華の誘惑

「あー、それは垢嘗あかなめという妖怪です」


 あれほど出てくるなと言っておいたのに……。


 そう呟きながら、凛月と共に囲炉裏を囲む華は形のいい額を手で覆い、ため息をつく。


「あふぁにゃふぇ?」


 カリカリ。もきゅもきゅ。シャクシャク。


 一方で、口いっぱいに白米とたくあんを放り込む凛月。その頬はリスの様にまんまるに膨らんでいる。そんな彼女を見て、咎めるでもなく笑顔を浮かべながら、華は説明を続ける。


「わたくしが来るずっと前から、この屋敷に憑いている妖怪です。風呂桶ふろおけや浴槽についた人の垢を舐めとる、まぁ無害と言えば無害な妖怪なのですが……」


 穏やかな印象だった華が、珍しく不快感をあらわにしている。 


「確かに害はありません。が、あれは陰険かつ常軌を逸した変態ですので! 凛月様は以後! 絶対に! 近づかない様にしてくださいね!」

「う、うん。わかった」


 ずい、と顔をこちらに寄せながら力説する華の迫力に、思わず食事が喉に詰まりそうになる。


 だが華に言われずとも、初対面であそこまで悪態をつかれては凛月も話しかける気にはなれない。


子供ガキ、か……」


 ここに来る数日前、一人っきりのアパートで誕生日を迎え20歳になった。その時はもう自分は大人なんだ、これで1人で生きていけると思っていた。


 でも実際は、全然成長なんてしてないのだと思う。


 身体ばかりが大きくなって、中身はあの時のまま。それを一瞬で見抜かれてしまったように感じて、正直母親のことよりもそちらの動揺の方が大きかった。


「凛月様?」


 凛月の変化を瞬時に察した優秀なメイドが、様子を伺うように声をかける。


「ううん、なんでもない。大丈夫だよ」


 本当にこの人には隠し事ができないなぁと、今度はちょっと困り顔。


「えっと、そうだ。さっきはごめんね、鈴くん」


 話題を変えようと、凛月はさっきから華の身体に隠れたままの鈴に声をかけた。


 先ほど洗面所で鈴の身体を放り出してしまってから、より一層距離を置かれてしまったのだ。

 

「もう。鈴、いつまで隠れてるんですか?」

「だって……。は、華おねえちゃんの、となりがいい……」


 はい。かわいい。


 凛月の頬が、焼きたてのお餅のように垂れていく。


「そうだよ鈴! ほら、風なんてもうこーんなに仲良しなんだから!」


 一方、凛月の隣に座っていた風が、ここぞとばかりに姉の風格を見せつけていく。


 ギュッと凛月の腕を抱きかかえて離さない。


「嗚呼~」


 もう頬だけでなく、触れられている腕から全身とろけそうになる凛月。


 そんな凛月を、まるで不審者でも見るかのような怪訝な目つきで華が貫いた。


「あの、凛月様。先ほどから気になっていたのですが、実はそういうご趣味が……?」

「い、いやいや。いやいやいや! ちがうよ?!」


 否定すればするほど怪しくなっていくのが、なんとも不思議である。


「本当ですかぁ~?」


 ジト~っとした目で凛月の心を見透かそうとする華に、凛月は必死の抵抗を試みる。


「ほんとだってば!」

「はぁ……。悲しいかな。あるじが異常性癖者であっても、受け入れなければならぬのが従者の運命さだめ……ヨヨヨ」

「もう! 華!」

「くふふっ♪」


 昨晩の別れ際と言い、時たまこの女性はイジワルになる。


 好きな人にはいたずらをしたくなるみたいな、アレなのだろうか……? 


「そーゆーゴシュミ?」


 そんな大人なやり取りについていけない純朴の天使は、ひたすらに首をひねるばかり。


「いいの! 風ちゃんは知らなくていいの!」


 凛月はそんな天使を自らの醜い欲望にけがすまいと、両手をアワアワさせながら必死のフォローに入る。


「くっくふふ……あっははは!」

「ちょ! 華、笑いすぎ!」

「はぁ、はぁ……。ま、まあ、その件に関しては後回しにしましょうね」


 そんな凛月に笑いつかれた様子の華が、救いの手を伸ばした……かのように見える。


(あ、執行猶予ついただけだこれ)


 無駄に聡明な凛月の頭脳は、一瞬で華の意図を看破したのであった。



「それで、お母さまについてなのですが」


 こほん、と咳ばらいをして、華は居住まいを正す。


「申し訳ありません。わたくしはこの屋敷に住んで日が浅いもので、沙月さつき様のことはあまり」


 久遠沙月くどおさつき。それが凛月の母親の名だった。

 

 父親が久遠家に婿養子として入籍したため、沙月の名字がそのまま凛月にも使われている。


「垢嘗めは、それこそ数百年この屋敷で暮らしていますので当然、沙月様について詳しいはずなのですが……」


 ここが沙月の生家なのだとしたら、それこそ沙月が赤子の頃からあの老人は沙月のことを知っていることになる。

 

