第156話 兄様はそんなこと言わないの件

 夕飯の調達を終えたゼルドとゾナゴンは、一人残されたラミエルの元へ戻ってきた。

 この近辺の森は魔物が少ないようで、わけなく夕飯となる牡鹿を仕留めることができた。

 ゼルドとゾナゴンはフェセクへの小言を話していたところだった。


「ったく、フェセクの奴。ちったぁ協力するってことを覚えろよなぁ。いつの間にかいなくなってんだから。アイツは飯抜きだな。と言ったところで、怯むたまじゃなさそうなのがまた腹立つよな!」

「ぞな」


 ラミエルは戻ってきたゼルドに飛び付いて必死で訴えた。


「あのね、ゼルド! 聞いてちょうだい!」

「あ? ラミエル、お前元気になったのか」

「元気とかじゃなくて! 一大事なのよ! リュートが変態なのよ~!」

「……はあ? 何を言ってるんだお前は」


 興奮気味のラミエルの話をゼルドはまともに聞いていなかった。リュウトとラミエル、二人の日頃の行いの差を見ていればどちらが信頼に値するか明白だったからだ。ラミエルの言ってることは、だいたい間違っているだろう。


「あのな、ラミエル。リュートのことをあんまり悪く言うのはよせ。お前がいくら頭が良くないからって、仲間の悪口はダメだ。どうしても悪口が言いたいのなら、リュートより役に立て」

「ちょっと! 違うの! 悪口じゃないのよ! 事実! 事実を言ってるの! アリアもリュートが変態なわけがないからフェセクだって言ってたけど、あれは絶っ対にリュートよ! だって! ねえ? ちょっと聞いてるの、ゼルド!」

「お……」


 ラミエルが暴れているちょうどそのとき、アリアが帰ってきていた。目には今にも溢れだしそうな涙が溜まっている。ゼルドと肩に乗るゾナゴンは焦り、うろたえた。


「アリア? ど、どうしたんだ……」

「泣いてるぞな?」


 アリアは先程のラミエルのようにゼルドに飛び付いて泣きだした。


「ゼルド! ゼルドぉお!」

「うおっ」

「リュウトさんが! リュウトさんがっ!」

「どうしたどうした」


 アリアはあの『悲しい出来事』を自分の口から説明できなかった。したくなかった。口に出すと、あの悲惨な光景を再び思い出してしまうからだ。

 アリアはその場でへたっと座り込んでしまった。


「もう、もう、リュウトさんのことが好きなのかわからなくなった! うううううっ! うわぁあーんっ」


 しっかり者のアリアらしくない泣き方に、相当嫌なことがあったのだろうとゼルドは想像したが、リュウトがアリアの嫌がることをしたとはとても思えない。


「おいおい……。あのリュートが本当に何かとてつもない変態なことをしたのか……? 嘘だろ?」

「だから言ったでしょ! リュートが変態なんだって! ああっ! アリア! 泣かないで! あたしたちは被害者よ! あのど変態をどーにかしないとダメなのよーっ!」


 アリアとラミエルが大声でびええんびええんとわめき散らす中で、こちらへ向かってくる大きな足音が聞こえてきた。

 ゼルドとゾナゴンが音のする方向に顔を向けると、二人は顔を蒼白させた。

 見てはいけないものを見てしまった。


「あっ……アリア!」

「ひえっ! 後ろを向くぞな!」

「え?」

「いや、こころを落ち着けてから振り返れよ……」

「ぞな……」


 足音の持ち主は、アリアの背後で歩みを止めた。


 アリアは全身に嫌な予感が駆け巡った。


 アリアの背後で立ち止まったその人物は、男だった。背が高く、黒いマントに身を包み、マントと同じく漆黒で、肩まで伸ばした長髪と、特徴的な冷たい瞳をしていた。瞳は、エメラルド色だ。


