告白
どうやら、この華という人物はかなりマイペースな女性らしい。
あれよあれよという間に外に連れ出された凛月は、あの家で華以外誰も知らないという、見晴らしのいい天然の展望台に来ていた。
「それにしても、私なんかに教えていいの?」
木々の葉に絶妙に隠されたその場所は、眼下に広がる遠月市を一望できる。隠れた名所というやつだろうか。華が他の人には秘密にしたがるのも分かる気がした。
「ええ。凛月様だけは、特別です♪」
そう言いながら、昼下がりの陽の光をちょうどよく遮る木陰のベンチに、2人で腰かける。
「ではさっそく。久遠家と、そしてわたくしたち妖についてご説明をさせていただきます」
心なしか、いつもと違って彼女の周りの空気が緊張しているように感じる。
そのせいだろうか。前置きもなく、華は突然本題を切り出した。
「まず前提として、大多数の人間は我々を視ることは出来ませんし、触れることもできません」
そんな華にわずかな違和感をおぼつつも、凛月はうんうんと頷く。実際、ここに来るまで凛月には妖怪が見えていなかったのだから。
「ただし、いわゆる霊感のようなものがあれば話は別です。そして多くの場合、そういった能力は遺伝しやすいのです」
では、父と母のどちらか……いや、今の状況から見て久遠家は霊感がある家系、ということになるのか。
「久遠家は、江戸時代にこの遠月を最初に開拓した豪農だと聞いています」
想像以上にとんでもない経歴を持つ母の家系に、凛月は心の中で舌を巻く。
「恐らく、その時代から妖のことが視えていたのでしょう。山だらけだったこの地を、ダイダラボッチの力を借りて人の住める土地にした。そうして久遠家の方々は日の本でも有数の権力者となったそうです」
たしかダイダラボッチというのは、それこそ山ほどもある巨大な人の形をした大妖怪だ。妖怪にあまり詳しくない凛月も、なにかの映画で見たことがある。
「その協力の見返りとして、久遠家はいくつかの山を妖怪の住処として提供する。そうして差し出されたのが、この伊吹山を含む遠月三山です」
「なるほどなるほど」
たしか、角牛山と九狐山、だっただろうか。その2つの山でも、ここと同じように妖怪が暮らしているということになる。
「そして、そんな久遠家の現当主に当たるお方が、凛月様、あなたです」
そんな突拍子もないことを、華はさらりと口にした。
「へ、へええええええ?」
突然やってきた驚愕の事実に目を白黒させながらも、なんとか意識を保とうとする凛月。
「まあ当然といえば当然のこと。久遠の血を引いているのは、今や凛月様しかおられませんし」
「……そう、なんだ」
母は一人っ子と聞いていたし、たしかに過去に預けられた家は全て父方の親戚だった気がする。
「ここまではよろしいですか?」
「う、うん。なんとか」
「では、続いて我々、
少し、嫌なことを思い出してしまった。
ハイペースで進んでいく華の授業に、凛月は置いていかれまいと気持ちを切り替える。
「多くの妖は人間の心の闇から
「心の、闇?」
「はい。それは恨み、嫉妬、怒り、悲しみ。挙げればキリがありませんが」
一瞬、華が何かに迷うそぶりを見せる。だが、すぐにそれをひっこめ再び語り始めた。
「……そうですね。具体例として、
淡々と言葉を紡いでいた華の表情に、すこしだけ影が落ちる。
「あれは凛月様がまだ小学生ほどの頃だったかと。冬の雨の日、とある捨て犬と出会ったのを憶えていらっしゃいますか?」
「小学生の頃、か」
それは凛月にとって、一番触れたくない記憶。
「……あ」
それでも、捨て犬と出会った経験なんてそうそう多いはずもなく。しばらくして、凛月はとある河原での出来事を思い出した。
「もしかして、駄菓子屋のおばさんの」
昔、凛月がボロボロの傘で冷たい大雨の中を下校していた時。通学路だった河原の草むらで、真っ黒な捨て犬を見つけたことがあった。
雨でふやけてしまった段ボール。その中で震えていた泥だらけの子犬を、凛月は当然のように抱きかかえ家に連れ帰った。
だが、当時世話になっていた親戚からは飼育の許可が下りなかった。泣きながら子犬をもといた場所に返しに行く途中で、近所の駄菓子屋の店主に声を掛けられ、そこで飼ってもらうことになったのだった。
「そうです。その子犬が、
「……え、ええ!? 華、どう見ても人間だよ!?」
ついさっきだって、そのけしからん身体で凛月のことを誘惑していたのだ。
目の前の女性の出で立ちは、明らかに人間のそれである。
「あ」
ふさふさとした、立派な耳と尻尾を除けば。
「ええ。まぁ、そういうことです」
「なるほど……」
