第51話 正義の根幹
少年は小さな足で素早く歩いた。廊下を走っては行けないと分かっていたので、走らず早歩きで向かう。
近くを通りかかったお婆さんに「こんにちは」と挨拶する。その先で医療カートを運んでいた看護師の女性にまた挨拶。
小学三年生でこんなにも礼儀正しい少年だが、彼は病院という場所が嫌いだった。色味の薄い建物や病室、鼻につく薬品の匂い、何となくの重苦しい印象。どれをとっても嫌いなイメージしか浮かばない。
けれどそんな嫌いな場所に、一神光汰は毎日のように通っていた。小学校終わりにランドセルを背負ったまま、友達の誘いを断ってまで、いつも足早に病院に通っている。
薬品臭い空気を無視して、早歩きで廊下を進んだ先で、いつもの様にスライド式の扉を開けた。
扉を開けた先には、長い髪の女性がベッドの上で本を手に持っていた。女性は扉が開かれたことに気がついて、こちらに視線を移し、いつものように穏やかな表情で笑って迎えてくれた。
「お母さん!」
「あら光汰、今日もお見舞いに来てくれたの?」
彼女の名は
「お母さん見て!この前のテスト、また百点だったよ!」
母の前で百点のテスト用紙を勢い良く広げた。
「あら凄いじゃない。この前のテストも百点だったでしょ?」
「うん!すっごく勉強したんだ!」
「うん偉いぞ〜」
母が笑って頭を撫でてくれた。
「学校はどう?お友達と仲良くできてる?」
「もちろんだよ!この前ね、仲間はずれにされてる子がいたんだけど、声掛けたら仲良くなれたよ!僕が仲良くしてると、クラスのみんなも一緒に遊んでくれるようになったんだ!」
「へ〜え、友達にも優しく出来てるのね。家ではどう?お父さんちゃんとお料理とか出来てる?」
「う〜ん、昨日ハンバーグが苦かった」
「ふふっ、焦がしちゃったのね。お父さんお仕事で忙しいから、あんまり心配かけるようなことしちゃダメよ?」
「しないよそんなこと。昨日だって食器を洗うの手伝ったんだよ?お風呂の掃除と、洗濯物も!」
「なら良かったわ。お父さんもきっと喜んでくれてる」
「うん!あ、あとね、さっきここに来る途中でお婆さんが道に迷っててね、案内してあげたんだ!ちゃんと荷物持つのも手伝ったんだよ!」
「お、それは良いことしたねー。光汰が良い子でお母さん嬉しいわ」
母が笑う。
光汰は母の笑顔が好きだった。
良い事をすれば、また母が笑ってくれる。
「ねえ、元気になった?病気治りそう?」
キラキラした瞳で、光汰はいつものように母に尋ねた。そして母もまたいつものように、
「うん、元気が出てきたわ。光汰が良い子にしてると、お母さんもっと元気になっちゃう。ありがとね」
母の口癖だった。
今思えば、幼かった自分を不安にさせない為の嘘だったのだろうと思う。けれどそんなこと知る由もない彼は、その言葉を真に受けて人一倍良い子であろうと努力した。
「お母さんが早く退院出来るように、僕もっと頑張るから!もっと良い子になる!」
一神光汰という人間の異常なまでの正義感が形成されたのは、恐らくこの頃からだった。
それから月日は流れ――。
「こうた……また、お見舞いに来てくれたの?」
病室のベッドで横になり、呼吸器をつけた母が血色の悪い顔をこちらに向けて笑った。
「お母さん……大丈夫?」
日に日に痩せ細っていく母に、近頃はこんな言葉が真っ先に出る。
「心配ないわ……それより、今日テストの返却日だったんでしょ?どうだった?」
「……百点だったよ」
答案用紙も見せないでそう言った。たが母は疑いもしないで笑ってくれた。
「凄いじゃない。また百点……お母さん嬉しいわ」
そうやって優しい瞳で笑う母を見るのが、光汰は嫌いだった。
「お母さん……元気になった?」
「もちろん。もうすっごく元気」
「病院、いつ退院出来るの……?」
「うーん、いつだろう。もうちょっと先かな。でも、きっともうすぐ退院出来るわ。そうしたらお父さんと三人でお出かけしましょう?」
母が少し困ったように笑う。その顔を見るのが、光汰は嫌いだった。
「コウタ、遊ぼ!」
ある日近所の幼馴染、愛風が自宅のチャイムを鳴らした。
「愛風……」
「里美ちゃん達とおままごとするの!特別にコウタは私の旦那さんやっていいよ!」
「ごめん、僕勉強しなきゃ……」
「え、また?この前も百点だったのに?ちょっとくらいへーきだよ」
「ダメだよ……また僕が百点取らなきゃ、お母さんが」
もしも次のテストで百点を取れなかったら、母の容態が悪化する可能性がある。
「コウタ……顔色悪いよ?ちゃんとご飯食べてる?」
「最近お父さんの帰りが遅いから、コンビニでおにぎり買ってる」
