第42話 残酷な世界

幼い少女がひとり、部屋の隅で啜り泣いていた。


「ひっく……っう……うぅ」


瞼を腫らす少女に、そっと誰かが近づいてくる。


「どうしたのマレ?」


優しい笑顔で声を掛けてきたのは、メルディ・イーベルシィ。マレの実の母であった。

幼い彼女は優しい母に涙の理由を打ち明ける。


「みんながわたしをバカにするの……っ。お母さんには耳も尻尾もあるのに、わたしにだけ無いのは変だって……」


マレトワ・イーベルシィ。彼女は兎人系獣人族の母メルディと、純人間族である父ホース・イーベルシィとの間に生まれた、獣人と人間のハーフであった。

本来全ての獣人族は共通して、彼らの象徴とも言える耳と尾を持って生まれてくる。しかし彼女の場合、人間族の父であるホースの身体的遺伝がより顕著に現れてしまったのだろう。この世に生を受けたその時から、彼女には母メルディのような長い耳も尻尾もありはしなかった。


「そう、それは辛かったわね」

「うん……」


母の体にしがみつき、マレは顔を埋める。そんなマレの頭を、母は優しく撫でてくれた。

そして、


「はい、これをあげるわ」


母は優しく撫でていた頭から急に手を離すと、そっと何かをマレの髪に結んだ。


「……なに?」

「鏡を見てごらん?」


言われるままに、部屋にあった鏡に目を向けると、そこには白いリボンを髪に結んだ自分が映り込んでいた。


「こ、これ……っ」


真っ白なリボンはまるで、母と同じ立派な兎の耳がそこにあるようで、


「わ、わたしウサギさんみたいっ!」

「ふふっ、これでお揃いね。とっても似合ってるわよ、マレ」


母に貰ったプレゼント。世界でたったひとつの、大切な宝物。これ以上に嬉しいものは無かった。

嬉しさのあまり飛び跳ねて、さっきまで泣いていたことなんか忘れて、


「お母さんありがとっ!大好き!」


とびきりの笑顔で母に礼を言ったのだった。


これは記憶だ。

幸せだった頃の記憶。

自分がいて、母がいて、夜中に仕事帰りの父に『おかえりなさい』を言って抱きついて、例え周囲の人間に何を言われて泣こうとも、彼女にとってこの生活が幸せそのものだった。そしてこの幸せがずっと続くのだと、幼い少女は根拠もなくそんなことを思っていたのだ。

しかし思い知った、世界は――。



「マレッ、メルディッ!逃げろぉッ!!」


聞いたことも無いような父の怒鳴り声で目を覚ました。

目を開いて最初に目にしたものは、薄暗い部屋で鈍く光るナイフを持った数人の男達の姿だった。薄汚れた服を着て、ニタニタ醜悪な笑みを浮かべる人間族の男達だ。

そのうちの誰かが一言、こう言った。


「男はいらねぇ、殺せ」


たったそれだけの一言で、誰かのナイフが父の腹部を貫いたのを見た。続いて二人、三人が棒立ちの父の胸に、脇腹に、同じようにしてナイフを突き立ててゆく。

一瞬のことで、わけも分からずその光景をただ見ていた。瞬きもせず、マレはじっと見つめていた。

数秒、世界中の時が止まる感覚にさえ陥り、小刻みに震えながらこちらを振り返る父の青白い顔を見て、ようやく全てを理解する。


「に、げ……っ」


泥のような血の塊を吐き出して、父は最後の言葉さえ紡ぐ暇もなく地に伏した。

倒れた父の顔を、ただ呆然と覗き込む。半目開きで、光の失われた父の瞳と目が合っている。

状況は分かっている。父がどうなったのか分かっている。父が最後に何を言おうとしたのかも分かっている。当然、今どうするべきかも。

しかし体が石みたいに固まって動かないのだ。頭が考えることを拒否している。

目前の悪魔達の黒いナイフが光って見える。

もう、終わり――。


「あ゙あ゙あぁぁああ――――ッ!!」


金切り声が聞こえた。

母メルディが男達に飛びかかった。


「うぉっ!?な、なんだこいつっ!」


母は血走った目で一番手前にいた男に掴みかかる。

男は母の両腕を掴み、必死に抵抗している。

母がこちらへ振り返った。


「逃げなさいマレ゙――ッ!!」


そのとき初めて見た母の顔が、恐怖でしかなかった。

それはマレの知る母とは全く別の生き物に見えた。こんな母は見たことがない。表情も声も、まるで別人がそこにいる。

しかしマレだって分かっていた。逃げるのだ、今すぐに。父が言ったように、母が言ったように、そうすべきなのだ。今なら男達が油断している。今なら扉からこの部屋を抜け出せる。走れば――しかし足が動かない。