 だが、絶対に凛月を彼に近づけたくないという強い意志が、華の全身から溢れていた。


 まあそれ以前に、あの偏屈そうな老人が素直に教えてくれるとは凛月にも思えない。


「他にも沙月様のことを知ってる住人はおりますので、彼女たちが帰ってきたら聞いてみましょう」

「あ、やっぱり他にも住んでる人いるんだ?」


 どうやら凛月の推測は当たっていたらしい。

 

「ええ、今この場にいない物は皆、仕事で家を空けているので」

「……へ? 仕事?」


 あまりにもこの場に似つかわしくない言葉に、凛月は呆然とする。


「はい。現代の妖怪は、人間に紛れて働いている者も多いのですよ。今のご時世、妖怪といえども生きていくにもお金がかかりますからね」

「そ、そうなんだ……」


 それは凛月の想像以上に、なんとも世知辛い理由であった。


「もちろん、生吹みたいなぐーたらニートもおりますが」


 やれやれとため息をつきながら、凛月は生吹の部屋があるのだろう方向を眺める。


 だがその言葉は、無意識のうちに全く関係ないはずの人物の心を深くえぐっていた。


「うっぐぅ」

「ど、どうかされました?」


 突然呻きだした凛月を見て、慌てる華。そんな華を片手で制しながら、冷や汗を垂らした凛月は引きつった笑顔を向ける。


「い、いや。なんでもないよ……あはは」


 華は不思議そうに首をひねる。


 それも当然。


 久遠凛月、20歳。職業、フリーター。


 フリーターと言えば体裁はいいが、その実態はただの引きこもりなのだ。


 この話題をこれ以上続けては死人が出るので、凛月は慌てて別の話を振る。


「そういえば、生吹さんは?」


 華も何となく察したのだろう。何事もなかったかのように凛月の話に乗ってくれた。


「昨晩よっぽどお酒を飲んだのでしょうね。二日酔いで寝込んでいます」


「おお……」


 友人もろくにいない凛月には、20歳になってもお酒を飲む機会など皆無だったわけで。二日酔いという言葉がなんだか大人っぽく聞こえて、その心を無駄に震わす。


「ま、彼女の話は置いておきまして。凛月様の今の状況と、わたくしたちあやかしという存在。それらについて、軽くご説明をさせていただきたく思います」


 そう。色々あってすっかり忘れていたが、今朝の本題はこれなのだ。


 華の口調も従者らしくどこかキッチリしたものになり、凛月の背は自然と真っ直ぐになる。


「ところで。もう、朝食はよろしいですか?」

「へ?」


 てっきり小難しい説明が始まると思い、意気込んでいた凛月は肩透かしをくらった気分になる。


「あっ、えっと、うん。ごちそうさま。美味しかったよ」

「それはそれは、ありがたいお言葉。お口に合ったようでなによりです」


 そう言うと、急に華がずずいと全身を凛月の方にすり寄せてくる。


「……ねえ? 凛月様ぁ?」


 それはさっきまでの彼女とはまるで別人のような、ねっとりとした声音。


「ふぇ?!」


(な、なななななに?!)


 凛月は逃げる余裕も与えられず、あっという間に距離を詰められる。気づけば凛月のすぐ目の前には、華の美しい顔面と、彼女の湿った息遣いが。


(あ、まつ毛長い……きれい……)


 数年ぶりにパーソナルスペースへと他人の侵入を許したせいで頭が真っ白になってしまった凛月には、眼前の絶景をそのまま頭の中で言葉にするのが精いっぱい。


 長いまつ毛に縁取られた紅と漆黒のオッドアイ。その輝きを、小さくて形の整った鼻と唇がさらに際立たせている。


 改めて近くで見ると、その黄金比に感動すら覚える程だ。


 さらに、首筋を伝って床に流れる艶やかな黒髪からは、蜜のようにほんのりと甘い香りが漂ってくる。


(も、もうムリ……!)


 見つめ合ったまま、どれほどの時間が経っただろうか。ついにその気恥ずかしさに耐えきれなくなり視線を逸らした凛月を、ダメ押しとばかりに絶妙に緩められた和服の胸元が襲う。


 シミひとつない真っ白な首筋が、滑らかな曲線を描く鎖骨が、こっちを見てと叫んでいる。


(え、あれ? これ、お、おおおおおっぱ……?!)


 首筋、鎖骨。そしてその先に広がる2つの丘を、見ようと思えば、見れる。まさしく神業のようなはだけ具合。


 だが、それ即ち。


 見ようとしないと見ることができない、ということ。


 まるで計算されたかのように広がる蠱惑こわく的な暗闇は、覗き込もうとする獲物を待つ食虫植物のようだった。


「あ、う、うぅ……」


 行き場を失いさまよっていた凛月の手に、いつの間にやら絡むたおやかな指。そんな華の美しさと淡いぬくもりに、フラフラといざなわれた凛月というエモノはあっさり身も心も溶かされ——


「腹ごなしに、わたくしと、で・え・と♡  いたしましょう♪」


 ——なかった。


「……はい?」

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