「え?」


 アリアが振り返ると、そこにはかつて尊敬していた兄王子ソラリスが立っていた。冷たい瞳でアリアを見下している。


「――久しぶりだな、アリア」


 ラミエル、ゾナゴン、ゼルドはうひぇーという情けない悲鳴を上げた。


「こんなところでソラリスに遭遇してしまったぞなー!」

「きゃああああああーっ! いやーっ! まだ死にたくなーい!」

「アリア! そいつから離れろ! こっちへ来い!」


 アリアは涙を拭った。リュウトのことで悲しい思いをしていた気持ちは、遥か彼方へ飛んでいってしまった。今は、冷静な怒りがフツフツと煮立っている。


「……そういう冗談は、わたしの前ではやめて」


 ここまで腹が立ったのははじめてだと、アリアは奥歯を噛み締めた。


「ふふふ。恐怖に怯えると思っていたんだがな……」

「あなたの変身は、うわべだけ。兄様はわたしをアリアとは呼ばないのよ、フェセク……っ!」


 その場で、アリアだけはソラリスが偽物で、フェセクが化けた姿だとわかっていた。

 フェセクはソラリスに扮したまま、大笑いをした。


「では、今度から気を付けるか。お前の影の中に潜ったときに見た、一番暗い記憶の中にいる男を真似してみたが……。欺けなかったか。ふふ……まあいい」


 アリアは怒りで身体が震えだした。


 ――やっぱり許せない。


 フェセクに対して少しでもいい人かもしれないと思ったのは完全に間違いだった。この黒魔法の使い手だけは信用してはいけない。ハッキリした。人の嫌がることだとわかった上でやる人間に、いい人がいるわけがない。


 アリアが殺意に近い感情でフェセクを睨み付けていると、フェセクを追ってきたリュウトが出てきた。


「あっ、変態のリュート」

「ぞな」


 ラミエルがリュウトを見つけると言った。リュウトはラミエルを無視した。


「あれ? フェセクは?」


 リュウトはキョロキョロと見渡したが、フェセクはいない。

 それどころか――。


「うわおっ!」


 アリアの前にソラリスが立っていたので、驚きのあまり失神しそうになった。

 しかし気絶している場合ではない。


「そっ! ソラリス! なんでこんなところに! いきなり現れるとビビっちゃうよな~!」

「……」


 ソラリスフェセクは答えなかった。


「あ、あの……。最近ぶりだね、ソラリス……」

「……」

「リンダを助けるために無我夢中で濁流の中を泳いでいたとき、突然夢の中に行っちゃって……。そのときぶりだね? って、あ! あれって夢だったのかな。すごくリアルだったな~。テンション上がっちゃってたけど、オレだけだったのか~?」

「……」

「あの……。ソラリスはやっぱり……敵なのかな……。戦わなくちゃいけないのかな……。いや、確かに、倒しますって言ったことはあるんだけど、できることならまたみんなで平和に暮らせたらいいなって……。オレはそういう道を探していきたいと思ってるよ……」

「リュート様」

「ええっ? ソラリス! オレが呼び捨てなの気にして怒ってるの? だから様付け? ま、まいったな~」

「リュート様、ワタクシでございますよ」


 フェセクは化けたまま、両手を広げて優雅に一回転してみせた。その動きで、リュウトはようやく目の前のソラリスが偽物だとわかった。ソラリスがそんな動きをしたらキャラ崩壊もいいところだ。


