勘違いと『初恋ショコラ』1

 布団の上で、ブーッ、ブーッ、と震えている音がする。震えているのは私のスマホ。

 ちらりと画面を見ると全然知らない番号だった。

 私は基本的に、知らない番号には出ない。誰か知り合いだと困るとこだけど、多分教えたのは母か姉だと思うから、あとで誰に教えたのか二人を問い詰めればいいだけの話だ。


「あー、もう! 鬱陶しい!」


 小声で呟きながら、スマホを布団の中に押し込める。夜の九時過ぎでテレビ放送のファンタジー映画を見ながら、お見舞いとして持って来てもらったコンビニスイーツ『初恋ショコラ』を食べているというのに、電話の着信を告げるスマホのバイブは鳴り止まない。


 鬱陶しいから出ようか。


 周りを気にしながらそう思いスマホを布団から取り出して持ち上げた途端、バイブが止まった。これ幸いとさっさと電源を落とし、映画の続きを見る。



『初恋ショコラ』とは、全国チェーン展開のコンビニのチョコレートケーキで、CMキャラクターは国民的アイドルグループが努めている。ケーキのパッケージは、透明なプラスチックの容器と黒色のフタに金のリボンが施されていて可愛いし、フォークでもスプーンでも食べられる硬さのケーキなのだ。

 しかもコンビニスイーツだからお値段もお手頃。

 アイドルグループがそれぞれの個性を生かしたCMを展開し、従来のチョコレートケーキに比べてカロリーオフとくれば、売れないわけがない。


 そのキャッチコピーが


『ケーキと僕のキス、どっちが好き?』


 だ。あまりにもクサ……ではなく斬新で、私の周りでは男性は口説き文句として、女性はアイドルとのキスを妄そ……想像を膨らませるのに役立っているらしい。

 ケーキを食べながらそんなことを考えていたら丁度CMになり、劇場公開前の映画の番宣やら車のCMやらをやっている中で、『初恋ショコラ』のCMも流れる。

 今やっているのはアイドルグループの中の一人で、一番人気のあるアイドルだ。その顔を、私はよく知ってる。


「……嘘つき」


 なーにが、『三年たったら結婚しよう』だ。その約束は果たされることなく、約束の日から更に三年も過ぎている。

 片や国民的アイドル、片やパンピー。昔付き合っていた――あれを付き合っていたというのかどうかは別として――からといって、簡単に結婚できるはずもない。



 今の場所に引っ越して来たのは私が中学二年の時で、父が仕事を辞めて家業を継ぐためだった。温泉街にあるそこそこの大きさの旅館。父はその旅館の跡継ぎだった。

 父は経営の傍ら料理を学び、母は旅館の仕事を覚えながら、父と一緒に経営と女将修行を祖母にされていた。私も学校に行く傍らで休みの時や暇な時は洗い物の手伝いをしたけど、さすがに仲居の真似事まではしていない。というか、許されなかった。


 彼とは幼馴染とまでは行かないけど、知り合い以上友達未満という感じで、近所に住む子供たちにとっては面倒見のいいお兄さんというポジションだった。まだ引っ越して来たばかりで知り合いという知り合いもなく、常に一人でいる私に声をかけ、その輪の中に入れてくれたのも彼だ。

 そしてその輪にいた彼を含めた同年代の人や年下の子供たちは、誰一人私の太った体型を笑ったり馬鹿にしたりすることもなかった。

 その輪の中にいるうちに彼とだんだん仲良くなり、恋をして付き合うようになったのは、彼がいつの間にか芸能人となりアイドルとして人気が出始めたころ。彼が十九歳、私が十五の時だった。

 そのころは、休みのたびに帰って来ては子供たちと遊んだり私とデートしたりしていた。けれど、彼が所属しているグループの人気が上がるにつれて帰って来る割合も減り、私とのデートもなくなった。

 その分、電話やメールで連絡を取っていたけど、付き合い始めて一年くらいたったある日突然『オフが取れたから』と言って帰って来た。

 帰って来た日にデートして食事をし、その帰り道に真剣な目をした彼が


『もう、遥菜はるなと離れているのつらいよ。あと三年頑張ったら結婚してもいい、って事務所の社長に許可を取ったから、三年たったら結婚しよう』


 と、そう言った。私は相変わらずの体型だったし、抱かれてはいなかったけれど、彼はいつも『そんなこと気にしなくていいの!』と言ってくれた。それが嬉しかったから、私は頷いた。


 でも。


 日々の仕事が忙しいのか、電話もメールも日に日に減り、半年後には短い文章の別れのメールを最後にパッタリと音沙汰がなくなってしまった。そのことについて私の方から何度かメールをしたけど、その返事すらもこなかったから、いつしか私も連絡を取るのを止めてしまった。

