幸福な幕間の終わり

第34.5話 グルナ・ラクリアの最後の夜

「僕は、君の酸素になれるかな」


 チーニの柔らかな声が耳に届いて、ルーナは息をのんだ。その問いかけに隠れた意図が、なんとなくわかったからだ。その問いに頷けば、きっと彼はルーナを連れて、どこまででも逃げてくれるのだろう。貴方が居れば生きていけると、そう頷けば。


 ルーナはわざと笑いを含んだ声を吐き出した。


「大人になったら、そうなるかもしれない」


 大人になるつもりはないけれど、と心の中で付け足す。


「そっか」


 どこか震えた声が返ってくる。


「うん。そうだよ」


 もう目を閉じているだろうチーニに「おやすみ」と呟く。


「おやすみ」


 その言葉に合わせて、ルーナも目を閉じた。暗闇の中に浮かんでくるのは、学院で過ごした濃くて短い時間のことだった。隣から二人分の穏やかな寝息が聞こえてきて、ルーナは目を開ける。子供っぽい顔で身を寄せ合って、寝ているチーニとディアにルーナの口元が緩む。二人の額にキスをして、ルーナはそっと、ベットを抜け出した。



 手紙を、書こうと、思った。



 三年分の感謝と、多くの思い出に対する感想を、全部まとめて紙に書いてしまおうと、思った。部屋に戻って、一番上等な紙を取り出して、万年筆にインクを満たして。


 長い、長い、手紙を書いた。


 嬉しかったこと、楽しかったこと、救われた言葉、幸せだと思った瞬間、本当は少しだけ傷ついた出来事。全部書いて、書いて、便箋が封筒に入りきらないくらい厚くなるころには、夜が明けていた。


「あはは」


 乾いた笑い声が、ルーナの口から零れる。


(これは、ちょっと、重すぎるなぁ)


 机の上に散乱した多くの手紙に視線を向けて、ルーナは目を細めた。結局、幸せだったことばかり、詰め込んでしまった。ルーナは紙の束から目を逸らして、クローゼットに向ける。


 中から一番お気に入りのスカートとセーターを取り出す。鏡の前でくるり、と一回転。でも、どう見えるかは特に気にしていない。可愛くたって、そうでなくなって、彼らはそんなこと気にも留めないから。


 長い栗色の髪を一つに纏めて、一番お気に入りの髪留めでとめる。いつもはしない口紅まで引いて、ルーナは鏡の前で笑った。



 綺麗に着飾って、手紙の束を抱えて、一言も別れは告げずに、ルーナは死にに行く。結局、手紙は学院の敷地の隅で燃やした。火が紙の上を踊る。


 紙が一枚燃える度、未練がひとつ、消える。

 紙が一枚燃える度、言いたいことがひとつ、消える。


 きっと、こんな物を残したら、優しい彼らはここで止まってしまうから。死んだルーナと一緒に、時間を止めてしまうから。


(そんなのは、許せないよ)


 だからルーナは、何も言わずに、学院に背を向けた。



(あぁ、でも、どうか。叶うのならば、ひとつだけ。どうか、私を、忘れないで)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る