に残っていた麻薬の匂い。全部を繋ぎ合わせて浮かび上がるのは、この誘拐がルーナによって仕組まれたものだという、最悪の現実だ。


 その全体像を始めから想像していたから、チーニは彼女が次に何と言うのか、知っていた。


「だからね、チーニ、お願い」


 ルーナの手がチーニの頬を撫でる。


「わたしを、殺して」


 チーニは頭を左右に振った。涙が勝手にせり上がってきて、声が出なかった。


「お願い」


 涙で歪んだ視界でルーナを見つめて、チーニはどうにか言葉を吐きだす。


「僕ら、助けに来たんだよ。君に、生きていてほしいから。君と、生きていたいから。助けに、来たんだよ」


 ルーナの指先に僅かに力が入る。


「家の権力と体裁を守るためだけに、毒を飲まされ続ける生活を、私に求めるの?」


 チーニは言葉を探す。


「二人にも会えない。家から一歩も外に出られない。呪われた心臓の入れ物として扱われる、そんな生活に戻れって言うの?」


 毒と絶望を含んだ声がチーニの鼓膜を揺らす。


「ねえ、チーニ」


 ルーナがチーニの名前を呼んだ。柔らかくて、まるい、いつもの声で。チーニはルーナの目を見つめた。


「ルーナ、」


 そこには、素敵な言葉がある。


「ルーナ、あのね、」


 ポケットの中の飴玉みたいな。冬の朝の毛布みたいな。素敵で、優しい言葉を伝えようと、チーニは口を開く。


「あのね」


 そこには、素敵な言葉が、ある、はずだった。


 口を閉じたチーニの頬に触れながら、ルーナが思いを吐き出す。


「最初はね、思い出だけで生きていけると思ってたの。二人の記憶の中に、私が居て。私の中に二人が居れば、それで。それだけで、生きていけると思ったんだよ」


 声は震えているのに、ルーナの目に涙が浮かぶことはない。チーニはそのアンバランスな様子に、心臓を握りつぶされたような痛みを覚えた。


(ルーナ、君はいつ、涙を捨てたの)


 ルーナの言葉が続く。


「でも、だめだったの」


 柔らかく、ルーナが笑う。チーニは、それ以外の彼女の表情を知らない。いつだって、どんな時だって、ルーナは柔らかく、笑う。


(ルーナ、君はいつ、笑顔以外の表情を捨てたの)


 震える指先がチーニの頬を撫でる。


「私、そんなに強くないの。そんなに、いい子じゃないの」


 チーニの目元を指先が撫でて、涙を拭った。鮮明になった視界で、チーニはルーナの目をまっすぐに見つめる。


「いい子は朝までトランプしないもんね」


 ルーナが目を見開いて、また笑った。チーニの頬に触れる指先が、震えている。表に出ない彼女の涙が、ぜんぶ、そこに現れているのだと、チーニには分かった。その震える指先を優しく握って、チーニは泣きながら口角を上げる。


「僕ら、みんないい子じゃないよ」


 冷たい指先を掴んでいるのとは逆の手で、チーニはルーナの頬に触れた。いつもより白い頬を撫でる。心地よさそうに目を細めたルーナが猫みたいで、チーニは小さく声をあげて笑った。


「ルーナ、君、注射器持ってる?」

「スカートの背中側」


 チーニは手を伸ばしてルーナの腰に触れた。スカートと上の服の間に、注射器が差し込まれている。


「ほんとは誰かが来る前に死んじゃおうと思ったんだけどね、チーニが思ったより早かったから」


 ルーナが早口で言葉を重ねた。


「うん。いいよ、大丈夫」


 チーニは立ち上がって、青い毒薬を注射器に移し替える。


「それ、ニフ先輩の『いちばん優しく死ねる毒薬』?」

「うん。よくわかったね」


 ルーナはチーニを見上げて、目を細めた。


「分かるよ。だって、一緒に話聞いたでしょ。チーニと、ディアと、一緒にしたことは全部、ぜんぶおぼえてるよ」

「うん。僕も。僕も、ぜんぶ覚えてる」


 毒薬を注射器に移し終えて、チーニはゆるく笑って、ルーナの首に腕を回す。細い腕が力なくチーニの背中に触れる。抱きしめ合うような形になって、チーニはルーナの髪を梳く。


「ねえ、チーニ」


 ルーナが小さくチーニの名前を呼んだ。


「なあに」


 間延びした声を返す。


「来世は長生きするからさ、そうしたら、死ぬまで友達で居てくれる?」


 湧き上がってきた涙を飲み込んで、飲み込み切れずにこぼして、チーニはどうにか震える声を吐き出した。


「ばかだなぁ。僕ら、例え死んでも、ずっと、友達だよ」


 ルーナの腕が縋りつくようにチーニの背中を強くつかむ。


「また、会えるかな」


 チーニは息を吸いこんだ。


「うん。探しに行くよ。ディアと、二人で」

「うん」


 ルーナが頷いたのを確認して、チーニは白い首筋に注射針を刺した。青い毒薬が彼女の体内に流れ込む。次第に細い腕から力が抜けて、だらりと垂れる。


 止まらない心臓がずっと脈を伝えてくるのに、ルーナが目を覚ますことは、もう、二度と、ない。その口が優しい言葉を紡ぐことは、もう、二度と、ない。


 チーニは注射器を握りしめて、ひきつった泣き声をあげた。


 ルーナが求めていたのは、死ではなく救済で。でも、彼女を救えるのは死だけだった。



 外から聞こえていた戦闘音が止んで、部屋の入口にディアが立つ。チーニはそれを視界の端でとらえていたけれど、歩み寄ることはできなかった。膝立ちで注射器を掴んで泣くチーニと、死んでいるルーナを見比べて、ディアは数秒、立ち止まる。


 それから速足でチーニに近づいてくると、その頭を強く抱き寄せた。


「チーニは、悪くない」


(君はやっぱり、嘘が下手だね、ディア)


 風鈴が壊れた時、受け入れるのでも、諦めるのでもなく、繋ぎ合わせて壊れた事実を否定しようとしたディアが。何かを失うことに慣れていないディアが。最も大事にしていた人の死を、彼女を殺したチーニを、許せるはずがないとチーニは知っていた。


 でも、それを口に出す勇気を持っていなかった。処理しきれない大きな感情を抱えて、チーニはディアの腹に縋った。嘘をついてまでチーニの心を守ろうとするディアの優しさに甘えて、チーニは目を閉じる。


「チーニは、悪くないから」


 うわ言のように繰り返すディアの声を最後に、チーニは意識を手放した。


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