第26話 いつかで良いから複雑な君のぜんぶを教えて

 植物園を後にしたチーニとルーナはその足で寮に向かっていた。いつもより強く地面を踏んで歩くチーニに、ルーナは小さくため息を吐く。強く握られたチーニの拳に指先で触れて、ルーナは足を止めた。


 三歩遅れて、チーニも止まる。首だけで振り返ったチーニとの距離を詰めて、その頬を両手で挟む。


「チーニ」


 ルーナはいつものふわふわとした笑いを収めて、真面目な顔でチーニと目を合わせた。チーニはぐっと口に力を入れて、体ごとルーナに向き直る。優しいのに強くて、心臓にまっすぐ届くルーナのこの声に、チーニは弱い。


「ムカつくのは分かるよ。私だって、さっき管理人さんのことぶっ飛ばそうかと思ったし」


 少し下から見上げてくるルーナの目が、怒っているのに泣きそうにも見える情けない自分の顔を写していて、チーニは思わず目を伏せた。


「でも、ダメだよ、チーニ。私たちが、ディアを庇って騒ぎを起こせば、せっかく見つけた証拠も、犯人も、私たちがでっち上げたと思われる。……常日頃から仲良くしてるからもう遅いかもしれないけど」


 ルーナの声が揺れる。チーニは視線をルーナに戻した。声は頼りない響きがあるのに、瞳は強いままで。チーニは小さく笑った。


「だいじょうぶ。チーニが直接殴らなくたって、後で学院長先生がいっぱい怒ってくれるよ。だいじょうぶ」


 ルーナの指先がやわくチーニの頬を撫でる。


「チーニの優しい手が誰かを傷つけるの、もう見たくないよ」


 そう言ってルーナはいつもと同じようにふわふわと笑った。


 頬を撫でる指先が、小さく震えていて。まっすぐにこちらを見る目に、涙が溜まっていて。優しい言葉の奥に、本音を伝える怖さが隠れていて。


 チーニは強く唇を噛んで、ルーナの指先を掴んだ。


「ごめん」

「ふふっ、どうしてチーニが謝るの」

「まちがってたから」


 小さく言葉を返すチーニの指先を、ルーナが握り返す。


「ケンカしてるとこは見たくないけど、怒った時に直接ケンカ売りに行くスタイルは結構好きだよ」

「どっちなの」


 チーニは小さく笑いながら言葉を返した。


「どっちも本当だよ」

「君の内側は難しいね」

「そうかなぁ。けっこう単純だと思うけどなぁ」


 笑いながらチーニの手を離して、ルーナは踊るように二歩下がる。チーニは距離をつめず、同じ場所から声をあげた。


「いつか、ルーナのぜんぶが分かるようになるかな」

「チーニは頭が良いからあっという間かもしれない」


 ルーナの口から「くふふ」と笑い声が落ちる。チーニは笑みを返して、ルーナの方を向いたまま二歩下がった。四歩分の距離を詰めて、ルーナが隣に並んだことを確認してから、彼女の歩幅で歩きだす。ルーナの口から、また笑い声がもれた。


「なに?」

「チーニくんは優しいねぇ」


 チーニは二度瞬きをしてから、小さく笑う。


「そうでもないよ」

「そうだよ。優しいんだよ」


 思いのほか強い言葉が返ってきて、チーニの口からまた笑い声がこぼれた。



 寮の一階、玄関からすぐの所に寮監室がある。チーニは扉の前でルーナに視線を向けてから、三回、拳で扉をたたく。中から「はーい」と柔らかな声がして、扉が内側に開いた。


「あら。用件は今朝のこと?」


 チーニが頷くと寮母は体を引いて、二人を部屋の中に招き入れる。寮母はやかんを火にかけて、棚からマグカップを三人分取り出した。チーニとルーナは部屋の中央にあるソファに座って、その背中に視線を向ける。


 部屋の中には寮母が紅茶を入れる音だけがあった。ふわり、と紅茶の香りを漂わせながら寮母が振り返り、チーニは背筋を伸ばす。紅茶を机に置き、寮母はチーニと視線を合わせた。


「それで、どんな用事?」

「寮生の外出記録を見せてください」


 寮母は驚きで目を見開き、そのまま眉をさげて困ったように笑う。


「あのね、私はディアくんがどんなにいい子かも、チーニくんがどんな思いでこの調査をしているかも知ってる。でもね、それだけは見せられないのよ。貴方がどんなに善良でも、優しくても、それだけは絶対にだめなの。分かるわね?」


 チーニは寮母と視線を合わせたまま、手を強く握った。


(僕はやさしい訳でも善良なわけでもない)