「まぁ、これは妖によって異なります。必要に応じて人間と似た姿に化けて生活している者もいれば、そうでない者も」
「そういえば、人間みたいに働いてる妖怪もいるんだもんね」
朝の会話を思い出しながら、凛月は頭の中を整理していく。
「はい。おっしゃる通りです」
まるで教師が生徒を褒めるように、華は優しい笑顔を向ける。
それにしても、さっきから華の喋り方に妙な違和感を覚える。自分のことのはずなのに、まるで第三者目線で見てきたかのような……。
「ああ。花というのは、わたくしではなく、あなたを昨晩迎えに行ったあの子ですよ。あの時は狼の姿でしたが」
凛月の考えが手に取るようにわかるのは、彼女が妖だからだろうか。
華は頭上にあった木の枝を短く折り、足元の地面に『華』そして『花』という文字を掘る。
「この身体には、2つの魂が混在しているんです」
「そ、そんなこともあるの」
「はい。まぁ妖は割となんでもアリな存在なので」
道理で口調や雰囲気が違うわけだ。どうやら、彼女たちを人間の常識で捉えてはいけないらしい。
「そろそろ、続きをお話しても?」
「あ、うん。大丈夫だよ。ありがとう」
「では」
視線をはるか先まで広がる青空に向け、華は自らとその片割れを語る。
「花は、もともとただの飼い犬でした」
どこか遠くを見つめる紅と黒の瞳が、鈍く光った。
「彼女は幼いころに人間の手によって親兄弟から引き離され、透明なケースに詰め込まれ、金で買われ。挙句の果てに引っ越しという勝手な事情で、飼い主に一度も抱かれることなくごみのように捨てられた」
「…………」
それは……もしかしたらよくある話、なのかもしれない。それでも、凛月の胸はぎゅっと絞られるように痛む。
「寒空の下、一人きりで震えるうちに花の身には恨みつらみが募っていき、とうとう先祖返りを起こしてしまいました。そうして、花の
あの時は知りもしなかった事実が、次々と語られていく。
「ところで。凛月様は、犬神、という妖怪をご存じですか?」
ふるふると、凛月は首を横に振った。
「遥か昔、生きた犬に苦しみを背負わせたまま殺すことで、他人を呪うための道具とする。そうやって生み出された妖怪が犬神です」
「そ、そんな──」
ひどいことが、と言いかけた凛月を、華は笑顔で見つめる。
「わたくしは昔、ただの野良犬でした。気付けば親はおらず、それでも腹を空かした弟や妹のために危険と知りながら人里に下りました。そして、とある人間の仕掛けた罠にかかってしまったのです」
その笑顔は、いつもとは違って少しぎこちない。
「その人間にわたくしは生きたまま歯を抜かれ、皮を剥がれ、脚を折られ、目玉をえぐられ。そうして最後には首を切り落とされ」
「なっ……」
その光景を想像しただけで、息が詰まる。
だがそれは、そんな他者の同情なんてくだらないほどの苦しみだったはずだ。痛かっただろう。辛かっただろう。優しい華のことだから、きっと自分が死んだあと弟や妹はどうなるんだと心配だっただろう。
「その結果、わたくしはまんまと犬神に成り果て、人間を何人も呪い、殺し。最後には人間に
「…………っ」
もはや、凛月は言葉をかけることすらできずにいた。
あの朗らかで柔らかい笑顔の裏に、そんな壮絶な過去が隠されていたのだから。
「ですが、花はあなたのぬくもりに触れたおかげで完全な犬神とはならず、その天寿を全うすることができました」
終始、微笑みを崩さない華。それでもどこか薄暗い影が差すその顔を、木漏れ日が照らし、華は目を細めた。
「そ、それは……」
その一方で、凛月は
「わたくし自身も昔のことはぼんやりとしか思い出せませんし、思い出す必要もないと、今では思えます」
そう言いながら、華は隣に座る凛月へと向き直る。
「すべて、あなたが泥だらけのわたくしたちを抱いてくれた、そのおかげです」
人間を恨め。一生をかけて恨み、
それだけが、犬神となってしまった華を突き動かしていた。
祓われた後ですら、自らの呪いのせいで輪廻の輪に還ることができずにいた。
でも、あの時。生まれて初めて人の優しさに触れた。
それはたったの数分だったけれど。それだけで、救われたのだ。
「私は……全部、自分のためだよ」
あなたのおかげで救われたのだと、そう言われても凛月は顔を上げることができない。
「あなたたちを助けたのだって、私が誰かに褒めて欲しかっただけ。ただ──」
──ここにいていいよって、誰にでもいいから、そう言われたかっただけ。
確かに、結果として凛月の優しさは彼女たちを救ったのかもしれない。でもその優しさは、華たちのためではなく全て凛月自身のためにあったもの。
「ふぅむ。何を悩まれているのかわかりませんが」