「え? あ、そ、そうだよね。やっぱりフェセクだよね。こんなところにソラリスがいるはずないし……。えー、結構似てたね~!」

「似てない!」


 アリアが怒号した。


「うひゃ……アリアこっわ」

「フェセクも! リュウトさんも! 金輪際兄様を侮辱しないでっ!」


 アリアは走ってその場を立ち去った。


「えっオレも……?」

「アッハハハハハハ! 怒らせてしまいましたなァ! 愉快愉快!」

「フェセク……。君の能力は素晴らしいけれど、人に嫌がらせをするのはダメだよ……」

「ほォオ~~~~~~?」


 ソラリスの姿のまま、フェセクは指パッチンをした。すると今度は、アリアになった。


「うっ! あ、アリアにぃっ!」


 アリアはリュウトの腕にすり寄った。アリアのない胸がリュウトに当たって、少年は顔を紅潮させた。


「うっ!」

「ああ~ん許して、リュート様♡ 何でもするから! そうだ、スカートたくしあげちゃう♡ 今日も下着の色はピンクだよ~! ほら、見て見て♡」

「うっ! あっ! あっ! あっ!」


 アリアがゆっくりとスカートを持ち上げていくと、細い両足があらわになっていった。その白い足に目が釘付けになってしまうが、リュウトは首を振って煩悩を振り払った。


「アリア! やめっ! じゃない! やめようフェセク! それだけはやっちゃダメだあっ!」

「ええ~? なんで? こーいうの、リュート様好きでしょ?」

「好きだよおおっ! でもダメだ! それに、アリアはそんなしゃべり方しないし、竜に乗るからスカートの中は……見えていいやつだし……ほんとはちょっとこう……いや、なんでもない! と、とにかく、人に化けるのはよくないからやめよう!」


