第2幕 柔らかく甘く幸福な幕間

第23話 そして時計の針は巻き戻る

 チーニは花瓶の下敷きになりそうなラルゼの腕を強く引いた。反動でラルゼの居た場所に躍り出て、体に強い衝撃を感じる。


 耳に響く音についで痛みがやってくる。頭を打った衝撃と体中の痛みで意識が朦朧とするなか、チーニはどうにか瞼を開いた。視線の先にいるラルゼは、座り込んでいるものの怪我はしていない。


 子供の無事を確認したチーニの体から力が抜ける。


 閉じていく瞼。感覚の無くなっていく指先。動かない思考回路。


 ────暗転。


 チーニは記憶の闇の中に沈みこみながら、そっと意識を手放した。


❖❖❖


「きゃあああああ!」


 甲高い女性の声でチーニは目を覚ました。大きな欠伸をしながら、上体を起こす。どうしてか床で眠っていたらしく、体のあちこちがきしんだ音を立てた。鳥肌の立っている上半身とは裏腹に温かい足に目を向けると、ディアの白い足が絡まっている。


(ディアも寒かったのかな)


 チーニは小さく笑みをこぼして、足を引き抜きその体に毛布をかける。毛布にくるまるように丸くなったディアの体をゆすった。その奥でルーナが伸びをしながら起き上がってくる。


 悪魔と同じ色彩をもって生まれた第一王子。初代王の腹心であり、彼の持っていた決して止まらない心臓──「不死の心臓」を埋め込まれたラクリア家の長女。それが、ディアの友達が持つ肩書だ。


「おはよう、チーニ」


 まだ半分寝ているようなぼんやりした顔でルーナが笑う。


「おはよう。まだ眠そうだね」


 ルーナはもう一度大きく伸びて、何度かぱちぱちと瞬きを繰り返した。半分しか開いていなかった目がはっきりと開いて、ふにゃふにゃしていた笑顔が、いつもの笑顔に変わる。


「おはよう、チーニ」

「おはよう、ルーナ。朝の点呼が始まる前に戻った方がいいよ」


 チーニは壁掛け時計を指さしながら笑った。


「あらら。また怒られちゃう」


 ルーナは「くふふ」と、食堂のクッキーをつまみ食いした時と同じ笑い声をあげる。チーニもつられて楽しくなって、目を見合わせて笑った。その間も、ディアは唸り声をあげて丸くなるだけで一向に目覚める気配がない。ルーナがディアの頭をそっと撫でる。


「ディアは今日も起きないねぇ」

「いつも一番早くに眠るのにね」


 ディアがぎゅっと眉を寄せて寝返りをうつ。


「ディア、そろそろ起きて。朝ご飯に遅れるよ」


 唸りながらチーニの方に体を向けたディアの目が開く。半分開いた瞼の間から、赤く光る綺麗な瞳がチーニを射抜いた。チーニはディアと目を合わせるとき、いつも、その瞳の持つまっすぐな強さに目がくらみそうになる。


「おはよ……」


 ディアはなんとかそれだけ絞り出して、また眠りの世界に落ちていこうとする。


「まって、まってディア」


 ルーナもつられるように欠伸をしていて、チーニはディアに声をかけながら、思わず笑ってしまった。


「しょうがない。このまま寝てるなら、毛布は没収だね」

「そうだねぇ」


 ルーナが欠伸を噛み殺しながら、ディアの毛布に手をかける。


「さむいのは、いやだ」


 ディアは毛布を深くかぶった。


「起きてよ、ディア」


 顔だけ毛布から出したディアはすっかり目を開けていて、恨めし気な目でチーニと視線を合わせる。


「さむい」

「冬だからね」

「なつにもどりたい」


 ディアのぼんやりした声に、チーニは返す言葉を見つけられず言葉に詰まった。学院に入学して、三年目の冬。この冬が終わって、春が来たら、チーニたちは学院を卒業する。卒業したら、こんな風に三人で個人的な時間を過ごすことは、多分、できない。


 迫ってくる終わりは、いつだってチーニの心臓の奥を冷たくする。


(明日なんて来なくていいのに)


「チーニ?」


 ごそごそと毛布ごと起き上がったディアがチーニの頬に触れる。頬を撫でる指先が優しくて、チーニは泣きそうになった。白くて冷たいディアの指が頬をなでる感触を、チーニは頭に焼き付ける。簡単には触れられないほど、距離が出来てしまっても、こんな朝があったことを忘れないように。


 心臓の奥の痛みと冷たさをかき消すために、チーニはディアとルーナの指先を握った。二人の温度に触れているだけで、呼吸が楽になって、痛みが薄れる。チーニはゆるく口角をあげた。


「もう、だいじょうぶ」


 ディアの手が強くチーニの手を握り返す。ルーナは幸せそうな顔で笑った。空気が柔らかくて、甘くて、チーニは目を細めた。


 部屋に入り込んだ朝日が、三人のことをそっと柔らかく照らしている。逃げようのない明日が彼らを追い抜いて、今日に変わっていく。

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