それを優しさと言うにはあまりにも──
「別に、それで良いではありませんか」
「……え?」
華の手がその頬に添えられ、凛月は顔をあげる。
「花は……いいえ。わたくしたちは、あなたの心の奥がどうであれ、あなたの行動に救われたからこそ、こうしてここにいられるし、本来の寿命を超えて大好きなあなたと言葉のやりとりができる」
一言一言を噛みしめるように、華は言葉を紡いでいく。
「たとえそれがご自分のためであったとしても、みじめな捨て犬を呪いから救ったという事実は変わりません。そして、恨みに
自己嫌悪に揺れる瞳を、紅黒の両瞳がまっすぐ捉えて離さない。
「わたくしはあなたにとても感謝していますし、花もきっと同じでしょう。彼女は恥ずかしがり屋なので、直接は言えないかもしれませんけど」
まるで自分のことの様に、自嘲気味に言う華。そんな彼女に、凛月もつられて思わず口元がほころぶ。
「少なくともその気持ちだけは、誰にも揺るがすことのできない真実です」
「華……」
「ですから、わたくしたちは凛月様が心の底から笑えるようになるまで、あなたの隣を離れません」
こつん、と華の額が、凛月の額に触れる。
「それが、
情けない主人を、自分の精一杯で元気づけたい。感謝を伝えたい。ただ、それだけ。
そこにいるのは、妖でも呪いでもなく、立派な一人の人間だった。
「……わ、私は」
誰かの役に立ちたい。いや、立たないといけないんだと、無意識にそう思っていた時があった。
人一人が持つ優しさの量には限りがあって、人に優しくした分、優先して自分も優しくしてもらえる。見てもらえる。ここにいると認めてもらえる。
だから学校では積極的に面倒事を引き受けたし、どんなに邪険に扱われようがどの親戚の家でも家事を手伝い迷惑をかけず、いい子でいようとした。
でもそれは、間違っていた。
『ほんと、便利なやつで助かるわ』
『優しすぎて、逆になんか恐い……』
『ただの目立ちたがりでしょ』
『何をされても笑ってて、気味が悪いったら』
『髪も目も変な色だし、ちょっと引くよね』
ある時、仲がいいと思っていたクラスメイトや親戚たちに、陰でそう言われていることを知った。その瞬間、凛月は他人との関りをあっさりと絶った。文字通り全ての関係を。
高校入学と同時にひとり暮らしを始め、学校にも必要最低限しか行かず誰とも会話をしない。
別に誰かの瞳に映らなくても、それなりのお金さえあれば暮らしていけた。そうして面倒なことから解放されて、今までが嘘みたいに心も身体が軽くなった。それこそ羽が生えたみたいに。
だが、生きる目的や理由みたいなものも、その重みと一緒に失ってしまったのだと思う。
将来の夢もやりたいことも、何もない。
凛月はたった一人、空っぽの惰性だけで生きていけるほど強い人間でもなかったのだ。
「……ごめん」
凛月の手は、自然と華へ向かう。何か言いたい。彼女の決意に対して、何か言ってあげたい。ありがとうでもこれからよろしくでも、なんでもいいから。
だけど、できない。
これだけ自分のことを慕ってくれている人にさえ、傍にいていつかまた拒絶されたらと思うと、足がすくむ。怖くて怖くてしょうがない。
宙ぶらりんの手は、結局そのまま震えながら落ちていく。
「凛月様」
それを、華の手のひらが、優しく受け止めた。
「あなたが抱えているものを、わたくしたちは全て理解できませんし、肩代わりもしてあげられません」
握ることはせず、ただただ暖かく受け入れる。
「でも、少しだけ分けてもらうことは、できると思っています。そうやって人間は友人だったり、家族といったものに、なっていくのではないでしょうか」
わたくしは人間ではありませんが、と困ったように笑う華。
「……あなたは」
──いったいどこまで私のことを。
幼い頃の傷というのは面倒だ。本人ですら視えないし、視れないことがある。生き物はいつか痛みに慣れてしまうから。
「ねえ、華」
そんな厄介なものを、自分にも背負わせてほしいと言ってくれる人なんて、一人もいなかった。
「私、あの家に……いても、いいかな」
だから最後に、もう一度だけ。今回だけ。
凛月の言葉が、指が、震えながら華を掴む。弱々しくも、結びを求めるように。
「……凛月様」
華は、そんな凛月の身体を抱き寄せる。伝われ伝われと妖の身で神に祈りながら、ありったけの想いをのせて、答える。
「もちろん。これからあそこは、わたくしたちと、あなたの家になるのですから」
それは、凛月が生まれてはじめて貰った
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