 アリアが叫んだ「金輪際侮辱しないで」という言葉が、頭の中で何度も響き渡る。


「ああ、アリアもこんな気持ちだったんだ……?」


 アリアがリュウトとフェセクの両者に怒ってしまったので、今夜はリュウトたちだけ別の場所で眠ることとなった。アリアとラミエルをドン引きさせた例の湖のほとりだ。


 リュウトはなかなか寝付けなかった。

 アリアに嫌われてしまった。

 当然だと思った。

 アリアを傷付けてしまった。

 その後悔の念が押し寄せて、眠る気になれなかった。


「はーあ」


 寝返りを打ってからフェセクの方を見ると、彼も全く眠っていなかった。ニヤニヤしながら無言でリュウトを眺めていた。


「えっ、ずっと見てたの」

「はい♡」

「あのねえ、フェセク」


 リュウトは身体を横にさせたまま続けた。


「アリアを怒らせるのはやめてほしいんだよ。オレにとってアリアは聖域なの。汚されてはいけない神聖な存在……いわば女神なんだよ。アリアとはじめて出会ったのはもう二年も前になるのかな。って、そんなになるのかぁ。オレはこの世界の人間じゃないんだ。気が付いたらリト・レギアの山の中にぽつんと放置されてて……飛竜に襲われそうになったときに助けてくれたのがアリアだったんだ。強いし可愛いし凛々しいし、王女様で、住む世界が全然違うのにさ、すぐ仲良くなれて。一緒にいて楽しいはじめての女の子だったんだ。こっちの世界は東京より全然キッツいし、しんどいんだけど、学校でさ、ぼーっと雲を眺めてる時間を過ごすより、いいのかもしれない……。こっちには、自分に嘘をつかなくていい仲間たちがいるからね……。ゲームもできないし、ジャンクフードやスナック菓子みたいな美味しいものをめったに食べられないけど、やっぱり人間関係が気楽っていうのがありがたいね~。あ、ラミエルは別だな。あいつすぐオレの悪口言うからな。しかもアリアに告げ口するんだよ。嫌な奴だよな~。だけど現実の女子よりはずっとマシだよ。陰湿じゃないから。あ、そうでもないか。……オレはさ、アリアには笑顔でいてほしいなってずっと思ってるんだ。だけど怒ってるところもいいと思ってる。なんて言ったらまた怒らせちゃうよね……。出会った頃のアリアは、怒りよりも悲しみの方にシフトしていっちゃってた娘だった気がする。オレはさ、それがつらかった。せっかく人間関係ができるんだったら、楽しいことをいっぱいやりたいよね。アリアを笑顔でいさせるために、オレには何ができるんだろうって考えてたんだよ、ずっと……。それがさ、アリアを傷付けたくないって気持ちになっちゃって……それが……それが……。はあ、オレはいつも偉そうに人間の悪いところを指摘してきたんだけど、醜い欲望っていうのがさ、オレの中にもあったんだ。オレにはね、シェーンっていう大親友がいるんだ。今でもリト・レギアの竜騎士をしてると思う。彼はね、立派だった。美徳の欲張りセットみたいな、よくできた人間だった……。百パーセントの清い気持ちで一緒にいられる唯一の親友だった。こういうこと言うの、本当に最低なんだけど……、オレ……オレね……。正直……、シェーンとずっと一緒にいたかったんだ……。アリアといるのは嬉しい。それは本心だ。だけど、アリアと一緒にいると、オレの身体の中のどこかから、醜い欲望が囁くんだよ……。本当は、彼女を守りたいわけでも、彼女を笑顔にさせたいわけでもない。本当は……。ああ、口にするのは今はやめておくよ。なんかさ、矛盾してばかりなんだ。それがこころって奴なのかな。人間ってのはひどく厄介だよね。オレはシェーンみたいな、心根の美しい男にはなれそうにないなぁ。もしオレがシェーンだったらさ、アホなことでつまづかないだろうなぁ。それにシェーンみたいな美青年だったら、アリアとお似合いだっただろう……。美男美女で。ああ、こういうことも考えちゃうんだ、オレ……。オレがこの世界に来てなかったら、アリアはどういう風に過ごしてたんだろう。オレはただ引っ掻き回しただけなのかな。オレがいなかった方が、案外世界はうまく回ってたりね。はは、よく楽天的って言われるけど、夜になると悪いことばかり考えちゃう癖があるんだ。だからもう寝るよ……。ふぁあ。どうでもいいことをいっぱいしゃべっちゃったね。でも聞いてくれてありがとう。自分のことを素直に打ち明ける時間があまりなくてさ。ついつい君に甘えちゃうよ。話しやすいんだよね、フェセクは……」


 フェセクは何も言わなかった。興味のない話だったので聞いていなかった。森のフクロウの鳴き声だけが辺りに響いていた。水面に映る満月が、風が吹くたびに揺らいだ。静かで、何もない夜だった。


 しかし今夜は、アリアに嫌われた事実だけが残っていた。


 これから何日間アリアはしゃべってくれないんだろうと思うと胸が痛んだが、アリアの方がもっと悲しくて痛い思いをしたのだから、この痛みは当然の罰だと思った。


 目を開けたまま、無言で何時間も過ぎ去っていく中で、ふと思い立ったときにリュウトはフェセクに頼んだ。


「さっきの、アリアに変身した奴さ、またいつかアリアがいないところでもう一回やってほしい……。一回でいいから……」

「はァ。やはりど変態ですねェ」

「うっうっ、アリア、ごめん、ごめん……」


 泣きながら、寝てしまった。


 その晩の夢は、とある聖域に踏み込む夢だった。土足で聖域を進んでいくと、最深部で女神が怒りの表情で佇んでいた。女神は一言、「リュウトさん、最低」とつぶやくと、光の魔法を放ち、聖域外まで飛ばされてしまった。泥沼にぼしゃりと落ちたリュウトは起き上がろうとすると、何故か身体が動かなかった。手足、首、胴体、頭に、あの士官学校時代に見た悪魔草に、いつの間にか絡みつかれてしまっていた。悪魔草がどんどん肉に食い込み、切り裂き、血まみれになっていった。「あれ、もうこんなに絡みつかれてしまっていたのか~。これじゃあ一歩も動けないや。ゲームオーバーって奴だなぁ。とほほ~」と言っていると、死んだ。死ぬ間際、最期に見た光景は、真っ黒な夜空だった。月の光のない、完全な闇夜の中で死ねるのなら、これ以上いいことはない、と思いながら死んでいった。


 夢主の少年にとってこの夢は、幸せな夢だった。

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