「はっ……はぁっ……はあっ」


胸を押える。呼吸が乱れて声が出る。妙な汗が全身から吹き出してきて、今更に手がぶるぶると震えてきた。


「マレッ!早く――ッ!!」


自分を睨みつける母の目が、恐怖でしかなかった。

そして呆気なく――


「あっ」


小さく悲鳴を上げて母が倒れた。


「ば、馬鹿野郎ッ!兎人の女は殺すな!」

「け、けどこいつ、力が……っ」


母の着ている白い寝巻きが、見る見る黒く染まってゆく。


「お、おかあ……さ……」


今頃になって、石のように重たい足が動き始める。

震える足で、ゆたゆたと横倒れている母に近づいて顔を覗き込んだ。

そこには額に汗を滲ませ、しかしいつもの優しい目をした母が笑っていた。


「マ、レ……」

「お、お母さん……?」


母はマレの頬に手を伸ばし、その頭をぐっと引き寄せた。


「マレ……、強くて優しいわたしの子……。私とお父さんの、自慢の、子よ……」


今にも消えそうな声で母は言う。


「いい、マレ……この世界は、女神様は、あなたが信じる限り、きっとあなたに幸運を与えてくださるわ。……だから、どんなに辛いことがあっても、絶望してはダメ……」

「おかあ、さん……っ」


零れた涙が、母の頬にポツリと落ちて線を描いた。


「いつか、いつか必ず……っあなたを、心から信じて、愛してくれる人が見つかる、から……」


母の手から力が抜けていくのが分かる。


「うぁあっ……おかあざん……!!」

「マ、レ……あい、して……」


自分を包む母の手が離れたその瞬間、幼い少女は思い知ったのだった。

世界はどうやら残酷なようで、神なんていなくて、一片の情けも容赦もないらしい。



湿ついた空気、カビと埃の匂い。

長らく夢を見ていた気がする。目を開けるには最悪の気分だった。


「……レ…………マレっ!」


名前を呼ぶ声が聞こえて目を開けると、彼がそこにいた。


「ユウ……さん?」

「マレ……!」


名前を呼ぶと、ユウの強ばった顔が少しだけホッとしたように緩んだ。心配してくれていたのだろう、とマレは思う。

彼はそういう人だ。誰かを想いやれる、優しい人だ。長い付き合いじゃないが、マレには分かっている。ただ、ほんの少し臆病なだけ。


「ユウさん……ここは?」

「廃倉庫みたいだ。マレはフードの奴らに捕まって、ここまで連れてこられたんだよ」


フードの奴ら――覚えている。

橋の上で突然襲いかかってきた人達だ。


「とにかくここを出よう。ここにいたらまたいつ襲われるかわかったもんじゃない」


ユウはスっと立ち上がると、辺りを警戒するように見渡したあと、ボックスから剣を取り出し構えた。

そんな彼の背中を見つめながらマレも立ち上がるが、目眩がして足がよろける。

崩れかけた体勢をユウが支えてくれた。


「大丈夫か?」

「すみません……」


頭痛がする。

血の気の引いた額に手を当てる。

気づいた。顔に当てた右手の中指に、指輪が着いている。ボックスリングだ。

なんだろう、何か大切なことを忘れているような気がする。


「歩けるか?早くここを」

「――逃がさないよ」


突如聞こえてきた声は広い倉庫内で反響し、どこから現れたのか、気づけば一人の男が前方に立っていた。赤茶色の髪に黒い二本の角、少し小柄だがその身から放たれるオーラには闇が見える。マレ自身本物を目にするのは初めてであったが直感的に直ぐわかった。魔人族だ。


