勘違いと『初恋ショコラ』2
人だかりが移動し始めたので私もそれを避けるようにして移動すると、彼が何か言ったのか人だかりが崩れ、それぞれ散っていく。
誰かを探しているのか、あるいは久しぶりに帰って来た故郷を堪能しているのか、彼はキョロキョロしながら私の正面から歩いてきた。
そのことに多少ドキドキしながらも、私もゆっくり歩いてゆく。
今の私の姿に気づくだろうか。
でも、多分、きっと。彼は気づかない。
すれ違う直前、彼はマスクで半分隠れている私の顔を見たけど、表情を変えることなく通り過ぎた。
(……ほら、やっぱり)
安堵した反面、少しだけ寂しさも募る。……もう傷つきたくなかった。
彼はきっとあの日のあのメールを最後に、都会の素晴らしさと仕事の忙しさに紛れて、私のことなど忘れたのだ。
――私だけがあの日に取り残されているだけで。
歩きながら息をそっと吐き、自宅近くの観光客の来ない公園へと向かってベンチに座る。いつもよりも歩き過ぎたせいか、少し疲れてしまった。
コンビニの袋からスポーツドリンクとサンドイッチを出し、親切にもお手拭きを入れてくれたのでそれで手を拭くと、マスクをずらしてサンドイッチを食べ始める。
太っていたころは、サンドイッチのパッケージ三つ分とか平気で食べていたけど、今はひとつのパッケージを食べるのがやっとだ。
今日も今日とて三切れ入っていたうちの一切れしか食べられず、散歩から帰ったらまた食べようと思ってそれを一旦ベンチのほうに置くと、ペットボトルを持ち上げて蓋を開けようとする。が、なかなか開かない。
「もう……なかなか開かない……握力まで落ちちゃってるよ……」
「なら、俺が開けてあげるよ」
「え?」
誰、と思う間もなく私の頭上から手が伸びてきて、手の中からペットボトルを奪うとそれを開けてまた私に戻してくれた。見上げるとそこには彼の顔があって、慌ててマスクをする。
退院したとはいえ、薬を飲み終わるまではしていてくださいと注意されていたからだ。
「い、
「遥菜を追いかけて来たから。隣、座っていい?」
私が何かを言う間もなく、彼はさっさと私の隣に座ると、ベンチの上に置いてあったサンドイッチを目敏く見つけ、食べていいかと聞いて来た。
「どうぞ……」
ぼんやりしながら返事をし、彼の顔を見ないようにスポーツドリンクを飲むと、鞄から薬を出してそれを飲む。いちいちマスクをずらすのは面倒だ。
どうして彼がここにいるのかわからない。それに、ほとんど骸骨と化したように痩せこけた私がどうしてわかったのかもわからない。
スポーツドリンクを飲みながら無意識にゴミをコンビニの袋に入れると、それを鞄にしまう。
「遥菜……久しぶりだね。随分痩せちゃったんだね」
「そうだね」
「ダイエットでもしたの?」
「そんなところ、かな」
「……好きな男でもできたの?」
「そう、だね。永遠の片思い、だけど」
そう、永遠の片思い。彼と私では……芸能人とパンピーでは、住む世界があまりにも違いすぎる。
そう自覚しながらも、ペットボトルの口を見ながら彼と話す。でも、すぐに沈黙が降りる。
彼の顔は決して見ない。
そろそろ疲れも取れてきたし、帰って『初恋ショコラ』を食べたい。それに一緒にいることが辛いし居たたまれない。
退院したし薬を飲んでいるとはいえ、病気が移らないとは思うけど、彼に移してしまっては困る。
そっと息を吐いてペットボトルに蓋をして立ち上がる。
「人の目があるし、他に話がないなら帰るね」
「遥菜、俺は、あの日の約束を……」
「……結婚もなにも、そもそも付き合ってなかったよね、私たち。付き合ってとかも言われたこともないし、あの約束は三年前に過ぎたことだし。それに、別れを切り出したの、樹さんだよね? だから、約束も何もとっくにないよ」
貴方にはあのアイドルがいるじゃない、という言葉が出かかったけど、やめた。嫉妬してると思われるのも嫌だったから。
「それじゃ」
挨拶をして、自宅方面の出口に向かって歩き出す。ずっと彼が好きだった。
諦めても心のどこかで彼を想っていた。
だから彼の顔をまともに見れなかった……迷惑だと顔に出されるのが嫌だったから。
これで終わり。
今さら自覚してもなあと半分泣きそうになりながらも、あとちょっとで出口というところで腕を掴まれ、抱き上げられた。
顔を見ると、まさかの彼。
彼が私を抱き上げたことに驚く。
「な、なななっ! 樹さん!? 下ろして!」
「どうも話が食い違ってるみたいだし、他にもいろいろと聞きたいことがあるから、それが終わるまで離さないし下ろさないよ」
憮然とした彼の顔と態度がわからず、下ろしてもらおうと暴れても、退院直後で体力も腕力も落ちきっている私では、私をがっちり捕まえている彼の腕をほどくことができなかった。