この時期父の仕事は忙しいらしく、学校に行く頃にはいつも机の上にお金が置いてある。仕方の無いことではあるが、近頃は一人でいる時間が増えてしまった。
父が悪いわけではない。母が悪いわけではない。そんなことは分かっている。が、この年頃の男児がいつも一人ぼっちで寂しくないはずなどない。時には涙を流しながら夜な夜な机に向かうこともあった。
けれど苦ではない。百点を取らねばならぬプレッシャーも、友達と遊べない歯痒さも、誰も近くにいない孤独も、全て耐えていれば、ずっと自分が良い子であり続けていれば、いつか必ず母の病気は治って、全てが元通りになる。そのはずだった。
だから。
だから目の前の現実はきっと何かの間違いで、いま目の前のベッドで弱々しく呼吸している母は、きっとすぐに良くなる日が来る。こんなに頑張っているんだから、当然だ。
「偉いわね……こうた。あなたが良い子でいてくれるだけで、お母さんとっても嬉しいわ……」
口元の人工呼吸器を曇らせて、
母の笑顔を見るのが嫌いだった。見ているだけで何だか胸が締め付けられる気がして、急に悲しくなってきて、光汰はいつも静かに拳を握りしめることしか出来ない。
「お母さん……元気に、なってくれた?」
「もちろんよ……すっごく元気」
母のその笑顔を見たとき、ついに訪れた。少年の心の中に溜まっていた何かが音を立てて決壊した瞬間だった。
「嘘つき」
口をついて零れた。
自分の吐き捨てた言葉に驚いて顔を上げると、母もまた、信じられないものを見たような顔をしている。その顔を見た途端胸の苦しみはさらに増して、涙が滲んできて、今まで溜まっていた何かが一気に溢れた。
「お母さんの……嘘つき」
「こうた――」
「本当は元気になんてなってないくせに!」
とうとう言ってしまった。分かっている。これは言っちゃいけない。この言葉は母を、そして今までの自分をも否定する最悪の言葉だ。
けれど一度溢れ出した感情の波を、もはや止める術は無かった。
「嘘つき嘘つき嘘つきっ!僕がどんなに良い子でいたって、お母さんちっとも良くならないじゃん!知ってるもん!退院なんて出来ないんでしょ!?」
「こうた……違うの」
「違わない!お母さんは僕に嘘ついてる!ねぇ、病気はいつ治るの?退院はいつ出来るの!?お出かけはっ……!?来年はクリスマス一緒に過ごすって、約束したのにっ……お花見も、夏の花火大会も……っ、運動会っ……ぅ、見に来てくれるって、いったのに……っ」
言っている内に泣き出してしまった光汰の目の前で、母もまた、大粒の涙を流していた。それを見て更に、光汰の胸は締め付けられた。
「うぅっ、おがあさんのっ嘘つきぃ……」
「ごめんっ……ごめんね光汰……っ、……元気なお母さんじゃなくて、ごめんねぇ……」
これまでずっと、一人で耐えてきたのに、勉強だって頑張ったのに、遊びたいのも我慢して、人一倍周囲に気を配って優しくして、常に良い子であり続けたのに。全部母のためだったのに。
「光汰……」
涙を流す母が、ベッドの上から光汰へ向けて手を伸ばした。青白く痩せ細った手が、少し小刻みに震えている。
けれど光汰はそんな母の手を取ることなく、逃げるように病室を飛び出した。変わり果てた母の手が怖かった。初めての反抗が、その悪行が後ろめたかった。母を泣かせてしまった自分に、良い子じゃない自分に、その手に触れる資格など無いとそう思ってしまったのだった。
これが母との最後の会話だ。
あの後すぐに、母は死んだ。
再び相見えた母はベッドの上で横たわっていて、顔に白い布を被せられていた。そのすぐ近くで父が光汰の手を強く握り、身を震わせ泣いている。その横で光汰はただ呆然と立ち尽くすことしか出来ずにいた。
動かなくなった母の姿を見ていると、次第にとめどなく涙が溢れてきて、母の表情や声や仕草が、その記憶が、波のように押し寄せてくる。
涙を流しなが、少年は笑顔で声を震わせた。
「お父さん……僕良い子にするから……そしたらお母さん、元気になるよね……また、一緒にお出かけ出来るよね…………?」
隣にいた父が光汰の身体を力いっぱいに抱きしめて、
「もういい……もういいんだ……っ」
嗚咽混じりにそう言った。
あのとき、自分が逃げ出したとき、母がどんな顔をしていたのか光汰は知らない。あのとき母の手を取っていれば、どんな顔を見せてくれたのだろう。何て言ってくれたのだろう。それを知る機会を自ら投げ捨てたのは、他でもない一神光汰だった。
あの日あの選択こそが、彼の人生における最低最悪の罪だったのだ。
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