 鋭く息を吸い込んで、チーニは口を開いた。


「お子さん、とても優秀な成績で学院に入学したそうですね」


 寮母の最も踏み込まれたくない場所に、ナイフを持って土足で踏み込んでいく。寮母の顔が強張る。


「テストも随分、点数が良いみたいですね」


 さらに一歩、進む。見せびらかすようにナイフを振り回す。寮母の両手が強く握られた。すり寄るように甘く、夢のように毒を含んだ声で、チーニは言葉を続ける。


「まるで、問題を知っていたみたいに」

「やめてッ!!」


 寮母の口から悲鳴があがる。拳を振り上げて、腰をあげた寮母をチーニは鋭く睨んだ。視線だけで十分に伝わる圧。寮母は息をのんで、振り上げた拳を下ろした。小さく息をついてから、背後の棚の引き出しを開けて外出届をまとめた綴りを持ってくる。


「これよ」


 チーニはにっこり笑顔を作ってそれを受け取った。


「ご協力ありがとうございます」


 受け取った分厚い綴りを手早くめくって、六日前に外出した人を全員メモしていく。冬期休暇の直前だったからか、人数はそれほど多くない。外出した人の氏名、学年、行先などをメモしてから、チーニは綴りを寮母に返す。


「ありがとうございました」


 怯えた顔でチーニの手から綴りを受け取った寮母に笑顔を返し、ルーナを促してチーニは部屋の扉に向かった。扉に手をかけてから「あぁ、そうだ」と呟いてチーニは首だけで寮母の方を振り返る。


「隠す気があるなら、図書室で勉強するときにテスト問題の写しは仕舞った方がいいって、お子さんにきちんと伝えた方がいいですよ」


 唇を強く噛む寮母に背を向けて、チーニとルーナは部屋の外にでた。チーニは小さく息を吐いて、爪が食い込むほど強く手を握りしめる。ルーナの細い指先が、チーニの髪の間を通り抜けた。


「チーニはやさしいねぇ」


 そのまるい声にチーニは動きを止めた。優しく髪を梳く指先に奥歯を強く噛んで、絞り出すように言葉を吐く。


「ぼくはやさしくないよ」

「やさしいよ。チーニはやさしいんだよ」


 チーニの前に回って、目を見ながら言い聞かせるようにルーナが言葉を重ねる。


「やさしい人はケンカしたり脅したりしないよ」

「チーニは良い子じゃないけど、やさしいよ」

「僕は良い子じゃないの?」


 ルーナが「くふふ」と笑い声をあげた。


「いい子は朝までトランプしないよ」

「そうかな」

「そうだよ」


 ルーナは笑い声は収めて、微笑みは浮かべたまま言葉を続ける。


「いい子じゃないけど、大事な人が傷ついてるときに怒れるチーニはやさしいんだよ」


 そう言ってルーナはチーニの頬を撫でた。くすぐったい指の感触に、強張っていたチーニの顔もほころぶ。


「うん。やっぱりそうやって笑ってる方が好き」

「さっきまでとそんなに違う?」

「全然ちがうよ」


 ルーナは眉間に深く皺をよせ、口をへの字に曲げてみせた。


「さっきまではこんな顔してたよ」

「そんな顔はしてないと思う」


 チーニは真顔に戻って言葉を返すが、唇の端が笑みの形に上がっている。ルーナがもう一度同じ顔をすると、とうとう耐えられなくなって、チーニは肩を震わせて笑った。


「あ、信じてないでしょ」

「怒らないでよ、信じてるって」

「ふふふっ、嘘だよ。それで? 何か分かった?」


 チーニは小さくため息を吐いてから、ルーナの問いに頷く。


「うん。大体、ね」


 含みのある言葉を返すチーニに、ルーナは首を傾げた。チーニは笑うだけで何かを説明することもなく、ルーナの手にペンを握らせる。


「とりあえず、明日の外出届だけは出しておこうか」

「え? なんで?」

「あとで話すよ」


 チーニは薄く笑って、寮監室の近くにある背の高い机のそばに寄った。外出届に必要事項を書き込んでいくチーニにため息を吐いて、ルーナは自分の分の外出届を取った。



 二人分の外出届を寮母に提出して、途中食堂でお昼の分の菓子パンを買い込んでから、チーニとルーナはディアの部屋に向かう。


「ディア、開けてくれる? 今手がふさがってて」


 扉の向こうからチーニが声をかけると、ドタドタと大きな音がしてから、扉が開く。中から顔をのぞかせたディアは何故か涙目で、チーニは驚いて一歩距離を詰めた。


「どうしたの?」

「びっくりして慌てたら足を棚にぶつけた」

「小指?」


 ルーナがちょっと笑いながら問いかける。ディアは照れくさそうに頬を掻きながら「ひざ」と答えた。その受け答えの様子がいつも通りで、チーニは安堵の息を吐きながら小さく笑う。


「パンたくさん買ってきたから、お昼にしようよ、ディア」


 ディアは目元の涙を拭いながら頷いて、体を内側に引いた。

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