そのままの体勢で自宅でもある旅館を通り過ぎ、観光客が絶対に来ない彼の家がある住宅街へと運ばれてしまった。途中で会った知り合いのおばさんたちはニコニコしながら
「あら、樹くん。やっと遥菜ちゃんを捕まえたのね!」
とか
「遥菜ちゃんを逃がすんじゃないわよ!」
とか
「あの娘と樹くんのお母さんのせいで、樹くんも大変だったわねえ」
とか、私にしてみれば意味不明のことを言われて、彼は嬉しそうに頷いていたのが不思議。
彼の家の玄関で下ろされ、「上がって」と言われて中まで押し込められる。仕方なく靴を脱いで上がると、また抱き上げられて二階にある部屋に連れて行かれてしまった。
「コーヒーを入れてくるから。……逃げるなよ」
彼にそう言われ、仕方なく頷く。初めて上がった、彼の家と彼のものらしき部屋。
それが珍しくてキョロキョロと見回すと、机の上に写真が立てかけてあったのを見つけた。見たいような気もするけど、見ていいのかわからない。
結局好奇心に負けて、その写真を手に取って固まってしまった。
その写真は、彼との熱愛報道で騒がれた、あのアイドルと腕を組んで映っている写真だったから。
(もう、無理。……逃げよう)
逃げるなよと彼に言われたけど、私にはこれ以上話を聞くことなんてできない。ましてや、相手のアイドルとの話なんて聞きたくない。
そう思って振り返ろうとしたら、コーヒーの香りとカタンという音のあとにうしろから手が伸びてきて、片手は私の腰に回され、片手は写真を持ち上げていた。背中には、初めて感じた彼の体温。
彼の行動がわからず戸惑う。
「あの……」
「こいつ……俺の隣に写ってるやつ、俺の親戚なんだ」
「……………………はい?」
帰るから離してください、という言葉を発する前に彼からもたらされた情報に、間抜けな返事を返してしまう。
「親戚っていっても、すごい遠縁なんだけどね。こいつ、結構傍迷惑なやつでさ。自分がアイドルって自覚がないのか、テレビ局だろうがなんだろうが俺を見つけた途端に話しかけてくるし、勝手に腕を組んでくるんだ。事務所の社長や仲間やマネージャーには、こいつが親戚って話してあるからある程度のことは黙認してくれているけど、さすがにところ構わず腕を組むのはやりすぎってことで、こいつの事務所やマネージャーには抗議したんだけど、ちっとも聞かなくて」
そんなことを言う彼の声はすごく冷たい。
そんな話をしながら彼は写真立てから写真を抜くと、その写真をビリビリと破いてゴミ箱に捨てたから驚く。
「写真、破いていいの?」
「もともと撮りたくて撮ったわけじゃない。この写真のせいで俺と事務所は迷惑を被ったしね。まさか久しぶりに帰って来た家の、しかも俺の部屋にまで飾ってあるとは思わなかった」
どうせ飾ったのは母さんだろうけどと言いながら、私をテーブルが置いてある場所に連れて行って座らされた。しかも、所謂恋人座りというやつで、彼は私を逃がさないとばかりに、うしろからがっちりお腹と胸の下辺りに腕を回している。
「ねえ、遥菜……まずはいろいろ聞きたいんだけどさ。アドレスや番号変えたのはなんで?」
「……」
「もしかして、公園で遥菜が言ってたことに関係ある?」
彼にそう言われて体がビクッと動いてしまった。彼からの別れのメールの直前から始まった、誰からかわからない無言電話やメール、登録した覚えのないたくさんの出会い系サイトからの、ひっきりなしのスパムメールと迷惑メール。
拒否しても拒否しても、一旦は収まるものの、いたちごっこのようにまたそれを繰り返していた。
電話に出ることに怯え、メールを見たり消すことに対する日々に疲れてしまって、ちょうど機種変できる期間も過ぎていたし、もしかしたらと待っていた約束の日の連絡もなかったからついでにとばかりに解約し、電話会社自体も変えてしまった。
そんな話をしたら、彼が溜息とも怒りとも取れるような感じで鼻を鳴らした。
「先に言っておくけど、俺は『別れよう』的なメールは一切送ってないから。その携帯というか、メールは残ってる?」
「メールは覚えてないけど、携帯なら家に帰ればあるよ」
「なら、あとで見せて」
「うん」
頷くと彼はホッとしたかのように、私の肩に頭を乗せた。正直、彼がなんでこんな行動を取るのかがわからない。
それに、いつまでもこの体勢は私の居心地が悪いし、初めてのスキンシップにドキドキして心臓がもたないかもしれない。
そんな私の内心をよそに、彼はそのままの体勢で話をする。
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