「おまえ……あの時の魔人族か」


傍にいたユウが魔人族の男を睨みつけた。どうやらあの魔人を知っているらしい。


「お前には腕を斬られた借りがあるんだ、絶対に逃がすもんか」


そう言った魔人族には確かに片腕がない。あれをユウがやったと言うのだろうか。


「ユ、ユウさん……」

「下がってろマレ……!」


ユウはマレを庇うように剣を振り、横目でこちらへ視線を向けて言う。


「大丈夫だ……絶対俺が守るから」


ああ、やっぱり好きだ。

彼の横顔も、落ち着く声も、臆病で綺麗な瞳も、心優しいところも。本心から思う。きっと自分の探していた運命の人は彼なのだと、母の言っていた人はこの人なのだと、マレは勝手にそう思っている。彼がいれば、きっとこんな世界でも大丈夫だ。


「ユウ、さん……」


溢れる感情を抑えられない。彼に守ってもらえることが嬉しくて仕方がない。今すぐに抱きしめて、彼に愛していると伝えたい。

なのに、だと言うのに――。


「……っ」


ガタガタと震える右手に握られた短剣が、自分を庇い立つ彼の背へと少しづつ近づいていく。


――な、なんで……っ。


ありえないことだ。

考えられないことだ。

たった今、自分を守る彼を、心から愛する彼を、この手で殺そうなどと。

しかし震える手は止まらない。止まってくれない。意思とは関係なく彼の無防備な背へと近づいて行く。

この暗闇でも薄らと、刀身が淡く光を帯びている。素人目にも名剣なのは間違いない。この剣は人ひとりの命を容易く刈り取ってしまう。


――だ、だめ……っお願い……。


声さえ出せない。

必死に抵抗しようと剣を持つ手に力を込めるがビクともしない。

汗が吹き出し、涙が滲み、全身を恐怖が支配する。

ダメ、嫌だ、お願い、お願いだから――しかし最早、抑えは効かない。


「――――ッ」


恐ろしい音が聞こえた。

肉を切り裂き骨を破壊する感触が手に伝わった。

それでも構わず、鋭敏な刃を奥まで力任せに捻じ込んだ。


「――ぐはッ」


生暖かい血が、マレの頬に飛び散った。

まるで時が止まったかのようだ。

マレの握る短剣は、確かに彼の心臓を深々と貫いている。その信じられない光景が今、マレの瞳を通し明確な事実として、その場にあることを伝えた。


「マ、レ……おまっ」


痙攣しながらこちらへ振り返った彼と目が合った。

いつかの記憶がフラッシュバックして重なる。

充血しきった彼の目に気圧されたか、マレの足は突然に力を失い数歩後ずさった先で崩れ落ちた。

その数秒後、背後から心臓をひと突きされた愛する人もまた、力なく膝を折り倒れた。

うつ伏せに倒れた彼の周りには、黒い血溜まりがみるみると広がっていく。そんな光景を前にマレはただ、尻餅を着いてへたり込み、目を泳がせることしか出来ない。


「ち、ちがっ……わ、わたしは……」


ようやく封じられた口が開いた。

しかし言葉が見つからない。

視点が安定せず、視界が揺れる。

目に映る光景を認めたくなかった。


「ちがっ……わ、わたしは……こんな……っ」


こんなはずじゃなかった。

こんなことをするつもりはなかった。

こんなことになるなんて。

何を言ったところで、自分のやった事実は変わりようがない。

目の前で地に伏す彼。背中に突き立った血濡れた剣。その深すぎる傷口から、血溜まりは今も広がり続けている。


「ち、ちがうの……わ、わたしは……」


言い訳の言葉すら思いつかない。

涙さえ出ない。

この期に及んで彼女は意味の無い言葉を探すばかりで、自らの罪さえ理解出来てはいなかった。


「ふふっ、ふふははははっ!あっははははは――ッ!」


悪魔のような笑い声が聞こえる。

魔人族の男が、歪んだ笑みを浮かべて大笑いしている。


――ああ、全て思い出した。

ここへ連れてこられた時から、全ては仕組まれていたのだ。魔人族の仲間に呪いをかけられたのだ。彼を貫いた短剣も、魔人族から渡されたものだった。

全て、彼らの思惑通りだったのだ。


「ちがう……ちがうのっ……」


ただ呪文のように呟く。

また、まただ。また私のせいで、誰かが死ぬ。この真っ赤な血を見た事がある。この光景を見たことがある。これは全て、自分のやったことだ。


「ひどい……ひどいよっ……」


今更溢れ出した涙は、薄汚れた地面を濡らしてゆく。


「こんなのっ、ひどいよ゙ぉ……っ!」


彼女は知っていた。

この世界は残酷なのだと。




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