 間の悪いことに彼ととあるアイドルとの熱愛報道を……腕を組んで楽しそうに笑っている彼らの写真を週刊誌で見てしまって、メールが来なかったことに納得せざるを得なかったというのもある。

 だからその時に気づいた。一年も付き合っていながら、彼に一度も抱かれていないどころか、キスも、手を繋いだことすらもなかったことに。

 そして、彼から『好きだ』とも『付き合おう』とも言われてないことに。


 その全てに愕然とした。


 私一人が勝手に浮かれていただけで、彼にからかわれていただけだったんだと気づいた時には既に遅く、私は泣くことしかできなかった。

 自室にいる時はたくさん泣いて、たくさん落ち込んで。

 そんな気分を吹っ切りたくて、兄と姉がいるから旅館を継ぐことはないからと独り暮らしを始め、大好きな本に囲まれる仕事を選び、本屋で働くようになった。

 毎日一生懸命働いて、本に癒されて。

 そしていつしか私は、諦めた。

 諦めて胸の痛みが消えたころ、既に一年近くたっていた。約束の日は当然のことながら、彼からは一切連絡もなかったから私は電話帳からその存在自体を消し、とある問題からも逃れたくて機種変をした。




 テレビ放送の映画も終わり、テレビのスイッチを切ると布団に潜り込む。メールが来てるかどうかの確認をするために、スマホの電源を入れて驚いた。

 着信とメールがそれぞれ二十件。メールは母や友人、メルマガなどがほとんど。

 中には知らないアドレスのものも何件かあったけど、着信全部がその知らない番号からのものだった。

 一体誰だったんだろうと思いつつも着信履歴を全部消し、メールをチェックして驚く。彼からのものだとは思わなかったから。


【番号とアドレス変えたんだね】


【遥菜、今どこにいるの?】


【電話に出て】


【遥菜、話があるんだ。お願いだから電話に出て】


 彼からのメールのほとんどはそんなのばかりだった。

 六年近くなった今になって話があるなんて、今さらなんだというのだろう。もうどうしようもないのに。

 溜息をついてから彼からのメール全てを消し、他のメールをチェックして、返信できるものは全部返信した。母や姉には『プライバシーの侵害! 勝手にアドレス教えないで! 客商売やってるんだから、それくらいわかるでしょ!?』というメールを送ってからまた電源を落として眠りについた。




 私は今、入院している。いや、明日退院するから、入院していたになるのか。

 病気になった原因とかはともかく、入院する三ヶ月前まで七十キロ近くあった体重が、その病気のせいなのか四十キロ代前半まで落ちた。病的な痩せ方だから、かなり見た目は悪い。

 身体も、顔も、痩せたと言うよりは痩せこけたといった感じで、体力も落ちたためか病棟を歩くのも大変だった。

 それでも、明日退院できることがすごく嬉しい。


 朝起きて看護師さんに渡されたマスクをして鞄に荷物を詰めていたら、兄が迎えに来てくれた。しばらくぶりに、私のガリガリに痩せた顔や身体を見た兄がすごく驚いた顔をしたあとで心配そうな顔をしたけど、病気のせいだからと笑って誤魔化し、兄に荷物を持ってもらって病院をあとにする。

 独り暮らしをしていた家に送ってもらったけど、兄は「体が心配だから」とその場であちこち電話をし、あっという間に実家に引っ越しさせられた。

 仕事もとっくに辞めていたし、旅館を手伝おうにも、体力も病気のこともあって手伝うこともできなかった。


 退院し、実家に帰って来て一週間。

 私は体力作りのために周囲を散歩するようになった。当然のことながらマスクは必須。

 その途中『初恋ショコラ』が売っているコンビニチェーンを見つけ、ちょうど喉が渇いたのもあってスポーツドリンクと一緒に買うことに。入荷したばかりだったのか、棚にはたくさんの『初恋ショコラ』があった。

 スポーツドリンクと『初恋ショコラ』とサンドイッチを買ってコンビニを出ると、また散歩に戻る。

 温泉街特有の、ゆで卵みたいな硫黄の匂い。それを嗅ぎながら観光場所でもある湯棚周辺をゆっくり歩いていたら、遠くのほうから悲鳴が上がった。

 そちらを見ると、遠巻きにしながらも人だかりができている。

 この温泉街はたまに芸能人が来るから、きっとまた誰か来たんだろうくらいにしか思わず、それを避けるように集団の横を通り過ぎようとしてびっくりした。


 輪の中心には、彼がいたから。


 その顔を見ただけで、ズキンと胸が痛む。

 諦めたはずなのに、胸の痛みもなくなったはずなのに、顔を見ただけでまだこんなにも胸が痛い。まだこんなにも好きだったんだと思い知らされた。


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